湯けむりが山を越えたリナたちに思わぬ癒しを与える
こうしてあたしたちはアルペン山脈を越え、ようやく――温泉郷ファルデンに辿り着いた。
そこは、湯けむりに包まれた静かな温泉郷。石造りの家々が川沿いに肩を寄せ合い、小さな橋を渡ると、どの建物からも白い湯気がふわふわと立ちのぼっている。冷え切ったあたしたちにはとってもありがたい場所だ。
「うわぁ、あったかそー!」
シラがぱっと目を輝かせる。あたしたちの体は、峠越えの疲れで芯から冷え切っていた。マティアが手配してくれた宿に着くなり、あたしたちは即・浴場へダッシュした。
──内湯を抜けると、そこには開放感たっぷりの露天風呂。空に透ける薄青と、立ちこめる湯気。囲む木々の隙間から、光がこぼれていた。
「わー……天国……」
ユニの声が、ぽつりと落ちる。あたしとシラも、ぬるめの湯に肩まで沈んで、同じように、声にならないため息を吐いた。
「ふふ……生き返るー!」
シラが腕をぐーっと伸ばして、長い髪を湯の上に浮かべる。
ユニは湯縁に腕をかけて、ぼんやりと空を見上げていた。
「こんなに広いお風呂、久しぶりだね……」
「うん。背中まであったかいって、こんなに幸せなんだね……」
ふいに、ユニがあたしの胸元を見て、ふと尋ねた。
「ね、リナ。お風呂でもペンダント持ってくるんだね」
「うん……お父様の形見だから」
あたしは目を閉じる。
「今でも、時々考えるの。お父様は、あたしに何を残したかったんだろうって」
「きっと……こうやって、自分の道を進むリナのこと、嬉しく思ってるよ」
ユニが、そっと手を握ってくれる。
「えへへ、なんか、女の子同士でこういうの、いいねぇ〜」
シラがにっこりして、湯面をぱしゃぱしゃし始めた。
「見てー! 魔法耐性の実験中! 温泉でも平気~。ばしゃばしゃしてもだいじょーぶ!」
「なんの意味があるのそれ……」
「ないかも〜♪ でもほら、こうすると、顔だけ出て浮かべるんだよ! 気持ちいー!」
「いかにも溺れそうだからやめてよ」
「っていうか、それお化けの入浴シーンみたい」
「なにそれ失礼〜! じゃあリナもやってみてよ! あ。でも〈謎の湯気が見えちゃいけないところを隠してくれる魔法〉は、まだ開発できてないから気をつけて!」
「やらないわよ!」
あたしたちの笑い声が湯気の中に溶けていった、ちょうどその時――。湯船の外を、誰かが歩いていく影が見えた。ピンク色の髪を白いタオルで軽くまとめ、ぺたぺたと濡れた足音を響かせている。
「うるさいわよ、アンタたち。他の客に迷惑。こういう場所では静かになさい」
その声で、あたしたちの動きがぴたりと止まった。
「……今の声……」
「ユスト……!?」
ベルグシュタットで襲ってきた、あのピンク髪の女。でも彼女は、あたしたちなど見えていないかのように、涼しい顔で去っていった。
「気づいてなかった……?」
「いや、どうかな……」
小声でひそひそやりつつも、ユニはあたしとは別の意味で驚いていた。
「ていうか……今の、反則じゃない……?」
ユニがぽつりと呟いた。
「え、なにが?」
「……あのスタイル。あの手足の長さと胸、腰のライン。ずるい。あんなのを隠していたとは……あれは犯罪級……」
「ユニ!?」
「ごめん。つい……」
温泉という空間は、人を無防備にさせるらしい。
脱衣所でも、ユストと再び出くわした。
髪を下ろした彼女は、まるで別人だった。あの鋭さはなくて、肩で揺れるピンクの髪が、なんだかやわらかく見えた。
「ジロジロ見て。……リナ、ユニ、シラ、だったわね? やっぱりこの宿にいたのね。わかってたけど。アナタたちは追われてるんだから、もっとわかりにくいようにしなさいよ」
敵意も殺気もない。むしろ、口調まで違う……?
「……ここで、いったい何を?」
思わず尋ねたあたしに、ユストはタオルで髪を拭きながら、さらりと答える。
「休暇よ。任務でもないのに”役割”なんて演じない。でも、騒々しいあなたたちは“秩序”を乱しかねない。他の人の迷惑になるようなことはしないことね」
それを聞いて、あたしとユニは、ぽかんと口を開けた。
「それで……いいんだ……」
「律儀っていうか、徹底してるというか……」
ユストはそのまま肩をすくめて、ふわりと去っていった。
そして、湯上がりの休憩所。
「……え、ちょっと待って」
そこには、飲み物を手に談笑する――マティアと、アリスタルコの姿があった。
「うっそ……」
「リナたちも、もう上がったのか。いい湯だったな!」
「アリスタルコさん、ビールでいいです?」
「俺ぁ酒ダメなんでな。オレンジジュースをくれい」
「あ。そういや、女湯にユストもいたろ? さっきあいつにも休暇をやった。何もしないから心配すんな」
「……やっぱり部下だったんだ……」
「お。しまった。言っちゃったな。忘れてくれ。はっはっは!」
あまりに自然すぎるやりとりに、あたしとユニはぽかーん。
「……追ってきた人と、こうして談笑してるの、信じられないんだけど……」
シラが隣から牛乳を片手に乱入してきた。
「オレンジジュースいいなー! でも私は牛乳うー♪」
「温泉の牛乳もうまいよなー!」
やたら息の合う三人組。ユニが、黙ってあたしの肩に寄り添ってきた。その温度に、あたしはふと気づく。
――“役割”って、オンとオフがあるんだ。
あたしたちを追ってきた”執事”でも、温泉ではただの温泉おやじ。
あのなんだか怖くて冷酷だったユストでさえ、休暇中はただの一人の女性客。
それで、いいんだ。そういう時間が、あってもいいんだ。
あたしはそっと目を閉じた。湯上がりの空気が、心の奥まで沁みていった――。
――次回「ep27. リナは風景を見る余裕もなく渓谷を下る」
2025年08月16日 17時00分公開→https://ncode.syosetu.com/n8261kh/27




