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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
おまけ

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17/65

       (後)

それから、アーチェの生活はまた充実したものへと変わった。正確には、『戻った』と言うべきだ。魔王が復活する前、エギエディルズが旅立つよりも前に。

今日も今日とて土いじりと剪定、収穫をようやく終えて、頭巾を取り、収穫物がいっぱいに詰まった籠を抱えて、アーチェは以前と比べて格段にソバカスが減り白くなった顔に笑みを浮かべる。

いつもと変わらない庭師としての仕事。けれど今日はひとつ、いつもとは違うことがあった。


「エギエディルズ様、喜んでくださるかな」


ぱちん、と片手で持った鋏が音を立てる。大切に、大切に、白い花の茎を切り、花弁が傷まないようにもう一方の手に持った籠の中に落としていく。

柔らかな香りが鼻をくすぐるその花は、数週間前にエギエディルズに植えるように命じられた香草のひとつだ。幾重にも重なる繊細な白い花は、咲いてから早い時期に摘むほど芳しく強く香る。

そんな花を咲かせる香草の早咲きを今日になって見つけ、アーチェの心は踊った。ちょうど今日はエギエディルズがやってくる日だ。今朝になって咲いたであろう花を彼に渡したら、と思うと顔のにやけが止まらない。


(喜んでくださるだけじゃなくって、もしかしたらもっと、何か、こう、なにか…って、きゃーっ!)


頬を火照らせてぶんぶんとアーチェが手を振っていた、その時だった。


「おい」

「ひゃっ!?」


予告なく背後からかけられた声に、文字通りアーチェは飛び上がった。


「エ、エギエディルズ様…!」


恐る恐る振り返ったその先に、漆黒を持ってなおも美しい存在がいる。迫力ある、なんて言葉だけでは到底及ばない中性的な美貌に、絶妙の位置に配置された朝焼け色の瞳を訝しげに細めて、自分を見下ろすエギエディルズにアーチェは固まった。慣れることなんてできない美しさ、そしてその恐ろしいばかりの漆黒。

咲き誇る白い花が入った籠を取り落としそうになり、アーチェは余計に慌てた。幸い、両手で抱え直すことでそんな悲劇は防がれて、ほ、と息を吐く。


「何を遊んでいるんだ、お前は」


呆れたようなその声は、美声であるからこそ、言われた者のダメージは大きい。

ぐさっ!と心に突き刺さる台詞に挫けそうになり思わず俯きそうになるが、それもこの方らしさなのだと思うことにして、アーチェはエギエディルズに籠を差し出した。


「あの、以前仰っていた香草ですっ。早咲きのものが出てきたので、早くお届けしたくって!」


緊張と期待にどきどきと心臓がうるさい。そうだ、これはアーチェが鉢植えから開花まで、丹精込めて世話してきた花だ。

いつかにもエギエディルズに渡したデリアの実とは訳が違う。あの時はなんとも思っていなかった。けれど恋心を自覚今では違う。

他の誰でもなく、この方に渡したい。他の誰でもなく、この方に受けとってほしい。そんなアーチェのありったけの思いが込められた花。少しでもいいから喜んでほしい。そして、できたら。


アーチェの手から籠が離れていく。籠を受け取ったエギエディルズは、籠の中の白い花を一輪取り出し、確かめるようにその花を顔へと寄せる。一枚の絵画のように見えるその仕草に見惚れるアーチェに向かって、エギエディルズは顔を上げた。


「…そうか。礼を言おう」

(―――あ、)


ふわり、と。エギエディルズは、笑った。

凍り付いていた中性的な美貌が溶けて、艶やかな大輪の花が咲く。夜の妖精すら恥じ入るような笑み。

いつもの皮肉げな笑みとはまるで違う、その笑み。


ああ、この顔が見たかったのだ。デリアを渡した、アーチェがこの恋心を自覚したときと同じ、否、それ以上の、蜜が蕩けるような笑み。

結局自分は、この方に何か大袈裟なことを求めている訳ではなかった。取り立てて何か欲しい訳ではなかった。ただ、笑ってくれればそれでよかったのだ。

この、アーチェのためだけに向けられる、優しい、柔らかな笑顔が―――――…



「あいつも、喜ぶ」

「…え?」



エギエディルズの可憐な唇が紡いだ予想外の台詞に、アーチェは思わず首を傾げた。無意識の仕草だったが、それはそのままアーチェの内心を表していた。

思考が追い付かなかった。


(あいつ、って)


優しい、柔らかな笑顔を浮かべながら、エギエディルズは愛しげに、アーチェの知らない『誰か』を口にした。その笑顔も、その声も、アーチェに向けられたものではないことを、アーチェは、アーチェだからこそ理解した。けれどだからこそ意味が解らない。解りたく、ない。


「あの、あいつ、って」


それなのにアーチェの口は勝手に動いて、エギエディルズに問いかけていた。そんな疑問なんて訊きたくない。その答えなんて聞きたくないのに。

アーチェの問いに、朝焼け色の瞳が揺れた。言っていいものか、悪いものかと、迷うように。大切な宝物を見せることを躊躇う、子供のように。

幾ばくかの沈黙の後、固まり尽くすアーチェの前で、エギエディルズはようやく口を開く。


「…俺の妻だ」


つま。妻。


「エギエディルズ様、は」

口がからからに乾いている。自分でも何を言っているか解らない。


「奥様が、いらっしゃるのですか?」

「―――――ああ」


エギエディルズは頷いた。その時にはもう笑みは消えていたけれど、それでも柔らかな雰囲気は変わらない。こんなエギエディルズを、アーチェは知らない。そんなエギエディルズは、こちらの受けている衝撃などまるで気付いていないかのように…いいや、本当に気付いていないのだろう。手に持つ白い花に『誰か』を写し見るように目を細めている。耳触りのいいはずの声音が、アーチェの聞きたくない台詞を吐き出そうとする。

待って。やめて。声にならないその言葉は、目の前の麗人には届かない。


「結婚したからな」


まるで根本から全く違う異なるなにかを、前にしているような気がした。ああでもそうか、漆黒を持つこの美しすぎるひとが、自分と同じ生き物なはずがない。そんな考えが一瞬の内にアーチェの脳裏を駆けていく。そんな自分を妙に冷静に何処からか見ている、自分。


つい先日に、だとか。幼い頃からの婚約者と、だとか。短く、淡々と続けられた言葉が耳に入ってくるが、そのどれもがアーチェの中に留まることなくそのまま素通りしていく。

それからどうしたのか、よく覚えていない。エギエディルズの言葉にどんな言葉を返したのか、それとも何も言えなかったのか。薬草園から出ていく彼をどう見送ったのか。王宮を出て、どうやって家に帰ったのか。よく分からなかった。分かりたくなかった。気付けば寝台に入っていて、次の日になっていて、そしていつものように王宮の庭に入って。いつもの通りだ。何一ついつもと変わらない。そのはずだった。父に訝しげに見られていたとしても、アーチェは普段通りのつもりだった。


それなのに。



「また、迷っちゃった」



いつもと同じように、父から貰った剪定鋏を携えてアーチェが任されているエギエディルズの薬草園に向かっていたはずが、何故か目の前には今までに見たことのない湖が広がっている。

思わず溢した呟きは、虚しく湖畔に落ちて溶けていった。そんなものだから当然返事が返ってくるはずもなく、アーチェは溜息を吐いて湖の水際に座り込む。

何故こんなことになったのかさっぱり解らなかった。いつもと同じ道のりを来たはずだったのが、どこでどう間違えたのだろう。王宮庭園で迷うなんて、まるで以前黒蓮宮に入ってしまった時のようだ。

あの日、アーチェは、あの美しい方に出会った。昨日まではその姿を思い描くだけで、その名前を聞くだけで、アーチェはどうしようもなく幸せになった。


ひとけの無い湖は静かなものだ。時折鳥の囀りが聞こえる程度で、他の雑音もなく、ただ穏やかだった。陽光を受けて水面がキラキラと輝いている。なんて眩しいのだろう。なんて綺麗なのだろう。それに比べて、自分は。


「あーあ」


手近に有った小石を投じると、ぽちゃんと音を立て、波紋を呼び、そしてあっけなく沈んでいく。


「ばっかみたい」


抱えた膝に顔を埋める。ばかみたいだ。いや、本当にばかだった。勝手に舞い上がって、勝手に期待して。我ながらよくもまあこんなにも考えなしでいられたものだと、いっそ笑えてくる。

だってそうではないか。はじめからわかっていたことだったのだから。

何もかもが自分と異なるあの存在と、結ばれることなどありえるはずがないとわかっていた。容姿も、身分も、立場も、何もかもが自分と釣り合わない。エギエディルズと自分には、何一つ同じところがない。ただでさえ埋められない格差だったというのに、しかも今となっては相手は世界の英雄様なのだ。たかが庭師風情が、こんな風に想いを寄せること自体、おこがましいにも程がある。


「…あーあ」


声が先程よりも小さく低くなるのが、我ながら不思議だった。今更落ち込んでも仕方ないだろう。それが許されていたのは昨晩までの話だ。王宮御用達庭師として、目下の問題はこんなことではない。落ち込んでいる暇が有ったら、さっさと立ち上がってエギエディルズの薬草園に向かうべきだ。そんなことは解っている。解っているのだけれど、どうしてだか立ち上がる気力が湧いてこない。


穏やかに降り注ぐばかりであった陽光が、なんだか肌に突き刺さるようになってきた気がする。だめだ、頭巾も被っていないのにこんなにも日に浴びたら、またソバカスができてしまう。せっかく今まで頑張ってきて、やっと薄れてきたと、つい最近鏡の前で喜んだばかりなのに。ああでも。


(もう頑張る必要もないんだよね)


綺麗になりたいと思う理由は、昨日、無くなってしまった。ならばもういっそこのまま、真っ黒に焼け焦げるまで此処に居座るのもいいかもしれない。なげやりになってるなぁという自覚はあるがどうにもそれが止められない。

そんな、ぐずぐずと足元からそのまま崩れていきそうな感覚に囚われているアーチェの上に、ふいに影が落ちた。


「こんなところでどうなさったの?」


背後から降ってきた聞き覚えの無い声に、アーチェは考えるよりも先にのろのろと顔を上げた。

それこそ、『こんなところ』で誰だというのだろう。放っておいてほしいのに。完全に沈みきっている思考の中で緩慢に振り返る。


「気分が悪いのでしたら人を呼びましょうか?」


その人物は、中腰になり、片手で日傘を傾けてアーチェが日陰に入るようにしながら、心配そうにアーチェを見つめていた。


「…え、と」


何と答えたらいいのかわからなかった。座り込んだままその顔を見上げていると、その人は困ったように小首を傾げ小さく笑った。その反応に、は、とアーチェは我に返る。

アーチェよりも幾つか歳上であるに違いない、アーチェにとっては当然初対面にあたる女性がそこにいた。


緩やかに編まれた長い髪は蔓草と小花を模した小さな髪飾りで器用に纏められている。フリルに縁取られた日傘を持つ両手を包むレースの手袋は繊細で、シンプルで派手さはないが品の良いドレス。一目で貴族の令嬢と分かる姿だ。

この女性の地位がどれほどのものかはわからないが、とりあえず、貴族の令嬢なるものにあまりいい思い出のないアーチェは自然と身構えそうになる。けれどそうしないで済んでいるのは、彼女が纏う雰囲気のせいだろう。落ち着き凪いでいるその空気は、アーチェがこれまで接触してきたどの令嬢の空気とも違っていた。

お高くとまった令嬢達よりももっと親しみを感じさせる、穏やかで柔らかな彼女の雰囲気は、アーチェが数年前に亡くした母を思い起こさせた。そんな女性の気遣わしげな声は、アーチェの涙腺を刺激する。


(やだ、どうしよ)


そもそも、自分の交遊関係というものはあまり広いものではない。草木と触れ合っている時間が一日の大半を過ごしているのだからそれも当然なのだが、今回ばかりはそれが悔やまれた。父に言えるはずがなく、友人に吐き出す機会などなくて。そうして、今になってしまった。こんな風になった時、いつも相談にのってくれた母は、もういない。

つまりは、もう、限界だった。


「…う」

「う?」

「うわあああああんっ!」


その一息で、湖畔の静寂が切り裂かれた。思い思いに囀ずっていた小鳥たちが驚いたように木々から飛び立っていくが、気にしてなどいられなかった。

アーチェは泣いた。涙が溢れて止まらなかった。女性が驚いたように目を見開いてこちらを見つめてくるその前で、アーチェは泣き続けた。


好きなのだ。本当に、本当に、好きなのだ。

黒持ち。筆頭魔法使い。英雄。たくさんの称号を持つ誰よりも何よりも美しいひと。本人の意図に関わらず周囲に影響を与えるそのひとに見出だされた自分。これでどうして優越感を抱かずにいられただろうか。どうして自分が特別だと、思わずにいられただろうか。

エギエディルズの立場上、婚約者がいたとしても何らおかしなことではないのだと、考えなかった訳ではない。

けれど例えいたとしても、そんな不確かな存在よりも自分のほうが、よっぽどエギエディルズのことを解っているような気になっていた。王宮の口さがない者達がエギエディルズを口々に罵り、そして恐れる中で、自分だけはエギエディルズがそんなひとではないと解っているつもりだった。

だからだ。だからこんなにも傷ついている。こんな自分を、いつか選んでくれるのではないかとどこかで思っていた。例え選んでくれなかったとしても、誰のものにもなってほしくなかった。

自分がどれだけ勝手なことを考えていたのかを思い知らされる。でも、好きなことに変わりはなくて。


泣いて、泣いて、泣いた。そうしてアーチェが泣いている間、女性は何も言わなかった。ドレスが汚れるのも気にせずに腰を下ろし日傘を閉じた女性は、アーチェにハンカチを渡して、ただ寄り添っていてくれた。あんなにも放っておいてほしいと思っていたのに、その気配の優しさがあまりにも心地好かった。


「―――――落ち着かれたかしら?」

「は、はひ」


その問い掛けに、ぐすぐすと鼻を鳴らしながらアーチェはこくりと頷いた。


「す、いません、ハンカチ、ぐちゃぐちゃにしちゃって」


受け取った白地のハンカチは、今やアーチェの涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。よくよく見てみれば、布地の色と同じ白で細かな刺繍が施されており、いくら絹ではなく綿の手触りだとはいえ、それなりに値が張るだろうことが分かる。洗って返せばいいのだろうか、それともこんな庭師が使ったハンカチなどもう使えないから弁償だろうか。

恐る恐る女性を見遣るこちらの逡巡を読み取ったのだろう、女性は軽く笑って首を振った。


「お気になさらないで。よかったらそのまま受け取ってくださいまし」

「でも」

「わたくしが手慰みに縫ったに過ぎないものですから。もし貴女に使って頂けたるのならとても嬉しいわ」


そ、とハンカチを握り締めている手を包まれる。その手の温かさが直接心に染み渡るようで、止まっていたはずの涙がまたぶり返してくる。


「ありがとう、ございますっ」

「はい、こちらこそ」


ふわりと浮かべられた笑みは柔らかく、やはり親しみを持てるものだった。

その笑みを浮かべるかんばせは、アーチェとて他人のことを言えた義理ではないし、失礼であるとも分かっているが、決して目立って美しいものではない、と思う。けれど薄化粧の施された顔の肌は白く、香油の塗られているのであろう髪は柔らかくも艶やかだ。エギエディルズに恋をしてから美容と健康に目覚めてそれを実践してきたアーチェには分かる。このひとの肌も髪も、一朝一夕の付け焼き刃などというものではない。これまできちんと、手入れされてきたことが分かる。

そんなかんばせに浮かべられる笑みは不思議と魅力的で、ついつい、じ、とその顔を見つめると、にこりとまた穏やかに微笑み返された。

なんだか気恥ずかしくなり、アーチェは視線を手元に移す。


(こんなひと、だったら)


こんな風に突然泣き出した自分に付き合ってくれて、未だしゃくりあげている自分の横に座っていてくれるひとが、エギエディルズの妻となったひとだったら。そうしたら少しは諦めもつくだろうか。認められるだろうか。

いや、そもそも、どんな人間であったらエギエディルズの妻として自分は認められるだろう。一体誰が、あの美しくも恐ろしい存在の横に立てるというのだろう。わからない。わかりたくない。だってどうがんばっても、自分はもうその立場に立てないのだから。納得なんてしたくない。したくないのに。

そんな時、がさり、と背後で緑の枝葉が擦れ合う音がした。


「こんなところにいたのか」

「っ!?」

「まあ」


聞き覚えのある声に、アーチェが女性と揃って背後を振り返ると、予想に違わぬ姿がそこにあった。

忌避せずにはいられない黒髪を持つ、目が否応なしに惹き付けられる、空恐ろしさを孕む美貌の存在が、呆れを隠しもせずにこちらを見下ろしている。

それだけならばその恐ろしさに萎縮せずにはいられなかっただろうが、朝焼け色の瞳に、いつになく安堵した光が見て取れて、もしかしたら自分のことを探してきてくれたのかも、なんて、こんなときになっても未練がましく思ってしまう自分がいる。

エギエディルズ様。そう呼び掛けたようとしたけれど、それよりも先に。


「エディ?」


す、と横に座っていた女性が立ち上がる。エディ。それは誰のことだ。聞き慣れないその呼び名にアーチェは思わず固まった。

ドレスの裾についた草を払ってエギエディルズに女性が近付いていくその様子を、アーチェは黙って見ていることしかできない。女性はごく自然に、そうするのが当たり前だと言わんばかりにエギエディルズの横に並ぶ。そこに、普段アーチェが感じるような恐れはない。

エギエディルズもまた、そうして横に並んできた女性を当然のように受け入れながら、その柳眉をひそめている。


「いつまで経っても来ないから探しに来てみれば。どこをどうしたら此処に行き着くんだ」

「あら、だってこちらの方が近道なんですもの。エディだってご存知でしょう?」

「…」

「ほら、やっぱり」


これは、なんだ。


アーチェは座り込んだまま、呆然と二人のやり取りを見守る。そうすることしかできなかった。

目の前の光景は、アーチェには信じがたい、簡単には受け入れがたいものだった。エギエディルズが、こんなやり取りを誰かとするなんて。エギエディルズに対してこんなことが言える誰かがいたなんて。そんなこと、考えたこともなかった。だってこの方は黒持ちで、特別で。こんなにも柔らかな雰囲気を持つことができる人だなんて思ったことなど一度もなかった。

自分がそんな風に思っていたことに気付かされ、愕然とするアーチェに、す、と朝焼け色の瞳が向けられる。思わずびくりとするアーチェを、アーチェの知る冷然とした眼差しで見下ろしながらエギエディルズは口を開いた。


「…まあ、それはいいとしてだ。お前は俺の庭師と何をしていたんだ」

「え?」


きょとり、と女性の瞳が瞬き、アーチェへと向けられる。その視線に息をのみ、慌てて立ち上がると、女性は何やら納得したように頷いた。


「この方でしたの? はじめまして。フィリミナ・フォン・ランセントと申します」

「っあ、アーチェ・マシーです。エギエディルズ様の薬草園のお世話をさせて頂いておりますっ!」


女性の家名はエギエディルズのものと同じだ。その意味が解らないほど自分は鈍くはない。例え家名を聞いていなくても、先程のやり取りだけで、どれだけこのフィリミナという女性がエギエディルズと親しいのかが解る。

なんで、と思う。思わずにはいられない。誤魔化すようにバッ!と勢いよく頭を下げると、ふふ、と穏やかな笑い声が降ってきた。


「顔を上げてくださいまし。先日は素敵な花をありがとうございました」

「っ!」


やっぱり。やはりあの白花はこの女性に渡されたのだ。ずきりと胸が痛み、顔がひきつりそうになるが、なんとかそれを抑え、顔を取り繕ってフィリミナの顔を見つめる。彼女はやはり穏やかに微笑んでいた。


「貴女のお話は聞いておりますわ。腕のいい庭師のお方だと」

「そ、んな、とんでもないです。あたしなんてまだまだで、エギエディルズ様にもいつもご迷惑をかけちゃってて…」

「いいえ。嫌味は言えても、お世辞なんて、ましてや素直に褒めるなんてことはなかなか言えないひとですけれど、これからもっ?」

「いいから黙っていろ」


言葉を続けようとしたフィリミナの口をエギエディルズの手が塞ぐ。骨ばっていながらも白く美しい手を、レースに包まれた手が引き剥がし、フィリミナはエギエディルズに笑いかけた。


「照れなくてもよろしいのに」

「っ誰がだ、誰が!」

「あらあら」


まるでじゃれ合うようなその会話は、この恋の根底を揺るがした。

こんなエギエディルズを、アーチェは知らない。こんな風にころころと表情を変えるエギエディルズを、こんな風に声を荒げるエギエディルズを、アーチェは知らない。今のエギエディルズに、人形めいた部分など見当たらない。まるでただの男の人のよう。ただの、男の人。


そうだ、そうだった。エギエディルズ・フォン・ランセントは、黒持ちでも筆頭魔法使いでも英雄でもある以前に、ただの一人の男の人、だったのだ。今更気付いた、気付かされた事実に、アーチェは悲しみや悔しさ以上に、ただ不思議と納得している自分を感じた。


(そっか)


何も、解ってはいなかった。解ろうともしていなかった。

アーチェは、エギエディルズを、孤高の存在だと思っていた。誰をも寄せ付けぬ世界でただひとりのひと。

けれど、違っていたのだ。この方は独りなどではない。独りであってほしいと思っていたのは、特別であってほしいと思っていたのは、他ならぬ自分のほうだった。結局自分もまた周りの人間達と何も変わらなかった。

自分には、このエギエディルズの妻になったというフィリミナのように、エギエディルズに接することはできない。例え身分差が無かったとしても、あの黒を、あの美貌を、あの存在の全てを、どうして自分と同じ人間だと思えただろう。


なんて酷い考えで、思い違いだったのか。それをこんな局面で思い知らされるなんて、随分と間抜けなものだ。何が自分だけは違うだ。恥ずかしい。情けない。


頭に血が上るような、下がっていくような、奇妙な感覚がした。そんな自分の前で、アーチェが夢見た立場に立つ女性は、「先に父に用がありますから」と立ち去ろうとしていた。


「一人で行けるのか?」

「もう何度か来たことがある道ですもの」

「ちょっと待て、俺は聞いていないぞ」

「……そんなこともあるでしょう。ではエディ、先に行っていてくださいましね。ごめんなさいアーチェさん、またお会いしましょう」

「はっはい!」

「おい待…ったく」


横をすり抜けて王宮があるであろう方向へ消えていくフィリミナの後ろ姿を見送りながら、「後で覚えていろ」と呟くエギエディルズは、やはりアーチェの見たことのない表情をしていた。アーチェには決して向けられない、そのひとりの男としての顔に、見とれずにはいられない。ああ、なんて。


「…エギエディルズ様」

「なんだ?」

「エギエディルズ様は、今、お幸せですか?」


不躾な問いかけだった。現にエギエディルズは、朝焼け色の瞳を驚いたように見開いている。そんな表情を浮かべてなお美しい存在。


「―――さぁ。どうだろうな」


素っ気ない答えだった。けれどその表情は、何よりも雄弁だった。


「そう、ですか」


もう、いい。こんなの、もう、諦めるしかない。そうするしかないではないか。どうがんばったって敵うはずがない。あの女性以上に、自分がこの方を幸せにすることなんてできやしないのだと、今の表情で思い知らされた。

簡単に諦めることなんて到底できない、したくない想いだけれど、それでも、もう。


「後れ馳せながらになりますが、ご結婚、本当におめでとうございます」


アーチェは、再び滲みそうになる涙を堪えなら笑った。

これは確かに恋だった。例え憧れと恐れを織り交ぜて、勘違いだと言われるような想いだと言われても、これは確かに恋だった。この恋をしている間、確かにアーチェは幸せだったのだ。それは叶わない、叶うはずもなかった、恋だったけれど。どのみちこの方を得る術なんてなかったけれど。でも、それでも、今、この瞬間の、エギエディルズが浮かべた小さな笑みは、アーチェだけのものだ。それで十分だと思える日がいつか来ればいい。そう、思った。

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