誤解之めかにずむ-- stracture of misunderstand --*小論文です*
誤解というのは恐ろしいもので、一度衆人に誤解の波が広がるとその当人は人間的に疑われるだけではなく社会的にも立場を危うく(若しくは崩壊)させてしまう事がある。
そういった意味で、誤解というものは人間の内にあるものであるのに人間に作用する危険な装置としてみることができる。
ではなぜ誤解という装置が人間の中に普遍的にあり、どういった過程を経て作用してしまうのか。
言葉の綾、という言葉がある。
「付き合ってくれないか」
という言葉を相手はちょっと出掛けるのに同伴してくれという意味で言ったのに、相手は異性の交際を申し込まれたという風に誤解してしまうという言葉の難しさを表した言葉である。 上記の誤解現象は話の方向を決める主語を抜かしたために起こった誤解である。言葉の誤解では大抵このことが原因である。
しかし主語の欠落だけでは説明できない誤解もある。それは行為としての誤解である。
痴漢行為で捕まる人の大半が四十代からそれ以上の年代という想像がある。
最近ではあまり見られなくなったが、痴漢容疑で逮捕され、慰謝料を払いその後に会社をクビにされた男性が無実を訴えて何年か越しに勝訴したというニュースがあった。
この人が無実であったのに痴漢として逮捕されたのには、被害者の痴漢の想像図、または脳の中に蓄積された知識によって誤解が生じたのだと考えられる。でなければ行為をしてないのに逮捕されるはずはない。その空白であった行為が被害者の想像と痴漢に対しての情報の結合によって捏造(誤解)されたのである。
安易な結論をここで言うことはできない。
しかし誤解というものが生じる過程で、被害者や相手が自分の思考や今体験していることについて吟味や分析をしていないのは確かである。感情的に、または反射的に、自分がとっさに出した答えに何の根拠もなく飛びついているように思う。誤解という装置が吐き出すものは吟味や分析を欠いた答えなのである。