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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ
18/64

魔法使いの妻(1)

試験的投稿になります。曖昧で申し訳ありません。

泣き声が聞こえた。

わあわあと大きく声を上げていたかと思えば、時にしゃくりあげ、時にまた形振り構わず泣き叫び、そしてそれを必死に抑えようとしては失敗して余計に涙に暮れるのを繰り返す、そんな泣き声。

果たしてこれは誰の声だろう、と首を傾げずにはいられない。頑是無い子供のものではなく、もっと複雑に悲嘆に満ちて、絶望すらも孕んで泣き喚くその声を、私は確かに知っている。知っているはずなのに、どうしても解らない。

泣かないでと言おうにも、声が出ない。抱き締めようにも、身体は動かない。ただ私にできることは、何処からか聞こえてくる泣き声をただただ聞いていることだけだ。耳を塞ぐことすらできないでいる。たったひとり分に過ぎないはずであるのに、その泣き声は、私を取り囲み、纏わりついて、私をその場に縛り付ける。

ええい喧しいわ!と切って捨ててしまおうか、振り払ってしまおうか。そういくら思えども、何故だかそれが躊躇われた。こんな、誰のものとも知れない泣き声を大人しく聞き続ける義理も道理も私には無いはずだと言うのにだ。

嫌がらせにしてはなかなか手が込んでいる。これはどんな新手の拷問なのか。ああ、もう、本当に、これはなんて、とびっきりの―――――…



「…悪夢だわ」



呟きと共に、閉じていた瞳を開くと、真っ先に目に入ったのは、最近になってようやく見慣れた天井だった。

夜目にうっすらと浮かび上がるアラベスクにも似た淡色の花柄は、以前のこの屋敷の持ち主の趣味なのだそうだが、その派手ではないが華のある品の良さは各方面から好評を頂いている。私自身気に入っており、私の功績ではないが、自慢の壁紙だ。


さて、それはさておいて。唐突に失礼。はじめましての方もそうでない方もご機嫌麗しく。どうも、私である。


さぁ、何から話そうか。

とりあえず、勇者一行の手により、五百年という時を経て復活した魔王をとうとう滅ぼした現在の我が国は、ようやく以前の平穏を取り戻そうとしていた。それは私がここでわざわざ言うまでもない、今更の事実だろう。

国の各地には未だ魔族の残党が残っており、騎士団や国属魔法使い、自衛団、傭兵ギルドへの魔族討伐依頼が絶えることは無いらしいが、それでも魔都が存続していた時と比べれば随分とマシになったのだそうだ。

一介の貴族の娘にすぎなかった私が詳しく知る由もなかったことだが、今になって伝え聞くところによると、魔王の存在そのものが魔都を成し、魔族全体の力を底上げしていた、らしい。その魔王が居なくなったのだから、必然的に魔族の力は弱体化し、以前ほどの被害はなくなったのだという。

魔王の存在に怯え、魔族の襲撃に震え、ギリギリの線で均衡を保つ政情を不安に思い、勇者一行を最後の希望と見なしてすがることしかできなかった国民達の顔には笑顔が戻り、止まっていた時がまた動き出した。

社交界においては、地方に逃げていた貴族達が王都に戻り、経済界においてもうなぎ登りであった物価がようやく以前の価格にまで下がりつつある。何より、“そちら”の方面の才能が富んでいるとは言い難い私ですら感じていた、国に停滞していた澱んだ空気が、綺麗に払拭されたことが、人々にとっては何よりも喜ばしい事実だった。


信仰心の薄い私であるが、そんな私でも、確と思い出せる。天から墜ちた光が、国を、そして世界を変えた、あの瞬間を。

魔王を勇者の聖剣が貫いた瞬間に墜ちたのだという光は、目眩がするほどに美しかった。久しく目にしていなかった太陽よりも目映く、それでいて目を焼くことはない、貴き光。誰もがその時、勇者の勝利を多かれ少なかれ確信したという。

けれどその光は、私の心に澱む昏い汚泥を祓ってはくれなかった。魔王が居なくなったとは言え、それがなんだと言うのだと、枕に拳を叩き付けた。喜ぶべきなのに、何も喜べはしなかった。嬉しいなどと、どうして思えただろう。あの時私は、涙に歪む視界を遮断するように瞳を閉じた。瞼の裏に焼き付いていたのは、天から墜ちた光ではなく、橙と紫の入り交じる朝焼けの光。もう二度と、目にすることは叶わないと思っていた、私の婚約者の瞳の光だった。


…我ながら、あの時は本当に酷かった。眠れないわ食事は喉を通らないわ何もする気になれないわで、正しく生ける屍状態であったと思う。これで、勇者一行が一人にして、我が国筆頭魔法使い兼我が婚約者殿が「実は生きてましたてへぺろ☆」とばかりに帰還してこなかったら、私は生ける屍ではなく、本当に本物の屍になっていたに違いない。


そう、我が婚約者殿が―――あの男が、生きて帰ってきてくれなかったら。

想像することすら恐ろしいその可能性を、当時の私は解ったつもりになっていた。自分にそんな権利など無いと思い込んでいたから、たった一言、「行かないで」と言うことが私の限界だった。「どうかご無事で」と願うことが、私の精一杯だった。

今にして思えば、もっと言えばよかったのだろうと思う。王からの勅命に逆らえるはずもなく、どうにもならないことだと解っていながらも、泣いて、喚いて、取りすがってしまえばよかったのだ。いいや、あんな土壇場になってからではなく、もっと早くに伝えればよかった。この背中に残る傷痕が互いの負い目になっていようとも、それでも言葉と態度を尽くすべきだった。それをしなかったのは私の意地…いいや、意地などという強さではない。虚勢という弱さゆえだ。その弱さに屈し続けたばかりに、随分と遠回りする羽目になってしまった。


長かった。本当に長かったと思う。けれど、それでも一応は落ち着くべきところに落ち着いたので結果オーライだということにしてほしい。ああ、そうだとも。落ち着くべきところ、と言えばただひとつ。


改めて自己紹介をしよう。

私の名前はフィリミナ・ヴィア・アディナ―――――改め、フィリミナ・フォン・ランセント。

勇者一行が一人にして今は救世界の英雄が一人、我が国筆頭魔法使いたるエギエディルズ・フォン・ランセントの妻である。


自他ともに認める平々凡々な私がそんな立場に本当に収まっているかどうかのの証拠は、この状況を見て頂ければ一目瞭然だろう。

私の横で、薄く寝息を立てている、寝ていてもうつくしいそのご尊顔。只人にあらざる中性的なその美貌を見て、この男を女性と見紛う輩がいない訳では無いが、この男が紛れもなく一人の男性であるということを私は知っている。

そして、いくら私が、その辺の御令嬢達とは精神年齢的な意味合いで一線を隔しているとはいえ、いくらなんでも夫でもない異性と寝所を共にするような真似はしない。つまりはそういうことである。


魔王討伐という、待つことしかできないこの身には気の遠くなる程に長い、だが実際にはそこまで言うほど長くはなかった旅から帰ってきたこの男とようやく結婚したのは、さほど前の話では無い。

救世界の英雄となったことで、今まで以上にその名を世間に轟かせることになったこの男との婚姻は、ぶっちゃけた話、大層面倒であった。いや、実際面倒を被ったのは私ではなくこの男なのだけれども。

この男は私にそれを教えようとしなかったが、私は知っている。というか、考えるまでもないことだ。それまで散々この男を忌避してきた輩が、手のひらを返したように近寄ってきて自分の縁戚にあたる娘達を妻にと勧めてくることなど、容易に想像がついた。本当に、解りやすく王道を突っ走ってくれやがる男である。もしそれで私との婚約を解消して、どこの誰とも知れぬ娘さんと結婚するというのであれば、今度こそその白い頬を一つ引っ叩いて真っ赤な紅葉を散らしてやろうと思っていたのだが、そうはならなかった。この男は、あらゆる好条件の御令嬢との縁談を、いっそ非情なまでに切り裂いて、私との結婚式に臨んだ。


それは、救世界の英雄にあるまじき、人目を避けるような結婚式だった。参列者はお互いの親族と、公務を抜け出してきた、勇者と姫君、騎士団長とこの男の弟子。国中に点在する女神の神殿の一つで、こぢんまりと式を挙げた。友人たる他の御令嬢達には、なんて勿体ないのかと驚かれるかもしれないが、国の中央にある大神殿で式を挙げるよりも、むしろそちらの方がずっとありがたかった。

英雄の結婚式など、魔王討伐以来の、国を挙げての慶事とすべきイベントだが、私的にはそんなことは冗談ではなかった。新郎として、最上級魔法使いの正装を身に付けて着飾ったこの男の隣に並ぶなんて御免被る。新婦よりも美人な新郎とはこれいかに。確かに、父や母、乳母や弟には、これでもかと言わんばかりに褒めちぎられたが、それは所詮身内の欲目に思えてならなかった。

けれど、純粋に、『前』の『私』が着ることが叶わなかったウエディングドレスを、この男のために着られることは嬉しかったのもまた事実ではある。年甲斐もないと言われるだろうが、それでも私は嬉しかったのだ。

普段滅多に新調しないドレスを、結婚式のためだけに誂えた。そんな真白のドレスに身を包んだ私を見て、この男は何も言ってはくれず、それを旅の仲間達に散々からかわれ、駄目出しを喰らい、最終的に「放っておけ!」とこの男は叫んでいたが、私は知っている。私を見た瞬間に、僅かにこの男の朝焼け色の瞳が見開かれ、僅かに硬直したことを。この男の耳が、いつになく赤くなったことを。私にはそれで、充分だった。


そして、私とこの男は結婚した。その事実を知る者は未だ少ないが、それはれっきとした事実であると、この際私は胸を張って言い切って見せる。


「本当に、しかたのないひと」


ベッドから上半身を起こし、全く起きる気配の無いこの男の頭を撫でる。さらさらと腹立たしくなるくらい触り心地の良い髪だ。

漆黒だ不吉だ化け物だなどと言いやがる奴らにこの髪を触らせてやりたくなるが、それと同時に、勿体なくて独り占めしたくもなるのだから不思議なものだ。私はこんな狭量な女だったのか。

いやはや何というか…恥ずかしいからこれ以上はやめておこう。

起こさないように気を付けて撫でているせいか、我が夫君が起きる気配は全くない。まるで子供のような顔で、静かに寝息を立てている。夜の妖精も、この寝顔を見たらきっと雲間に隠れてしまうに違いない。

そんな美貌をいつになく幼げに、稚くして眠るこの男に、先だって私がつけた、『馬鹿な人』という汚名はそろそろ返上させてあげてもいい。だが、その代わりに『仕方の無い人』というレッテルを貼り付けたくなる。


だってそうだろう。

この男が私との婚姻を公にしたがらない理由は、他ならぬ私を守るためだと、どうして気付かずにいられようか。

私が気付いていることを知っているくせに、それでもなお私の存在を隠そうとするこの男を、『仕方の無い人』と呼ばずして何と呼ぶという。


私の存在を公表すれば、少なくとも今よりは、この男の下に舞い込む縁談の数は減るだろうに。ただでさえ多忙を極める王宮筆頭魔法使いにとって、今更降って湧き続ける縁談の話など煩わしいこと極まりないに違いない。それなのに私を隠すのは、私のことを恥じているからではないだろう。もし私のことを恥じて周囲に知らしめることができないというのであれば、隠すよりも先にさっさと離婚に踏み切るのがこのエギエディルズ・フォン・ランセントという男である。


その、エギエディルズ・フォン・ランセントという男の妻と言う立場は、はっきり言って非常に不安定なものだ。これが相手が姫様であったならばいざしらず、いくら魔導書司官を受け継ぐ一族とはいえ、元を正せば筆頭魔法使いとは比べるべくもない一介の貴族の娘に過ぎない私には『救世界の英雄の妻』という立場は、荷が勝ちすぎるものだと誰もが思う事だろう。

事実、まだ少数ではあるものの、どこからか聞き付けた某貴族の方々には、夜会に出席した際にそれとなく嫌味を言われた。そういう類のことを言われることは充分予想の範囲内だったので、私は笑って流したが、私ではなくこの男の方がその口からこれでもかと言葉の刃を繰り出して、相手を這う這うの体にして追い払ってしまい、思わず「あなたって人は…」と顔を覆いたくなった私の心境をどうか察していただきたい。心を許せる友人ができて、結婚もしたことで、多少なりとも性格が丸くなったかと思っていたのだが、どうやらそんなことは全くなかったらしいということをその時思い知らされた。


まあそれは置いておいて、公にせずとも知る人は知る事実なのだから、もしも大々的に私とこの男の婚姻が広まった場合、碌でもない事態がしばらくは続くことになるであろうことは容易に想像できる。

我が王国では離婚が認められているため、それを狙ってやってくる輩が、私をあの手この手で狙ってくるだろう。ともすれば、強硬手段に出る輩もいるかもしれない。この男が心配しているのはそこだろう。そんなこの男の危惧が、嬉しくないと言えば嘘になる。守ろうとしてくれていることが、ただ、嬉しい。だが、それはそれだ。私にも言いたいことは有る。


世間一般で言えば、私とこの男はまだ新婚さんと言う奴のはずである。『前』の世界の某番組に出演できるくらいの新婚さんなはずである。

そこに至るまでの付き合いが長すぎてうっかり忘れそうになるが、それでもただの幼馴染兼婚約者から、『夫』という立場に変わったこの男。『妻』となったこの私が、『夫』に他の女性達が言い寄っているのを面白く思うかと言われたら答えは…うむ、否なのだ。私にだって人並みに嫉妬心はあるのである。

今まではそんなことは思わなかったと言うのに、妻になった途端これなのだから、我ながら現金なものだ。妻となって、ようやく、諸手を上げて嫉妬しているとはっきり口にすることができる―――という訳もなく、なけなしの正妻の余裕でうふふと笑っていることしかできない私のこの複雑な思いをどうしてくれようか。やっとここまで来たのに、ちっとも安心なんてできやしない。この男に近付く女性達の中には、ただこの男を英雄としてだけでなく、確かに『エギエディルズ』として見ている女性もいるに違いないのに。


そういうところで、この男は本当に疎い。自分に向けられる悪意には過敏なまでに反応するのに、好意にはとんと疎いのだ。それはこの男の生い立ちを考えれば仕方の無いことなのかもしれないが、それにしても、あんまりだ。馬鹿だとは言わないが仕方がないと言いたくのも仕方ないと言えよう。

そう思えるのも、この男が生きて帰ってきてくれたからで、贅沢な悩みなのだとも解ってはいるのだけれど。


上半身を起こしたまま、その頭を撫でるのを止めて、伏せられた瞳の左側の下にうっすらと残る傷痕に、できる限り優しく指を滑らせる。

すり、と気持ちよさそうに擦り寄ってくるその反応は、もしこの男が起きていたら見られない反応だ。一種の感動を覚えてしまう。本当に、随分と気持ちよさそうに眠っているものだ。ここで大っぴらに言うのは少々憚られるが、夫婦の営みを終えてご満悦とでも言いたいのか。確かに同意の上の行為とはいえ、負担は私の方が大きいのだということを解っているのかこの男は。だがしかし、何故だろう。解っていても改善してくれる余地は無い気がする。その在り様、全く以ていっそ羨ましい限り…いいや、羨ましいを通り越して恨めしくなってくる。

伏せた睫毛はいっそ憎たらしい程長く、引っこ抜いてやりたい衝動に駆られるが、流石にそこまでする勇気はない。代わりに、その無駄に高く整った鼻を抓んでやろうかという思いが湧いたが、後がめんど…もとい、怖いのでやめておくことにした。


そうして、つらつらと取り留めもなく動いていた思考回路をひとまず止めて、零れそうになる溜息を噛み殺す。眠気がやってきてくれることを期待していたのだが、どうしたことか、欠伸すら出てきてくれない。もう一度眠ろうにも、どうにも寝付けそうになかった。

耳元に蘇るのは、誰のものとも知れぬ泣き声。おかしな夢を見てしまったものだと思う。悪夢と呼んで相違ない、どうしようもない夢。


このままベッドの上に居ても何も解決しない気がして、かと言ってこの男を起こすのも忍びなく、身体に絡んでいた白く骨ばった男の腕をどかして、そっと私はベッドから降りた。

すっかり眠りに落ちている男を起こさないように足音を潜めるために素足のまま、すぐ側の椅子にかけておいたガウンを夜着の上に羽織って、バルコニーに出る。

ひんやりとした感覚が足元から伝わってきて何となく肌寒さを感じるが、改めて部屋に戻るほどの寒さでもない。


「……見事な月ですこと」


最上級の天鵞絨を敷いたような夜空に、ぽっかりと浮かぶ青い月。『前』の世界の月は象牙色だったが、こちらの世界の月は青白く、そして、もっと大きいのだ。ベランダの柵に手をかけて、ただその月に見入る。実家の屋敷にある私の自室のバルコニーからも、よくこうして月を見上げたものだ。


この屋敷は、この男の養父であらせられるランセントのおじ様の、今は亡き奥方様の生家である。

ご両親を早くに亡くされた奥方様亡きあと、王都の片隅にただ残されていただけだったこの屋敷を、ランセントのおじ様は結婚祝いだと言って我々にぽんと寄越してくださったのである。

「このまま管理するだけで放っておくより、君達が住んでくれた方が彼女も喜ぶだろうから」とおじ様…もとい、お義父様は笑っていらっしゃった。

太っ腹だ、というよりも、ただ単にあの御方は自分の息子を未だに甘やかしたくて仕方がないだけなのだと最近気付いた。その気持ちが解らなくもない私も、相当なものだという自覚はある。おかげで今まで以上にお義父様との仲は良好である。つい互いに盛り上がりすぎて、非常に微妙な心情を込めた朝焼け色の瞳で無言のまま見つめられたことは記憶に新しい。言いたいことが有るならはっきり言えばいいものを、結局奴は何も言わなかったのでそのままお養父様との会話は続行したが。白い頬がだんだん赤く染まっていく様を横目で見ては、お養父様と一緒になって笑い、それで機嫌を損ねてしまって、その夜はたいへ…ごほん。いや、何でも無い。


結婚してからさほど長い月日が流れた訳では無いとは言え、それでも早数か月。長いようで短くて、短いようで長い日々。倖せ、だと思う。けれど同時に時折怖くなるのだ。

倖せすぎて怖いなんて、使い古された文句過ぎて冗談にもならないというのに、今の状況を表そうとするとそうとしか表現できなくなるのだから困ったものである。

私はどこの三流ドラマのヒロインだ。そもそもヒロインという柄などではなく、どちらかと言えば私はモブだろう。いくらお手入れを欠かさずとも元々の顔の造りはどうにもならないものであり、私の顔の造作は所謂モブのそれである。いやでも救世界の英雄の妻となったのだから、一応モブからは脱出したと言っていいのだろうか。その点は少々悩みどころだ。できれば慎ましやかに生きていきたい。あの男の妻となった時点で、そんな人生が送れる可能性は格段に下がってしまった気もするがその辺はスルーしておく。あの男を、私はこの世界における七歳の時点で、既に選んでしまっていたのだから。


天頂から降り注ぐ光は、象牙色ではない、青く銀色がかった美しい光。『前』の世界では決して見ることは叶わなかったであろう光だ。その光が明るく屋敷を照らし、夜の静寂を如実に浮かび上がらせる。

今の私が生きる世界の夜はあまりにも静かすぎて、時折『前』の世界の夜の騒がしさが懐かしくなる。当時は「明日も仕事なんだ眠らせろ」と散々文句を垂れていたくせに勝手なものだ。

静寂の横たわる世界の中では、逆に耳鳴りがしてきそうだ。夢の中で聞いて耳にこびり付いた泣き声がまた聞こえてくるような気がして、ベッドに戻る気にもなれない。果たしてこれはどうしたものだろう。困った。実に困った。寝不足は美容の大敵だというのになんということか。


このまま月光浴とでも洒落込んでしまおうか。そんな考えも湧いてくるが、このままここに居ても風邪を引くだけだろう。

だがそれでも、それくらいは許容範囲かもしれない。だってあの青い月は、あんなにも美しい。排気ガスや街の光でぼやけた象牙色の月とは違い、ただただあの青い月は澄んでいる。手を伸ばせば届くかもしれない。そういえば、そんな話を『前』に聞いたことが無かったか。



ああ、なんて眩しいのか。そう、目を細めた、その時だった。突然背後から、二本の腕が身体に回されたのは。



…悲鳴を上げなかった私を、どうか褒めてほしい。ガウン越しに感じる見知った温もりと気配に、かろうじて身体を竦ませるだけで済んだ。身体は拘束されて動かないから、首だけを動かして、恐る恐る肩越しに振り返る。間近に、想像に違わぬ、夜の妖精をも酔わせる美貌があった。


「エ、エディ? 起きてしまわれたの? 驚かせないでくださいまし」


私の言葉に、何時の間にやら目を覚まして私の背後に忍び寄り、突然後ろから抱きしめてきた我が夫は、その柳眉を顰めさせた。


「驚かせたのはお前が先だろう」


耳元で囁かれた、普段よりも幾分か低い声音。それが、この男がいつになく不機嫌であるということを教えてくれる。だが、私には、この男を不機嫌にさせるような真似をした覚えがない。


「わたくし、何かあなたにしてしまいまして?」


私がしたことはと言えば、その頭を撫でたことくらいだ。鼻を抓むのは我慢したのだから、そうそう怒られるような真似をした覚えは無いのだが。

そう問いかけると、私の問いかけに答える代わりだと言わんばかりに、背後から回された腕にますます力が籠められる。ちょ、待て、これ以上力が強められると、息ができなくなりそうなのだが。

だが、だったらその腕を引きはがせばいいという話だろう。元々の男女の力の差があり、そう簡単に引きはがすことなどできないだろうが、それでも、私がその素振りを見せれば、恐らくはこの男は解放してくれるか、そうでなくても、力を緩めるくらいのことはしてくれるに違いない。けれど、私はそれをできないでいる。


振り向いたのは失敗だった。そう思わざるを得ない。振り向かなければ、私は容赦なくこの腕を引きはがせたと言うのに。ずるい、と思わずにはいられない。不機嫌そうな声音をしているくせに、なんて顔をしているのだ、この男は。

傍から見れば単に不機嫌そうにしているだけとしか見えないその表情に、私の知らない何かが潜んでいる。それを何と呼べばいいのだろう。ただ、それをそのまま放置しておくことはどうしてもできなくて。


「―――エディ、放してくださいますか?」

「…嫌だと言ったら?」

「あら、それは困りますわね。このままでは、わたくしがあなたを抱き締められないではありませんか」


そう言って見上げると、朝焼け色の瞳が驚いたようにきょとんと瞬く。普段はあまり目にできないその仕草にしてやったりと思いつつ、驚いた拍子に緩んだ腕の中でくるりと踵を返して、夜着を着た男の胸に頬を寄せて背中に手を回す。たったそれだけで、身を包んでいた肌寒さが緩和されたような気になるのだから不思議なものだ。耳にこびり付いていた泣き声が、この男の鼓動の音で塗り替えられていく。生きている音がする。その心地よさに、思わず目を閉じた。


それから、どれだけそうしていただろう。


「きゃ!?」


唐突に、私の身体が宙に浮いた。一瞬何が起きたか解らなかったが、遅れて思考が状況に追いついてくる。横抱きにされているのだ。所謂お姫様抱っこというやつである。誰に見られている訳でも無いとはいえ、恥ずかしいものは何をどうやっても恥ずかしい。顔に熱が集まってくるのを感じつつ夫の顔を見上げると、青い月明かりに浮かび上がる美貌は、いつも通りの冷然としたものだった。重くはないのだろうか、とつい思ってしまった。女であれば誰しもが抱く疑問に違いない。魔法使いは肉体労働系ではないと思っていたのだが、私の思い違いだったのだろうか。細いくせに綺麗に筋肉がついているなと思ったことはあるけれど、それにしても、である。何故こんなにも軽々と私を抱き上げていられるのだこの男は。


「い、いきなりなんなのです?」


動揺が思い切り声音に出てしまった。そんな私を、この男は鼻を鳴らして見下ろした。


「いくらバルコニーとはいえ、裸足で外に出る馬鹿が居るか」


馬鹿とはなんだ、馬鹿とは。だがしかし、前述の通り、夜は未だ冷えるこの季節、馬鹿と言われても反論はできない。言葉に詰まる私を抱えたまま室内に戻った男は、寝室の隣室まで私を運んで、そのままカウチに私を降ろし、パチンと指を鳴らす。と、同時に、部屋に備え付けのランプに火が灯り、部屋はオレンジ色の光に満たされる。この男お得意の、無詠唱の魔法だ。月の光とは正反対とも思えるその温かな光の眩しさに、思わず目を細める私を置いて、男は廊下に繋がる扉へとその足を向けた。


「エディ?」

「少し待っていろ」

「いえ、あの、あなた、明日も早いのでは…」


さっさと休んだ方がいいのではないかと暗に含めて言ってみたら、肩越しに振り返られ睨まれた。絶世の、だとか、傾国の、だとかいう枕詞が付くその美貌で睨まれると、一部の少数の人間を除いて、誰もが顔を蒼褪めさせるものだが、その“一部の人間”の一人である私はただ困惑するばかりだ。おかしなことを言ったつもりなど無いと言うのにそんな風に睨まれるのは、どうにも理不尽である気がしてならない。だが、そんな私の困惑など知ったことかとばかりに男は部屋から出て行ってしまう。

アンティークの調度品で揃えられた広い部屋にひとり残された私にできることはと言えば、男の言う通り、大人しく待っていることだけだ。バルコニーで冷え切ってしまった足が、そこはかとなくしくしくと痛む。あの男の台詞をそのまま受け止めるのは癪であるが、我ながら馬鹿な真似をしたものだと思わざるを得ない。


そうして、数分もしない内に、男は戻ってきた。その手に、白い湯気を立ち上らせる、カップを二つ携えて。


「…?」


思わず首を傾げると、男は無言のまま私の隣に座り、その白い手に持っていたカップの片方を私に差し出してきた。反射的に受け取ると、ふわりとどこか甘い芳香が鼻孔を擽る。これはいったいどうしたことかと、カップを満たす綺麗な琥珀色の液体と、夫の顔を、何度も見比べていると、一足先にカップを口に運んでいた男は、こちらを見るでもなく、淡々と言い放った。


「さっさと飲んで寝ろ」

「まぁ。わざわざ煎れてきてくださったの?」


それも、いつもの香草茶とは少し違うものを。いつもの香草茶よりもその匂いは柔らかなもので、その匂いだけでふわふわと身体の芯から温まってくるようだ。安眠効果が期待できそうなそれを両手で包み込み、その温もりに浸りながら問いかけると、男は無言でまた己のカップを口に運んだ。沈黙は金。つまりは、そういうことらしい。

カップを口に運ぶと、香草茶独特の風味と一緒に、まるで熟した果実のような風味が口の中に広がった。まだ少々熱すぎるので、ゆっくりと飲んでいると、自然と頬が緩んでくる。横目でちらりと見た我が夫は、素知らぬ顔で私と同じ茶を啜っている。


「エディ」

「何だ」

「ありがとうございます」


私の言葉に、男は案の定答えなかった。予想通りの反応に、思わずふふと笑ってしまう。この男は、悪意や害意に敏く口八丁な分、その逆にはとんと弱いから。無駄に頭脳が良いはずなのだが、こんな時にうまい言葉の一つも言えやしないのだ。長文の魔法の詠唱を何百何千と覚え、新たな魔法を次々と生み出していているくせに。

だが、それすらも好ましいと思ってしまう自分はもう末期なのだろう。可愛い、だなんて思っていることが本人に知れたら、さぞ不機嫌にさせてしまうに違いない。


そして、ようやく茶の最後の一口を飲みきって、カップをテーブルの上に置き、なんとなく隣の男に身体を寄せる。茶による内からの温もりと、隣から伝わってくる男の温もりが、やっと睡魔を招いてくれたようだ。心地よい温かさに、ついつい瞳を伏せそうになる。

小さく欠伸をしそうになって口を抑えると、同じく茶を飲み終えたらしい男が、すい、と立ち上がった。隣の温もりが消えたことに若干の不満が湧くが、そんな不満などいつまでも抱えさせるものかと言わんばかりのタイミングで、男にまた抱き上げられた。急に高くなった視界に、思わず暴れそうになるのをなんとか耐える。いや、だから、自分で歩けるから勘弁してほしい。そんな意図を込めて見上げても、やはり男は私の言い分など無視して私を寝室へと再び運び込む。


逆らうこともできずベッドに降ろされて、何のつもりかと男を見上げると、こちらを見下ろす男の顔は、驚く程近くにあった。


「フィリミナ」

「は、い…っ!?」


唇に触れる、柔らかな感触。

そして唖然とする私をまるで押し倒すようにベッドに引き入れて、男は私を抱え込む。ガウンを脱ぐ余地もなく、ガウンごと男の腕に抱かれてベッドの上に横になることしかできない。強い力だった。逃がすものかと言われているような気がした。どこにも私は、逃げなどしないというのに。

口付けあった唇から、顔一杯に熱が広がっていくかのようだ。頬が熱い。そんな私を見つめて、男は満足げに、ほんの少しだけその口元に弧を描いて言った。


「おやすみ」

「………おやすみ、なさいまし」


かろうじて返した小さな声は、いくら間近であるとは言え、聞こえていたかどうか。ただ男はそれ以上は何も言わず、その美しい朝焼け色の瞳を伏せる。窓から射し込む月明かりによって影を落とす長い睫毛に、艶めく漆黒の髪。髪と相反するかのような白い肌、整った高い鼻梁。夜の妖精すら恋に落ちるかもしれない、どれもこれもが完璧に整い配置されているその美貌を間近にして、唖然としたまま私はふと思う。

白雪姫も眠り姫も、王子の口付けで目覚めると言う。お姫様なんて柄ではないし、相手は王子ではなく魔法使いだが、それでもその効果がどれだけ抜群なものであるかを思い知らされる。やっとやってきてくれたはずの眠気が、一気に吹っ飛んだ。

おかしい。これ以上のことだって結婚してから何度もしているはずだと言うのに、未だに慣れることができないでいるなんて。いや、違う。いつになくこの男が積極的で、ええと、だから、ああもう何が何だか解らなくなってきた。心臓の音が煩いくらいだ。耳を塞ぐ代わりに、私を抱き締めて眠ろうとしている男の胸にまた顔を寄せる。背中に回された腕にまた力が籠められたが、それが今度は嬉しくて。


そして私は、そのまま結局あまり眠れない夜を過ごすことになってしまった。悪夢のことなど、すっかり失念して。後にして思えば、その夢がひとつの予兆だったのだけれど、その時の私は、そんなことは当然知る由も無かった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] フィリミナとエディがとっても良い [気になる点] アーチェは今後出てくるのか [一言] このお話は面白さがかけている もっとなんかくれ(刺激が欲しい)
2023/07/31 22:14 不死鳥 恵
[良い点] フィリミナとエディが熱すぎる [気になる点] アーチェは今後でてくるのか [一言] この小説自体、面白みがない
2023/07/31 21:09 林 あかり
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