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エギエディルズの王宮勤めはそれなりに順調だった、と言える。王やその側近たちはこの漆黒を驚きこそすれど忌避することはなく、むしろ「他国への良い脅しになる」と悪い笑顔を浮かべるような御方達だった。
フィリミナとの婚姻は結局先延ばしにされた。王宮勤めの忙しさや落ち着かなさが理由の一端でもあったが、それが一番の理由ではなかった。漆黒の髪を持つ自分と、アディナ家の婚姻に対し、上層部の一部が異を唱えたのだ。漆黒を恐れながらもその力に利用価値を見出した者が自らの娘との婚姻を望んだり、逆に、これ以上の脅威を生み出させてたまるものかと自分が婚姻し子を成すことそのものを反対したり。
自分の立場上そう簡単に結婚できるとは思ってはいなかったが、それでも腹が立った。そして、焦りがあった。既に自分は彼女を七年以上待たせていた。実は自分が魔法学院にいる間に、彼女に婚約の申し入れが数度あったらしい。それがアディナ家と言う家名に惹かれただけの阿呆ばかりならばいざ知らず、精霊による傷があっても構わないと言う、彼女の一風変わった穏やかな気質に惹かれた猛者たちが。それはアディナ家当主たる彼女の父が、彼女に知らせぬまま断ってくれていたそうだが、それでもいつか、彼女が自分から、エギエディルズとの婚約を破棄したいと言い出すのではないかという恐れがあった。
けれど、彼女は何も言わなかった。何も望まなかった。ただいつも笑って、仕事の合間を縫ってアディナ邸に顔を出す自分を出迎え、そして見送るばかりだった。
理不尽にもそれに怒りを覚えたことがある。事実、それに対し、苛立ちをぶつけたこともある。それでも彼女は笑っていた。困ったように、仕方ないと言いたげに、何も望むことは無いとばかりに。ただ、笑うばかりだった。
彼女の笑みは自分の好むところであったが、誤魔化すような笑みだけはどうしても好きになれなかった。婚約者という確固たる立場を手に入れていたはずなのに。まだ足りないのかと、そう思わされた。
そうこうしている内に弟子まで取らされ、一時は本気で王宮を辞してやろうかとか考えた。不幸中の幸いなことに、弟子としてやってきた少年は、その髪色ばかりではなく中身もまた養父によく似た優しく穏やかな気質で、まぁいい小間使いができたと思えば、自分の空間に他者がいることも耐えられた。
本人が聞けば「師匠、それはあんまりです!」と泣き出しそうなものだが。とにかく、そんな冗談も言えるような弟子ができたのは悪くはないことだったのだろう。
そんな自分のそれなりに可愛い、それなりに便利な一番弟子は、一度フィリミナに会わせたことがある。
元々平民出の弟子は、初めて相対する貴族の令嬢にびくついていたが、彼女が穏やかな気性をしていることを悟るが早いかすぐに懐いた。…昔から、子供や年下に懐かれるのが彼女という人間であったが、自分の弟子までその性質を発揮しなくてもいいのではないだろうか。帰り道、「素敵な方ですね」と何やら頬を赤らめて言った弟子の姿に、もう会わすものかと心に誓った。
そんな折のことだった。久々に王宮の研究室からランセント邸の自室に戻った際、顔を合わせた養父に言われたのだ。
「エギエディルズ、フィリミナ嬢とはその後どうかな?」
「どう、とは?」
「そう睨まないでくれないかな。進展はあったか、ということだよ」
お前が魔法学院から帰ってきて随分経ったからね、と養父は笑う。進展も何も、とその時ばかりは、養父相手にも関わらず、エギエディルズは思わず歯噛みしてしまった。相も変わらず上層部はとやかく口を挟んでくるし、フィリミナは何も言わないまま。そんな彼女に対し自分もまた何も言えず―――結果、何も変わらずに時間ばかりが経過していった。
姫君の茶会に招かれたのは、その頃のことだった。
「ふぅん? 噂の通り、人形のような顔をしていること」
突然の招待を訝しみながらも通された王宮の中庭。その東屋で、顔を合わせるなり、言い放たれたその一言。不敬であると解っていながら、思わず眉を潜めかけた。それはお互い様だろうと言いそうになった。波打つ白金の髪に、琥珀色の瞳の少女は、その愛らしく美しい姿には過ぎた覇気を纏って、確かに其処に君臨していた。
話が違う、と内心で思った。同時に、納得せずにはいられなかった。流石あの王の娘御だと。蝶よ花よと育てられただけであったならこうはなるまい。そんな可愛げなど、自ら振り払ってきたに違いないと思わされるような少女だった。
これはとんだじゃじゃ馬か、と口には出さぬとも顔にでかでかと書きながら頭を伏せている自分を咎めることもせず、姫は「どうぞ座って」と正面の椅子をその白く繊細な手で示して見せた。大人しくそれに従う自分に、満足げに姫は頷き、泰然と微笑んだ。フィリミナとは全く異なる笑み。
「回りくどいのは好きではないの。だから単刀直入に言いましょう。あたくし、結婚相手を探しているの」
「…は?」
「第一王位継承者として生まれたこの身よ。それも女神の加護なんて厄介な付加価値付きでね。今の情勢を鑑みても他国から下手に婿を取る訳にもいかないから、こうして国内から候補者を適当に見繕って招いているってわけ」
お解りかしら?と小首を傾げる仕草は年相応に可愛らしい。が、言っている内容は欠片たりとも可愛らしいものではなかった。
確かに姫は結婚適齢期である。この美しさに加えて、生来の女神の加護。国内外を問わず、彼女を得たいと希う王侯貴族はごまんといる。今のところは王がそれらの求めを全て跳ね除けているが、いつまでもそれが続く訳がないことはこの国の貴族であれば誰もが解っていたことであったし、平民たちは自分たちの生ける宝石を誰が射止めるのか、心待ちにしている風潮もあった。
そんな姫が、自ら相手を選定し、茶会に招いているという。それを隠しもせずに自分に伝えてくる、その意味が解らぬほどエギエディルズは鈍くは無い。
「…お言葉ですが姫、私には既に婚約者が」
「あら、そんなことくらい解っていてよ。将来の夫となるかもしれない相手の調査をすることくらい、貴族の間ではよくある話でしょう? 王族であるあたくしなら猶更だわ」
それはつまり、婚約者が居ようと関係ないと言っていることと同意義であった。…その場ですぐに席を辞さずにいるのには、随分と気力が要った。冗談では無かった。年下である姫を、大人げもなく睨みつけるが、彼女は怯えるでもなく、何処吹く風と言った風情で笑っている。むしろ周りに控えている侍女と騎士達の方が、よっぽど慌てたように自分と姫を見比べていた。ここで事を起こせば洒落や冗談で済まされることではなくなると解っていた。それでも許せることと許せないことというものがあった。
「私は、彼女以外と結婚するつもりはありません」
「でしょうね」
反感を買うのを承知で言い放った台詞に対し、姫は至極あっさりと頷いた。美しい白金の髪が、陽光を浴びてきらきらと輝く。彼女は悪戯気な光を宿し、驚きに固まっているエギエディルズを見つめる。王譲りの、蜂蜜を溶かしたような琥珀の瞳が、真っ直ぐにこちらの姿を捕えていた。其処には、こちらに対する執着も何もない。ただ興味深そうな、自分にはない宝物を羨む子供のような、その瞳の光。
「ふふ、お気に触ったかしら? 見てみたかったのよ。稀代の魔力を持つ漆黒の魔法使いを。それだけの力を持ちながら、たったひとりをもう決めてしまっている貴方を」
琥珀の瞳が臥せられる。どこか焦がれるようなその声。まるで、本当は想い人がいるのだと、そう言いたげなその切ない表情。だがその表情はすぐに掻き消され、姫は笑顔と言う名の無表情へとまた顔をまた戻す。
―――――そういえば。そうふいに思う。
彼女と自分の立場は正反対のようでありながら、実は酷く似通っているのだと、今更ながら気付いた。姫が、誰もが焦がれる女神の加護の証の白金の髪を持つならば、自分は、誰もが厭う魔力の高さの証の漆黒の髪を持つ。どちらも、只人ではない証。その力ゆえに、良くも悪くも、人から遠ざけられるもの。
その中で自分はどうだっただろう。生家こそ碌でもないものであり、当時はこの生を疎んじたものだが、それでも養父に救い出された。そして、フィリミナに出逢えた。血の繋がりも何もないのに、自分のことを「すきだ」と言ってくれる存在に。ならば姫は。
十代後半と言う花の盛りの彼女は、感情を見せぬ笑みを浮かべたまま、侍女に注がせた茶を飲んでいる。その水面に映る瞳の光の意味をエギエディルズは知らない。知るべくもない。
「あたくしとて、結婚というものに夢を持ちたいのよ。お父様とお母様を見ていると、余計にね。貴方とでは駄目だわ。傷の舐め合いなんて冗談ではなくてよ」
そう、小鳥のさえずりのように愛らしい声で、姫は「もう下がっていいわ」と続けた。勝手なことを、と思うことはできなかった。その孤独が、理解できないわけではなかったから。もしもフィリミナと出逢っていなかったら。そう思う事などない。在り得ない。『傷の舐め合い』。正にその通りでしかない。
そして貴族として、王族に対する礼を取り、踵を返すエギエディルズの背中に、姫の声がかけられた。
「ああでもそうね。一つ、いいかしら」
「…なんでしょう?」
まだ何かあるのかと、思わず表情に出して問いかければ、気を悪くした様子もなく、姫はくすくすと笑った。
「女はね、確かに千の言葉より一の態度を望む生き物だけれど、同時に、たった一つの言葉を欲しがる生き物でもあるのよ」
貴方は言葉が不自由そうだから、助言して差し上げてよ。そう言ってひらり、と白い手を優雅に振る姫君の姿に、巨大な御世話だと思った。




