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魔法使いの婚約者  作者: 中村朱里
補足:エギエディルズ
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それから、エギエディルズは養父に連れられて、ちょくちょくアディナ邸へ顔を出すようになった。訪れる度にフィリミナは、これまでエギエディルズが接してきた誰とも異なる笑顔で、「いらっしゃいませ」とエギエディルズを出迎えた。

“エギエディルズ”という発音は、未だ幼い彼女の呂律では難しいようであったから「エディでいい」と伝えた。養父から貰った大切な名前をそんな風に呼び慣らすなど、他の誰かであれば許せなかっただろうけれど、彼女ならばそれが許せた。


晴れの日は広い中庭で、雨の日は彼女の自室で、互いに魔導書を読み合う時間は、ただ穏やかだった。時折彼女の弟から視線を―――それも畏怖や嫌悪などではなく、どちらかといえば大好きな姉を奪う男に対する嫉妬の視線を感じるくらいで、後は煩わしいものなどなかった。

ただ本を読むばかりではあったけれど、それで十分だった。楽だった。ランセント邸には無い魔導書の知識が詰め込まれていく過程は楽しかった。少しずつ、フィリミナに追いついていく実感があり、それもまた楽しかった。彼女はそれを、少しばかり面白く思っていなかったようだけれど。

ああそうだ。彼女は妙に『大人』であろうとしていた。事実、それができる少女だった。だからこそ、自分よりも何かと大人だった彼女が、時折覗かせる子供らしさがこれまた妙に嬉しかった。例えば彼女が魔導書を読み間違えた時とか。自らのドレスの裾に引っかかって躓いた時とか。自分が思わず笑うと、悔しそうに顔を逸らすのが面白くて。そんな仕草のどれもが、まだ自分が彼女に追いつける余地があることを教えてくれて嬉しかったのだ。


そんな穏やかな日々だから、勘違いをしていた。自分は異端な存在などではないと。このまま養父や、フィリミナと、穏やかな日々を過ごしていけるのだと。そう、勘違いをした。それが勘違いであると思い知らされたのは、アディナ邸で、自分の知らないフィリミナの『おともだち』とやらと鉢合わせした時のことだ。

常であればそうならないよう、それぞれ調整してあったはずが、相手側の子供がどうしてもフィリミナに会いたいと駄々をこねたせいであるらしかった。中庭で二人、本を読んでいたその時、大人たちの制止の声を振り切って乱入してきたその子供達は、自分の姿を見て口ぐちに言い放ったのだ。「化け物」と。そしてそのまま泣き喚き逃げ出した子供等を、自分はただ見送った。

聞き慣れていた言葉だった。悪魔も、魔物も、化け物も、全て言われたことがある言葉だった。ただ養父の庇護下に入ってからはあまり直接的に言われることがなくなっていて、少し驚いただけだ。それなのに、動けなかった。何故動けなかったのだろう。今更傷つくこともない言葉であるはずだった。フィリミナの前で言われたことが衝撃だったのかもしれない。他人から言われることで、彼女もまたそんな風に改めて自分を見るのではないかと思った。

けれど、そうではなかった。


「エディ」


たった一言。それだけだった。そう言って、彼女は初めて出逢ったときと同じように自分の手を握って、そのままずっと、養父や彼女の両親がやってくるまでそのままでいた。

それに救われた、とは言わない。たったそれだけで救われるならば、もっと早くにあの暗闇は晴れていただろう。瞼の裏の黒よりもなお深いあの暗闇を、薄く光る紫の光を、とうの昔に忘れていただろう。だから救われた訳では無い。けれどそれでも、確かにあの手は、小さいながらも温かく、確かにこの心に染み入った。


そうして、あっという間に二年が経った。

互いに本を読み合う穏やかな日々は、少しずつ、けれど確実にエギエディルズのこころを癒していった。

そして同時に、養父が驚くほどに、まるで乾いた砂が水を吸収するように、エギエディルズは知識をその頭へと蓄積させていった。フィリミナが読む魔導書の難易度がひとつ上がるたびに、エギエディルズの魔力とその技術もまた向上していった。



そして、あの事件が起こったのだ。



「エギエディルズ。ここを開けなさい」


扉の向こうで、最早何度目かも知れぬ、養父の呼ぶ声がする。けれどそれにエギエディルズが応えることはない。

カーテンを閉め切った自室。ランプはこの自室に戻ってきた時にこの手で壊した。そうして扉に幾重にも封印の呪を懸けて、寝台の上でシーツを頭から被り蹲っている。まるでかつてのあの暗闇のようだと思う。時間の流れは曖昧で、もう何日この部屋に籠っているか解らない。誰もいない、何もない、ただしんでいないだけの自分。過ぎた魔力は、その宿主を生かすために空気中からマナやエーテルを吸収する。おかげで飢えることも無ければ乾くことも無い。ありがたくもない話だ。閉じた瞼の下、脳裏に蘇るのは、燃え盛る炎と、自分に覆い被さるようにして倒れたフィリミナの姿。瞼に焼き付いて離れない、あの光景。


「ッ!」


手の平に爪が突き刺さるほどに強く拳を握り締める。痛みはある。けれど彼女はもっと痛かったに違いない。そう思う事しかできない自分が歯痒くて、情けなくて、何より、憎かった。


あの日、フィリミナが持ってきた魔導書は、緋色の装丁が鮮やかな、上級魔導書だった。「綺麗だったから持ってきてしまいましたの」と、悪戯気に微笑んでいた彼女。自分とてその魔導書が、まだ自分達には過ぎたものであるとは解っていたが、それでも、興味には勝てなかった。

ページを捲るごとに、描き連ねられている美しい精霊たちの姿に彼女は心を奪われているようだった。『魔法ってすごいんですのね』。そう言った彼女の笑顔は、いつもの大人びた笑みとは違うもので…だから、訊いたのだ。『見てみたいのか』と。愚かだった自分。漆黒に生まれついたこの髪を厭いながら、それでもあの時は、自分ならばできると、そう、過信した。


――――――――――エディ!


彼女のその悲鳴のような声に、覆いかぶさってくるその身体に。そして、その向こうに見えた焔の獣のその爪に。世界が真っ白になったような気がした。大丈夫、と囁き続ける彼女の声が無ければ、きっと自分はアディナ邸を吹き飛ばしてしまっていたに違いない。半ば意識を失いながらも彼女は自分のことを気遣っていた。それに比べて自分はどうだ。彼女が目覚めたと聞いても、自室から動けずにいた。養父に予てから話に聞いていた魔法学院に行きたいとだけ伝えて、自室に自分で封印をかけて閉じこもった。自分の魔力は既に養父のそれを凌いでいたから、誰に邪魔されることもなかった。そうしたのは、そうせずにはいられなかったのは、自戒のためではない。それ以上に、ただ、彼女にまで「化け物」と罵られるのが恐ろしかった。彼女の背には焔の獣の爪痕が残り、最早消えることは無い。「お前のせいで」と、彼女があの穏やかな笑みを消して自分を罵るだけの理由ができてしまった。

だから謝ることどころか会うことすら自分はできずにいたというのに彼女は、フィリミナは、未だ重症と呼べる状態のまま、ランセント邸へとやってきた。


「ごきげんようエギエディルズ様。フィリミナ・ヴィア・アディナ、病床より馳せ参じましたわ」


その時の衝撃と言ったらなかった。我が耳を疑い、思わず身体を乗り出して、そのまま寝台から落ちた。まさか。そんな馬鹿なことがあってたまるものか。けれど、確かに聞こえた声は、フィリミナ・ヴィア・アディナのものでしかなくて。


「…エディ。聞こえていらっしゃるのでしょう。開けてくださいませ」


続けざまのノックにも動けなかった。扉の封印に触れてくる気配があったから、扉の向こうで彼女はこの開かずの扉と格闘しているのだろう。そんな余裕などないはずなのに。止めなくては、と思った。早く止めて、なんでもいいから安静にさせなくてはと。けれど身体はいう事を聞かず竦んでばかりで、どうしたらいいのか解らなかった。

やがてガチャガチャと音を立てていたドアノブの音が静まり、養父が彼女を連れて行ってくれたのかと安堵した瞬間。


「開けろと、申し上げているのです!」


バン!!!と扉が大きく震え、同時に彼女の短い悲鳴が聞こえた。その声に、頭が真っ白になった。


「フィリミナ!? フィリミナ、だいじょうぶか!? っ!?」

「…捕まえ、ました」


もつれそうになる足を動かし部屋を飛び出した瞬間、其処で蹲っている小さな体を見つけた。反射的に手を差し伸べ、その身体を支えようとした途端に掴まれた腕。ひきつりながらも、普段の笑みを浮かべてみせようとするその姿に、自分が情けなくて仕方がなくなった。自分は彼女に何をさせているのだろう。怪我を圧してまで此処までこさせて、その上更に無理をさせて、笑わさせて。そんな自分に「謝らないで」と彼女は言った。「また遊んでほしい」と彼女は言った。こんな自分を、好きだと、言った。


「フィリミナは、それで、いいのか」

「それが、いいのです」


そうして意識を失いつつありながらも、彼女は笑って見せてくれた。遊んでほしい? それはこちらの台詞だった。言えるはずがない、エギエディルズの台詞だった。だから彼女が言ってくれたその台詞に、「とうぜんだ」と答えることしかできなかった。

そして彼女はその後すぐにやってきた養父に連れられ、アディナ邸へと意識の無いまま帰って行った。自分はそれを、部屋から見送った。


養父に呼び出されたのは、その日の夜のことだった。飲まず食わずだった身体に水と御粥を流し込んで養父の書斎に訪れた自分に養父が言い放ったことは、「魔法学院へ行く気に変わりはないか」ということだった。


「今回の件で、お前の存在が改めて公になってしまってね。野放しにしておくには危険すぎると学長達が言ってきたんだ。今までは私が抑えているからということで済ませてきたが、それだけでは足らないらしい。全く、年を取って少しはマシになったかと思えば、私が居た時と何も変わらない御仁達だ」


そう呆れたように、疲れたように溜息を吐き、その青い瞳を伏せた養父。悔やむように吐き出された台詞には、エギエディルズの方が申し訳なくなるくらいに、気遣いに溢れていた。


「…すまないね。まだ幼いお前を守ってやれなくて」

「おれはもう、十分すぎるほどに、まもられています」


養父にも、彼女にも。だから今度は。そう思った。言葉にすることはできなくて、ただ頭を下げると、養父はぐしゃぐしゃと自分の頭を撫で、そして、思い切り抱きしめてきた。その腕の温かさと力強さが、エギエディルズの背中を押した。だから問いかけることができたのだ。フィリミナの、その身体の状態について。

改めて訊いた途端、養父はそれまでの穏やかな表情を引き締めた。自分の両肩を掴んで口を開いた養父のその表情は、言葉にするよりも余程はっきりと、彼女の状態が決して良いものではないことを告げていた。


「命に別状はもう無いよ。だがね、前にも言った通り、あの子の背の傷痕は、今後もおそらく消えることは無いだろう。いくらアディナ家の令嬢と言えど、世間の反応は芳しくはないだろうね」

「だったら、おれがフィリミナをまもります」

「それは、あの子への罪悪感かい? そんなものならばやめなさい。負い目故に護られてもあの子は喜ばないだろう。むしろ惨めに感じるだけだ」


あの子がそういう子だと、お前も知っているはずだろう? そう続けた養父に、思わずエギエディルズは声を荒げた。


「っちがいます! そんなものじゃありません!」


そんなものではない。この感情が負い目だの罪悪感だのといった感情であるならば、こんなにも苦しくない。罪悪感に、負い目に浸っていればいいだけなのだから楽なものだ。そうでないから、こんなにも苦しい。

彼女に生涯消えぬ怪我を負わせた。その事実について、悔やんでも悔やみきれない。女として、貴族として、魔法に携わる者として、彼女は傷を負ったのだ。謝っても謝りきれることではない。

…けれど。けれど、それを聞いたとき、少しだけ。ほんの、少しだけ、エギエディルズは喜びも感じたのだ。喜んで、しまったのだ。

だってそうではないか。あの傷故に、きっと彼女はもう何処にも行けない。精霊による怪我や傷が厭われる傾向にある世間において、彼女を自ら欲しがる者などそうそう居ないに違いない。きっと、自分以外には。そんな風に思ってしまう自分がどれだけ最低な生き物なのか、エギエディルズは自覚させられた。そんな自分が許せなくて、憎かった。こんな感情を抱く自分が気持ち悪かった。この感情の名前が、解らなかった。

けれど彼女のあの痛みに耐えながらの笑顔が教えてくれた。痛みのせいでいびつに歪んでいたけれど、エギエディルズはあの笑顔を何よりもうつくしいと思った。認めるのが怖かった。けれど認めざるを得なかった。


「おれが、フィリミナをすきだから、です」


言葉にして自覚する。そうなのだ。結局、そういうことなのだ。自分は、エギエディルズ・フォン・ランセントは、フィリミナ・ヴィア・アディナのことが好きなのだ。きっと初めて逢った瞬間から、誰もに厭われるこの髪を、気味が悪いと敬遠されるこの瞳を「綺麗ね」と言った彼女の笑顔を見た瞬間から。彼女に、恋に、落ちていた。

拳を握り締め、真っ直ぐに養父を見上げてそう伝えれば、養父は青い瞳を細め、満足げに微笑んだ。


「お前は私の、自慢の息子だよ」


自分のような厄介者をそんな風に評する物好きは、世界広しと言えどきっとこの養父だけだろう。


そして、魔法学院に旅立つ当日。見送りの為にわざわざフィリミナは、両親と弟と共にランセント邸までやってきてくれた。久々に顔を合わせた彼女は、少しばかり痩せていたよう見えた。けれどその顔に浮かぶ笑顔は、怪我をする前と変わらぬもので、どうしようもなく安堵したことを覚えている。

養父は穏やかに微笑んでいた。事前に話を通されていたらしい彼女の両親は、父親の方はそこはかとなくこちらを睨むように、母親の方は微笑ましげに、自分達を見つめていた。そんな視線に囲まれながら、エギエディルズは、意を決して口を開いた。その時の緊張感は、初めて魔法を使った時以上のものだった。エギエディルズは、その九年間という短い生の中、何かを欲しがることなどほとんど無かったと言っていい。何かを欲しいと思うことなど無かった。けれどこの時は、違った。心の底から欲しいものが有った。断られるかもしれない。冗談でしょうと笑われるかもしれない。けれど、それでも。それでも、彼女の隣にあるのは、自分であるという証が欲しかった。


「フィリミナ」

「なんでしょう?」

「まっていてくれるか」

「はい、もちろん」


いつもの調子で微笑む彼女のその答えが、どれだけ嬉しかったかを知っているのは、きっと養父だけだ。

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