魔法使いの弟子
ウィドニコル・エイドは急いでいた。両手に一杯の魔導書を抱え、広い王宮の一角を成す黒蓮宮を一目散に駆け抜けていく。
世の魔法使いの羨望を集め、魔法学院の生徒が「いつかは自分も」と夢見る、魔法使いの中でも精鋭中の精鋭が集まるのが、この黒蓮宮である。
その静謐な空気を蹴散らし、ともすれば取りこぼしそうになる書物を必死に抱えながらウィドニコルはとにもかくにもひた走っていた。
回廊を歩いている王宮勤めの魔法使いや、他の宮からやってきていた執務官が、何事かと騒音の発生源を見遣るる。そんな様子がウィドニコルの横目に入ってくるが、今は構ってなどいられない。
向こうは向こうで、その脇目も振らずに走る少年がウィドニコルだと解ると、「ああ、またか」と納得したようにそれぞれの業務に戻っていく。
この黒蓮宮に通うようになったばかりの頃は、一々呼び止められて怒られたり嫌味を言われたりばかりだった。それを思えば、どれだけばたばたと走っても咎められないことは僥倖なのかもしれない。
だが、こうして余裕無く走っている様子を当然のものとして受け止められるのも、これはこれで微妙な気持ちになるものである。いや、もっと言ってしまえば。
(…全っ然、嬉しくないっ!)
内心でのみの叫びは、当然の如く誰に聞き咎められることも無い。そうは言ってもどうしようもないことくらい解っているのだ。
何せ相手はあの御人。数刻前の彼からの指令が改めて耳朶に蘇り、ウィドニコルの背に戦慄が走る。そう、今一番優先すべきは、この腕の中の書物の山を届けること、それだけに尽きる。
そしてウィドニコルは黒蓮球の奥へ奥へと走り、人通りなどほとんどない回廊を通り抜け、その向こうの扉を思い切り開け放つ。さあ、戦いの始まりだ。
「師匠! 仰ってた本、これで全部です!」
「遅い。何をしていた」
容赦の無い先制攻撃に、ウィドニコルは早くも心が折れそうになった。
「す、すみません、ちょっとダイナン候に捕まってしまって…」
「ダイナン? ああ、あの頭の薄い男か」
あの男も飽きないな、と。ウィドニコルの出した名前がこの国の重鎮の名前だというにも関わらず、大して興味を引かれた様子も無いまま、部屋の主たる男は、再度その手の書物に視線を落とした。
その伏せた漆黒の睫毛のなんて長いことだろう。伏せられて影を落としているその睫毛に縁取られた瞳は、橙と紫が入り混じり、まるで朝焼けのように揺らめき、えも言われぬ風情を醸し出している。日がな一日窓辺に陣取っていようとも日に焼けることを知らない白い肌は磁器のように肌理細かく、その白と相反する漆黒の髪のなんとも艶めかしい。
夜の妖精もかくやと思われる、中性的な、完璧な美貌。だがその左目の下に走る傷跡が、その美しさ故にかえって目立っていた。しかしそれでもなお、その傷すらも美貌を引き立たせるだけの材料にしかならない、うつくしい存在。
エギエディルズ・フォン・ランセント。王宮筆頭魔法使いにして、ウィドニコルの師。そして、救世界の英雄の一人でもある。
我が師ながら、いつ見ても変わらず綺麗なひとだなとウィドニコルは思わずにはいられない。
彼に師事してから数年経過し、その美貌にも大分慣れてきたつもりであるが、それでもこんな時やあんな時やそんな時、ふいを突くようにしてどきりとさせられる。
本当に綺麗なひとっていうのは性別なんて関係ないんだな、と何度思ったかしれないことをまた思いつつ、ウィドニコルは抱えてきた書物を、エギエディルズの机の上に積み上げた。
「えっと、これ全部持ち出し注意の本でした。後で貸出届に師匠の分のサインも必要だって司書の人が言ってたのでお願いします」
「解った。ウィドニコル、これの第三章から第七章。それからこっちの112ページから158ページを読んでおけ」
「はっはい!」
自分の横に積み上げられた書物の中から、濃茶と深青の背表紙の二冊を、迷い無く押し付けられた。腕にかかるずしりとした重さに思わず顔が歪みそうになるのをなんとか耐えた。
師は簡単なことのように言ってくれるが、どちらの魔導書も古い魔法言語で書かれた書物であり、そう簡単に読める代物ではない。師匠じゃないんだから無理です。心底そう言いたくなったが、朝焼け色の瞳はそれを許してくれそうに無い。つい勢いのままに頷いたものの、これは相当頑張らねばなるまい。
ここで負けてなるものか。ちょっと視界がぼやけたのは決して涙のせいではない。これは心の汗なのだ。
「読み終わったら言え」
「はい…」
頷くこと以外に何もできずすごすごと引き下がり、エギエディルズの研究室の片隅に作られた自分のスペースで、ようやくウィドニコルは腰を落ち着けることができた。そしてそこでこっそりと、吐き出しかけた溜息を噛み殺す。ああ、魔導書の分厚さが目に痛い。
この広い王宮において、黒蓮宮からそれなりに距離のある王宮図書館から必死に本を運んできた弟子に対するこの言い草でこの所業。
いい加減慣れもしたし、そういう人だと解ってはいても、ちょっとくらい大目に見てくれてもいいのではないかとつい思ってしまう。
理不尽なことを言われているわけではないし、決してできないことを言われている訳でもないのだと解っているがもう少しおまけがほしいところだ。
しかし、そんな甘さを見せる師匠なんて師匠じゃないよなぁなどと思ってしまうのも、また事実である。
そろそろと濃茶の魔導書の方に手を伸ばしながら、ウィドニコルは、部屋中に積み上げられた図書や研究道具、乾燥させた香草や薬剤瓶が立ち並ぶ合間から、師の様子を窺った。
彼は相変わらず、手元の魔導書に熱中している。その穏やかな姿を見ていると、まるであの戦いが嘘であったかのように思えるから不思議だった。たった数ヶ月前のことであるというのに、もう何年も前のことのように思えてしまう。
あの戦い。それが何であるのかなんて、五つにも満たない幼子でも知っている。
それはすなわち、古の魔王との戦いである。
五百年ぶりに復活した魔王を倒し、世界に平和を取り戻した立役者の一人が、自分の師たるエギエディルズであることを、ウィドニコルはよくよく理解していた。
“救世界の英雄”。自分もまたその一人であると世間では騒がれているが、自分ができたことなどほとんど無かったと思っている。
師であるエギエディルズの訃報を受け、この王都を発ち、なんとか勇者一向に合流して魔王軍と戦ったものの、そこで成すことができた功績など、師とは比べるべくもない。
禁呪とされていた大魔法を発動させ、魔王の側近諸共死んだと思われていた師。魔王城を目前にして、その幹部を相手に死を覚悟した時、彼は現れてくれたのだ。
まさか、その幹部の側近として横に控えていた仮面の男が、他ならぬエギエディルズであると、誰が想像したというのだろう。
自分たちに向かってではなく、幹部に向かって攻撃魔法を放った仮面の男の、その仮面の下の顔を見たとき、ウィドニコルは思わず泣き出してしまったものだ。そんな自分と反対に、勇者は「生きてるって信じてたよ」と、姫君は「遅くってよ」と、騎士団長は「いいとこ取りかよ」と、それぞれ笑っていたのだから、さすがとしか言いようが無い。
師は、行方をくらませている間も情報集めに奔走し、魔王軍に侵入するという危険まで冒し、そして、最高のタイミングで現れてくれた。そんな師を、ウィドニコルは心から誇りに思う。
漆黒を持つ麗しの魔法使い。現代においては詩人に謡われ、やがて歴史書にその名を刻まれるであろう、稀代の魔法使い。
何故ウィドニコルが、そんなエギエディルズに師事するようになったかと言えば、理由は簡単、他に適任がいなかったからである。それはウィドニコルの師になれる人間が、という意味であり、エギエディルズの弟子になれる人間が、という意味でもある。
当初はその件について、守護神たる女神に「どうしてですか」と嘆いたものの、今では感謝してもしきれなくなった、その事実。
ウィドニコルの魔力は高い。それはその見た目、すなわち灰銀に黒混じりの髪が何よりの証明だった。
王都に住む商家の三男として生まれたウィドニコルは、折を見て魔法学院に入学したのだが、その魔力の高さとは裏腹に、内向的な性格を持つ少年であった。
それが災いしたのだろう、気付けば同級生たちの鬱憤の吐け口となり、からかいやいじめの格好の餌食となっていた。何も言えずに、反抗もできずにいたウィドニコルであったが、ある時とうとうウィドニコル自身の鬱憤が爆発した。
暴走した魔力は同級生をなぎ倒し、ウィドニコルはあわや退学になりかけた。そこを黒蓮宮に召し上げられ、当時から色々な意味でその名を世間に知らしめていたエギエディルズの弟子という形に収まったのだ。
エギエディルズに初めて会った時、ウィドニコルは、なんて綺麗なひとだろうと思った。そして同時に、なんて怖いひとなのだろうと思った。そしてその印象は、正直なところ今でもあまり変わっていない。
師はいつだって、それこそあの戦いの最中であったって綺麗だったし、あの戦いが終わって平和になった今でも、ウィドニコルにとっては怖い師匠だ。
けれど、あの戦いの後から、師は決してそれだけの人ではないことを知った。ああそうだ、そうだとも。それを教えてくれたのは。
「師匠」
「なんだ」
耳触りの良い声音がよどみなく紡ぐ短い応え。その突き放すような言い方に、以前はどうしてもびくついてしまって、それが時に、余計に師を苛立たせていた。
そんな自分に、師が怒っているわけではなく、ただそういう言い方が癖になっているだけなのだと、教えてくれた人が居る。脳裏に蘇ったその人の面影に、気付けば口が勝手に動いていた。
「フィリミナさんはその後いかがですか?」
ぴしり。空気が固まった。
「―――――いきなり、なんだ」
「すすすすすみません口が滑りました何でもありません!」
朝焼け色の瞳に底冷えするような光を宿して吐き出された、地を這うような低い声音。ウィドニコルはぶんぶんと首を左右に振った。だがエギエディルズの視線の鋭さは変わらない。冷や汗がだらだらと少年の背中を流れ落ちていく。しまった、これはもしかしなくても逆鱗だった。
考えてみれば…いいや、考えて見なくても“彼女”のことが、師にとって逆鱗であることくらい解っていたというのに、どうしてこの口はうっかり質問などしてしまったのだろう。嗚呼、師の視線が痛いことといったら。
王都に帰還して以来、老若男女、身分の貴賎関係なく、誰もが耳を欹てるその問題。エギエディルズに、そしてそれに付随してウィドニコルにも付き纏ってくるそれ。
すなわち、エギエディルズ・フォン・ランセントの結婚についてである。
そしてその答えは既に出ていた。エギエディルズ・フォン・ランセントは、ほんの一ヶ月前に、予てよりの婚約者であったフィリミナ・ヴィア・アディナと婚姻を結んでいる。だがしかし、その事実を、明確に知る者は未だに少ない。
そのフィリミナ・ヴィア・アディナ嬢とは、ウィドニコルはこれまでに二度対面したことがある。一度は師匠に連れられて訪れたアディナ邸での初対面の時、そしてもう一度は、ふたりの結婚式の時だ。
師の幼馴染でもある彼女は、師や姫君のような飛び抜けた美しさを持つ人ではない。しかし、穏やかな笑みを湛える、落ち着いた雰囲気を持つ女性だった。ウィドニコルが商家上がりだと知っても、その丁寧な態度は変わらず、手ずから香草茶を淹れてくれた人だった。
エギエディルズが吐き出す婚約者相手とは思えない毒舌も、彼女は穏やかな笑みを浮かべて受け流していた。まさか師相手にそんな芸当ができる存在がいるとは思っても見なかったウィドニコルに、彼女はそっと、「エディはあなたのことを気に入っているみたいだから、どうか見捨てないでやってくださいましね」と耳打ちしてきた。あれには本当にどうしようかと思ったものだ。
そんなはずは無いと言う自分に、「本当に気に入らないお弟子様だったら、エディは早々に追い出してしまう人よ」と彼女は笑った。そこで初めてウィドニコルは、師に「あれをやれ」「これをやれ」と言われたことこそあれど、魔法学院の同級生の時のように理不尽に罵られたことは無いことに気付けたのだ。
他ならぬ彼女が一番最初に、エギエディルズが、恐ろしいだけの存在ではないことを教えてくれた。
彼女と師が並ぶ姿は、失礼ではあるが師のほうがよっぽど美しいにも関わらず、不思議と絵になっていた。二人の間に流れる空気は、何故だか居心地のよいものだった。
そんなエギエディルズとフィリミナの結婚式は、救世界の英雄に相応しからぬ、大層地味なものだった。両家の親類と、自分を含めた旅の仲間くらいしか参列者の居ない小さな式は、本人達が望んだものであったというが、それにつけても小さなものだった。
国の英雄の結婚式とあれば、国を挙げての大催事であるべきものである。魔王を倒して帰国した際の凱旋パレード以来、慶事のなかった国にとっては国民を沸かせる良い催しになってもおかしくないものだったが、それを断固として拒否したのが当の英雄その人だった。
曰く、「これ以上見世物になってたまるか」とのことである。
おかげで未だにエギエディルズが結婚していることを知らない輩が多く存在し、いざ自分の娘を嫁に、だとか、前からお慕いしておりました、だとかいう台詞を言い出す人間が後を絶たない。
エギエディルズの毒舌は宮中でも知れ渡っており、また、その魂に刻み込まれた漆黒への畏怖故か、直接本人にその辺りの事情を聞こうとする猛者はなかなか存在しない。その分、エギエディルズの弟子であるウィドニコルにその質問が殺到している。
この部屋に来る前、ダイナン候に呼び止められたのもそのせいであった。今にも「是非娘を彼の元に嫁がせたいから間を取り持ってくれないか」とでも言い出しそうな権力者を相手に、なんとか言葉を尽くしてその場を辞したものの、危うく要らないことまで口走りそうになってしまった。
そんな弟子の気苦労を知っていようといまいとお構い無しに、師はその手の書物を音を立てて閉じ、ウィドニコルを朝焼け色の瞳で睨み据える。慣れているが、怖いものは当然怖い。
「どうもこうも、お前が気にするようなことじゃないだろう」
「すみません失言でした…! でもあの、そうは言っても、最近本当に多いんです。結婚しているのかとか、婚約者はいるのかだとか」
「は、今まで散々人を化け物扱いしてきた連中の言うことだ。小蝿がうるさいとでも思っておけ」
つまりは余計なことを言うな、という意味なのだろう。酷い言い様であるが、戦前の扱いを思えばエギエディルズがそう言うのも無理は無い。
生粋ではなく混ざりものであるウィドニコルにさえ、周囲から向けられる視線は決して優しいものでは無かったのだ。混ざり気など一切無い、純粋な漆黒を持つエギエディルズに向けられる視線や言葉の残酷さなど今更思い返すまでもない。周囲の心無い言動の数々を、ウィドニコルは散々垣間見てきた。
だからこそ、ウィドニコルとてできることなれば少しでもその防波堤になりたいと思っている。思ってはいるのだが、相手もなかなかにしつこいのだ。ウィドニコルがなかなか口を割らないせいで業を煮やしてきているのかどうかは知らないが、とにかくしつこい。「はっきり答えろ」と迫ってくる瞳にちらつく欲望を見せつけられるたび、ウィドニコルは頭を抱えて逃げ出したくなる。偉い人怖い。女の人怖い。
そう身体を震わせるウィドニコルに、エギエディルズは机に肩肘を突き、不快さを隠しもしない溜息を吐く。その溜息はウィドニコルに対してではなく、これまで己を恐れ忌み嫌ってきた輩達に向けられていた。
「あいつらが欲しいのは俺の妻という立場ではなく、英雄の妻という立場だ。相手にするだけ時間の無駄にしかならん」
「それは…」
そうかもしれない、と言いかけて寸前でなんとか押し留めた。それを言ってしまうのは流石に躊躇われた。しかし言わずとも師にはきちんと伝わっているらしい。ほら見ろ、とエギエディルズはその柳眉を顰めてみせる。
「お前には今後も俺の話だけじゃなく、お前自身についても余計な話がいくと思うが無視しておけよ。痛い目を見たくなければな」
「…あの、師匠」
「なんだ」
話は終わったとばかりに本を開こうとする師に、ウィドニコルは首を傾げて問いかけた。
「師匠は、どうしてフィリミナさんと結婚したことをそんなに公にしたがらないんですか?」
そうしたら、師の言う“余計な話”も多少どころではなく減るのではないだろうか。
そうウィドニコルが空色の瞳を瞬かせると、エギエディルズはなにやら苦虫を噛み潰したような表情を、その美貌の上に浮かべた。突かれたくなかったことを突かれたと言わんばかりの表情だった。
また逆鱗に触れてしまったかと思わず首を竦めると、師はそんなこちらを見つめ、渋々といった様子で重々しく口を開いた。
「…あいつは、俺の妻だ」
「え?」
「あいつ自身もその意味を理解しているが、だからと言ってわざわざ要らぬ火の粉を浴びさせる必要はないだろう」
莫迦なことを考える奴はどこにでもいるからな、と師は続けた。予想外のその台詞に思わず彼の顔を凝視すると、朝焼け色の瞳とばちりと目が合ってしまった。その途端、師はらしくもなく、即座にその視線を逸らしてしまう。
ウィドニコルはきょとりと首を傾げる。これは、つまり。
「えーと、それってつまり、師匠がフィリミナさんを守りたいからってことですよね」
「………ウィドニコル、さっき読めといった本の青い方、もう20ページ追加だ」
「ええっ!?」
「うるさい。さっさと読め」
ただでさえげっそりするような課題の量が、どうしてだか更に増えてしまった。これが慌てずにいられようか。
いきなり横暴です職権乱用よくありません!と言おうにも、師はさっさと再び手元の魔導書に取りかかってしまい、こちらの言葉になど耳を貸してくれる様子も無い。ウィドニコルが目の前の魔導書を前に呆然とした、その時だった。
「エディ、またウィドニコル様をいじめていらっしゃるの?」
穏やかな声が、エギエディルズの研究室に割って入ってきた。ウィドニコルにも聞き覚えのある声だ。
その声の聞こえてきた扉を見遣り、朝焼け色と空色の瞳が、それぞれ大きく見開かれる。
「フィリミナ!?」
「フィリミナさん!?」
「今朝方ぶりですわね、エディ。ご機嫌よう、ウィドニコル様」
穏やかな笑みを浮かべ、フィリミナ・ヴィア・アディナ改め、フィリミナ・フォン・ランセントがそこにいた。
「フィリミナ、何故ここにいる?」
「まあ、ご挨拶ですこと。忘れ物を届けに来ましたのに」
昨日使うつもりだと仰っていらしたから、と一冊の魔導書を見せながらフィリミナは研究室に足を踏み入れた。そんな彼女の元に、エギエディルズは椅子から立ち上がりつかつかと近づいていく。
「それはウィドニコルに読ませるつもりだったものだ。急を要するものじゃない」
「あら、でしたらお邪魔してしまいましたわね」
「…別に、邪魔とは言っていないだろう」
「そうですか?」
くすくすとフィリミナが笑うと、ばつが悪そうな表情を浮かべて師は視線を逸らす。ウィドニコルは思った。何か、自分は、とんでもないものを目の当たりにしているのではないかと。
あの師が。稀代の魔法使い、漆黒持ちのエギエディルズが。同年代の女性を相手に、そんな反応をするだなんて。
そして更にウィドニコルは、信じられないものを目にすることになる。
「―――――フィリミナ」
「はい?」
「ついている」
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
(う、わ―――――!)
思わずウィドニコルは内心で叫び、目を逸らした。どうして逸らさずにいられただろう。ものすごいものを見てしまった。
それは決して大した動きなどではなかった。エギエディルズの白い手が、フィリミナの髪についていた薄紅の花弁を取り払った、たったそれだけの、些細な、と表現されるに相応しい動作だった。
だが。だがしかし、とウィドニコルはばくばくと跳ね上がった鼓動を押さえ込む。
エギエディルズのその、フィリミナの髪に触れる手が、どれだけ丁寧で優しいことか。その瞬間にふいに浮かべた笑みが、どれだけ甘いことか。夜の妖精のような浮世離れした美貌が、その瞬間、確かに、ただの恋する男の顔に変わったのだ。
最近妙に師に接近しようとする奴らに見せてやりたいとウィドニコルは心底思う。あの冷徹非情の漆黒の魔法使いが、こんな仕草ができることを、こんな表情を浮かべられることを、こんな雰囲気を纏えることを、誰が知っているだろう。
そのくせフィリミナは、そんな手つきで触れられようとも、そんな笑顔を向けられようとも、「回廊でくっついたのかしら?」なんて呟いているばかりだ。それが特別なことだなんて思ってもいないようだ。
平然としていて、頬を染める素振りすらない彼女の態度に、はたとウィドニコルは気が付いた。気が付かざるを得なかった。
つまり、師のこの反応は、彼女にとっては、当たり前のことなのだ。驚くべくも無い、いちいちときめくべくも無い、至極当たり前のことなのだ。そうだとしたら。そんなものは。
(誰にも、勝ち目なんてないってことじゃないか)
師には、彼女しか見えていない。いくら自分につなぎを取ってくれと頼んでこようとも無駄なことだ。エギエディルズの態度が、全てを証明している。
そう息を呑んでその様子を見つめるウィドニコルの視線の先で、二人のやりとりはまだ続いている。
「それではわたくし、馬車を待たせてありますからこれで失礼しますわ。今夜は遅くなられるの?」
「いや、そのつもりは無い」
「解りましたわ。ではお仕事、がんばってくださいね」
「待て。そこまで送っていく」
「まあそんな、すぐそこですわよ?」
「いいから」
そう言って、ウィドニコルの目の前で、師はフィリミナの腰にごく自然に手を回した。そんな夫の態度に、彼女は驚いたように目を見開き、やがて花がほころぶように微笑んだ。決して派手な美貌ではない。あからさまに目を惹くようなうつくしさなどありはしない。けれど嬉しさを、喜びを、少しも隠しもしない笑顔だった。それを前にして、なんでもないように顔を逸らしたエギエディルズの耳は、先ほどの花弁のように薄紅色に染まっている。
「ウィドニコル。ちゃんと読んでおけよ」
それでもなお肩越しに振り返ってそう言い放った師に、はい、とウィドニコルは反射的に答えた。
そうして、部屋を出て行った若きランセント夫妻の後ろ姿を見送り、ああこれからも自分はこんな光景を嫌というほど見せられるんだろうなと、小さく溜息を吐いた。そうすることしか、少年にはできなかった。




