魔法使いの庭師(前)
軍手に包まれた両手で、柔らかく土を崩し、そして新たな肥料を混ぜて、また元のように草木の根本に寄せる。ある程度目処をつけたところで、放っておけば簡単に無法地帯になる枝葉を剪定し、ふう、と息を吐く。
「こんなものかな」
額に浮いた汗を拭い、目の前の草木を見直して、アーチェ・マシーはそう呟いた。我ながら悪くない出来だと、満足げに頷く。
苦心して整えた草木の代わりに、アーチェの長く伸びた赤毛は、頭巾を被っていたにも関わらずに乱れて、頬に落ちてくる。汗の滲む顔にぺたりと貼り付いて気持ちが悪い。鬱陶しいとばかりに頭巾と軍手を脱いで、アーチェは髪を改めて纏め直す。
「もうっ」
作業するには邪魔にしかならない髪だ。切ってしまおうか。そう考えたことは一度や二度では無い。だがしかし、アーチェの職業も、また、元来の性格からしても、あまり女らしいとは言えないため、最後の抵抗とばかりに髪は伸ばし続けていた。そうしたい、理由があった。
そんなアーチェの職業はと言えば、庭師である。
まだまだ駆け出しの、という注釈が付くものの、それなりの腕は持っているという自負がある。未熟者だという自覚もあるが、それでも王宮御用達庭師たる父にはある程度のお墨付きを貰っている。
マシー家は代々庭師という仕事を受け継いできた。それも、王宮御用達という栄えある立場を。しがない平民でしかない父やアーチェがこの王宮に出入りできるのもそのためだ。
そんな庭師という仕事に誇りを持ち、妥協を許さない厳格な父に認められた日の喜びは今でも思い出せる。
普段から口数の少ない父に呼び出されたと思えば、差し出された真新しい剪定鋏。これまでは練習用の鋏を用いて、父の後について手伝いをするばかりだった自分に、父はアーチェのためだけの鋏を渡しながら「これからは一人ででもやってみろ」と言ってくれた。
それで十分だった。
降り注ぐ陽光は眩しくも優しく、緑葉はその光を誇らしげに照り返している。
頭上には、つい先日まで空を覆っていた暗雲は嘘のように取り払われ、代わりに穏やかな青空が広がっていた。
それもこれも全て、勇者を筆頭とする救世界の英雄達のおかげであることを、アーチェのみならずこの国の、否、この世界の誰もが知っている。
五百年前に先代勇者によって封じられた魔王が復活し、今代勇者によって完全に滅ぼされたのは、ほんの数ヶ月前の話だ。
きらめく金の髪と深い緑の瞳と精悍ながらもどこか甘さを含む面立ちを持ち、今や老若男女を問わず称賛と情景を集める勇者。その勇者と共に魔王討伐に向かった、この国が誇る生ける宝石たる巫女姫、比類なき剣技を以て龍すら屠ると謡われる騎士団団長、そして、それからもうひとり。
彼らのおかげで今日もアーチェは元気に庭仕事に勤しめる。
そうだ。こうして大切な草木に触れていられるのは。
(あの方の、おかげなんだよね)
思い浮かべるだけで顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。
救世界の英雄の、先程数えた最後のひとり。底知れぬ魔力を表す漆黒の髪を持つ、美貌の王宮筆頭魔法使い。
その名は、エギエディルズ・フォン・ランセント。
他でもない、アーチェの想い人である。
そもそも、アーチェが初めてエギエディルズと出会ったのは、アーチェが王宮の中庭の一角とも言い難いほんの片隅の草木の世話に、ようやく慣れた頃のことだ。
今考えてみれば、調子に乗っていたのだと思う。いつもより早く自分の担当する区域の世話が終わって、むくむくといつにない感情が湧いてきた。
(ちょっとくらいならいいよね)
もう少しだけ、自分が手を加えてもいいのではないか。そう思ってしまった。
父や年嵩の同僚からは、最近は注意を受けるどころか褒められることばかりで、自分の実力が確かなものになりつつあると、そう思い込んでいた。まだまだ学ぶべきことはたくさん有ったというのに、我ながら本当に恥ずかしい。
だがしかし、あの時の自分は、それが恥ずかしいことなのだとちっとも気付かなかった。
だからアーチェは自分専用の剪定鋏を片手に、中庭を歩き出した。流石に中央や回廊などの多く人目につく場所に手を加える勇気は無かったが、見えないところなら構わないに違いない。自然と笑みが零れた。
マシー家がそういう家系だからと受け継いだ庭師の称号だったが、それを後悔したことは一切無い…とは言わないが、これが結局天職なのだと思っている。草木に触れるのは楽しいし、上手く育ってくれた時は嬉しく誇らしい。
浮き立つ心と共に足取りも軽くなり、鼻歌でも歌いたい気分だった。しかしそんな気分が、ふと断ち切られた。
(…あれ?)
前を見る。左右を見る。広がるのは緑ばかりで、その緑の隙間、或いは乗り越えた先には、白亜の王宮が連なっている。
ここはどこだろう。
慌てて歩いてきたはずの後ろを見るが、前や左右と似たような光景が広がるだけだ。
これはまずいかもしれない。いいや、かもしれないどころでなく、本当にまずい。これは、迷った。このままでは父に心配をかけるどころか、不法侵入者として捕まってしまう可能性がある。
洒落にならない事態に内心で悲鳴を上げながら、とりあえずアーチェは王宮の方向に生い茂る緑の中に飛び込んだ。王宮の方に行けば、いつかは誰かに会えるだろうという打算からだった。
下手に貴族や衛兵に見つかったらどうなるかなど考えたくもないが、それでもこの広い庭の中で迷い続けて誰にも発見されないでいるよりもましだった。
涙を必死に堪えながらガサガサと緑を掻き分けるという、アーチェにとっては苦行でしかない時間が、どれだけ経過した頃だったか。
「わっ」
緑を掻き分けた先で突然目の前に広がった、それまでとは異なる拓けた場所に、アーチェは小さく声を上げた。明らかに人の手が加えられた場所にほっとしながら周囲を見回す。
アーチェが迷い混んだそこは、よくよく見てみれば庭園ではなかった。庭師を本業とする自分でも見事だと認めざるをえないほどに整然と植えられているのは薬草や香草、低い位置にある木々もまた、薬や茶、アーチェは詳しくない魔法の媒介に用いられるものばかりである。
(ここ、薬草園だ)
遅ればせながらそう気付いた。そして、つい先程安堵したのが嘘のように、頭から血の気が思い切り引いた。
この王宮で、薬草園として土地の利用が許されているのは、医療官が集う白百合宮と、もう一つ。それは、魔法使いが集う黒蓮宮だけだ。
(どっどうしよう!)
色彩と花を組み合わせた名を冠する宮は、この王宮の中でも重きをおかれる宮であると、王宮に出入りするアーチェはよく知っていた。
白百合宮も黒蓮宮も、自分が足を踏み入れていい場所ではない。それが許される庭師は、自分の父のように、薬草園の主から許可を得た熟練の者達だけだ。
(早く戻らなきゃ…!)
そう思っても帰り道が分からない。引っ込んだはずの涙がまた飛び出してきそうになりながらきょろきょろと薬草園を見回すアーチェの視界の片隅で、動く物体、もとい人影を見つけたのは、そんな時だった。
誰のものとも知れぬ薬草園の片隅で動く人影は、黒のローブのフードを目深に被っているため、その顔は窺い知れない。
ただその黒の衣装が指し示すのは、此処が黒蓮宮だと言うことで、もしかして白百合宮でも黒蓮宮でも無いかも、いやむしろそうであってほしい、と祈っていたアーチェを絶望に叩き落とした。
こちらに気付いているのかいないのか、その人物は、アーチェもよく知る一般的な香草茶によく使われる木の剪定と、収穫をしていた。アーチェのことなど意にも介さずに手を動かし続けている。
土に汚れているが白い…いいや、汚れているからこそその白さが際立つ手が、銀の鋏で緑葉を切り落としていく。ぱちん、ぱちん。躊躇いの無い一連の動きを見つめるばかりだったアーチェは、銀の鋏が、とある緑葉に差し掛かった時、思わず大きく足を踏み出してしまった。
「だめっ!」
ぴたり、と銀の鋏の動きが止まる。
あ、と思ってももう遅かった。しゃがみこんでいた人影が、アーチェの方を向いて立ち上がる。その拍子に、はらりと被っていたフードが落ちた。
息を、飲んだ。
「誰だ」
鋭い誰何の声にも、答えることができなかった。声の出し方そのものを自分は忘れた。
黒。あらゆるものを拒絶しながらも容赦なく呑み込む、人の身には有り余る、誰もが本能的に恐れを抱かずにはいられない黒。身に纏うローブの黒など比ではない、本当の黒。
その色彩を髪に写した『なにか』がそこにいた。
アーチェよりも高い位置にある、幼い頃に読んだ絵物語から出てきたかのような、ただただ麗しい、女とも男ともつかない美貌は、誰もが目を奪われるに違いない。紫と橙が入り交じる、さながら朝焼けのような瞳が冷然とこちらを見据えている。
これは、なんなのだろう?
そんな疑問がアーチェの脳裏に浮かんだ。
こんな、こんな存在を、自分は知らない。こんな、恐ろしくも美しく、美しくも恐ろしい存在が、この世に許されていいものなのだろうか。アーチェはその問いの答えが分からなかった。ただこわい、と、それが当たり前のことのように、そう思った。
立ち竦み、動けずにいるアーチェに、『それ』は、その存在は、アーチェのそれとは同じ役割を果たすとは到底思えない唇を動かす。
「結界に反応しなかったのだから他意はないんだろうが。迷ったのか?」
頷くことしかできないアーチェに、その『人の姿をしたなにか』は朝焼け色の瞳を眇めて溜息を吐いた。
「面倒な」
淡々とした美声に、思わずアーチェは、びくり、と身体を震わせてしまった。そんな自分の反応など慣れたものだと言わんばかりにスルーして、美貌の麗人は、すい、とその土に汚れた、それでもなお美しい指で宙に短く一本の線を引いた。
そして、意味が解らず目を瞬かせるアーチェの背後を指し示した。
「元来た道と繋げてやった。さっさと行け」
「え?え?」
それ以上言うことは無いと言外に言い放ち、その麗人は再び銀の鋏を持ち直してしゃがみこむ。
アーチェは指し示された方向を恐る恐る振り返るが、何か変わった様子などない。再び麗人を見つめ直すと、彼はアーチェを見もせずにぱちん、と新たに緑葉を切り落とした。
「行けと言っている。その耳は飾りか。ここに迷いこんだことを不問にしてやる以上に何かあるとでも?」
その台詞には、口調といい内容といい、たっぷり嫌味が含まれていた。アーチェは今すぐにでもここから立ち去りたくなった。もう一度背後の緑を振り返り、そちらへと足を踏み出す。が、その前に、アーチェはまた麗人を振り返り直した。
「あああああのっ」
「…なんだ」
まだあるのか。そう言葉よりも雄弁に語る、心底億劫そうかつ面倒そうな声音と、自分自身の緊張のあまりに煩い心臓の音に心がへし折れそうになるが、それを根性で捩じ伏せて、アーチェは口を開く。
「あの、さっき貴方が切ろうとした葉なんですけどっ!その種の葉は淡い緑の新しいものが新茶とか言って出回りますけど、それより、濃い緑の育ったものの方が風味が出て美味しいんです!ええと、だから…」
だから、なんだと言うのだろう。自分は何を言っているのか。魔力の高さを表す黒持ちの、そうでなくとも明らかに自分より身分が高い存在になんて馬鹿なことを。
後悔しても遅いと解っていながら、それでもアーチェは後悔した。ただでさえ打ちひしがれていたアーチェの心を容赦なく切り裂く台詞をまた言われてしまう。不問にすると言ってくれたのに、覆されたらどうしよう。
恐怖と不安に怯えるアーチェの視線の先で、麗人のかんばせが、持ち上げられる。
(え?)
アーチェを見つめる朝焼け色の瞳が、僅かではあるが、確かに見開かれていた。意外なことを言われたとでも言いたげな表情だった。それまでの人形じみた顔とは異なる、人間味を帯びたそれに、アーチェの方が大きく目を見開かされる。
「そ、それじゃあ失礼しましたっ!」
そんな表情を見ていられずに、指し示された緑の中に飛び込む。がさがさと緑を掻き分けて突き進む。顔が熱い。心臓がどきどきと高鳴っている。
やがてそう長くも経たない内に、緑から飛び出した先は、いつも自分が世話している中庭の一角で、息を切らしながらアーチェは「繋げた、ってこういうことか」と納得し、それから様子を見に来た父に声をかけられるまで、その場に座り込んでいた。




