初めから
「えっと…誰ですか」
俺は雪猫から発せられた言葉がしばらく理解できなかった。「誰ですか」だと?何をっているんだ、昨日まで、昨日までずっと…
「れんくん、れんくん」
名前も呼んで、張り切って髪を切りに行くって言ってたじゃないか。
「な、なにいってるの、?ゆきちゃん」
「ちゃ、ちゃん?」
「本当に覚えてないの?俺だよ、れんだよ。ゆきちゃん」
「す、すみません」
雪猫は顔を曇らせ申し訳無さそうに目を逸らした。
「どんな関係だった方かは存じ上げませんが、申し訳ありません。覚えて、いなくて」
雪猫の距離のある喋り方が、敬語がむず痒い。
どういうことだ、なんなんだ。なんで、なんでなんだ。
ガラッ
「雪猫さん、目を覚ましていたんですね」
微妙な空気の中入ってきたのは病院の先生だった。雪猫も起きたばかり。どういうことなのか先生へ問い詰めたい気持ちをぐっと抑え痛いほど握っている拳は膝の上へ起き、冷静を装った。
「あの…ゆきちゃん、記憶が、変だというか」
「なるほど。分かりました」
先生は予想していたように、簡単な言葉ですぐ理解しこう続けた。
「もしや、とは思っていました。雪猫さんの体調が落ち着き次第調べてみますので、不安でしょうがもう少しお待ち下さい」
もう先生は、何が起こったのか、雪猫のこれが何か粗方予想がついているようだった。
俺自身も時間が経つにつれて今の状況を理解し何となく予想がついていた。
記憶がなくなっている。
きっと、そうなのだろう。
その後お母様達も来たが鮮明には覚えていないようだった。俺のことは何も、一つも覚えていなかった。過ごしてきた時間の違いなのか?なんで、なんでなんだ。
「では、僕はこれで」
「しっかり休んでね、蓮くん。雪猫のことは気の毒だけど、貴方まで潰れたら雪猫も心配するわ」
「はい」
雪猫が目覚め記憶がない以上、知らない男が病室で寝泊まりするのは不安になるだろう。俺はまた雪猫の居ない家へ帰る。
今日もご飯はなかなか喉を通らなかった。家に帰り冷静になって考えていると
「これは、付き合っているって言っていいのか?」
雪猫は俺のことを覚えていない。勿論付き合っていることも。知らないしそんなつもりもないのだろう。
「まいったな」
心が折れそうだ。いやもう既に折れている。雪猫が事故に遭い、記憶をなくしている。これは現実なのか、そうはどうしても思いたくなかった。話せたというだけでも嬉しかったがそれを上回るショックが大きい。昨日出し切ったと思っていた涙がまた流れ出していく。止まらない。
「ゆき、ちゃん」
寂しい、くるしい、どうしたものかこの気持ち。もう、名前を前のように呼んでくれないのか、頭を撫でてくれたり抱きついてきて甘えてきたりもないのかな、もう、何もできないのか。
冷静になろうとするほど抑え込んでいた感情が溢れ出てくる。つらい。この現実が辛い。大切な人がこの世界から居なくなってしまったような感覚になっていく。雪猫の温もりに触れながら優しい声に撫でられながら眠りたい、さむい、一人は、こわい
気がつくと眠っていたようで外は明るくなり始めていた。会社に連絡を入れ、せめてもと一週間の休みをもらった。
「ホワイトで良かったな」
雪猫はすぐに退院ということはできないので雪猫の私物や服など、家にあるものをバッグに詰めて持って行く。準備を進めていくうちに雪猫の物が減っていき、尚更雪猫がこの世界から居なくなったように思えた。その間も何度も泣き、部屋は片付いていっている筈なのにティッシュが散乱し汚くなっていった。
結局準備を始めたのは8時だったのに時計は12時を回っていた。慌てて家を出て病院へ向かう。今日も雪猫に会えるという高揚した気持ちと俺のことは覚えてなくてもういつも見てきた雪猫じゃない。というまた現実を突きつけられるんだろうな。という恐怖にかられながら足を早めた。
ガラッ
「すみません、遅れました」
「いいのよー、ありがとうね」
「あ、重いんで大丈夫っすよ」
病室に入るなり覚えていないかもしれないので雪猫に私物の説明をしていった。
「えーっと、これが雪猫のお気に入りの服ね!これが、雪猫の誕生日に俺が買ったスノードームね、これは雪猫のお気に入りのぬいぐるみ、これ抱いていっつも寝てるんだよ」
俺は焦っていたのだろう。もしかしたら少し思い出してくれるんじゃないかと、思っていた節があったんだろう。
「え、えーと、ありがとう、ございます?」
「あ、ああ、ごめんね、なんか急に」
ああ、どうしようどうしたものか。涙を堪えるのに必死だ。
「えっと、その、私、貴方のことあんまり覚えてなくてごめんなさい」
「いいんだよ。無理するのが一番良くない。ゆっくり思い出していこう」
辛い、辛い
「ありがとうございます。えっと、では、改めて初めから宜しくお願いします」
「うん、よろしく!」
差し出せれたてを握り、勢いよく込み上げてくる涙を笑顔で蓋をする。
いつも通りの、優しい、温かい手だった。