8.鯉とカポエラ
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放課後、本日も我が根城「ファイトクラブ」の部室に向かおうと教室から廊下に出たところ、そこには桐敷が待っていた。顔を俯けていたのだが俺の気配に気づいたらしい、顔を上げ、ちょっと得体の知れない「にひっ」みたいな軽薄な笑みを浮かべ、それを寄越してきたのである。不思議というか不可解に感じた俺は文字通り訝しさをふんだんに含んでいるであろう怪訝な表情を浮かべながら、「どうした」と訊ねた。「ま、まあ、そう言うなよ」などと妙な返しをしてきたものだからなおいっそう意味がわからない。だからといって、突き放そうとは考えない。俺にとって桐敷とは、それだけ興味深いニンゲンなのである。だから訊ねた、速やかに、「どうしたんだ、桐敷。顔を赤くなんかして」と――。
廊下を生徒らが忙しなく行き交う中――。
「あ、あぅ、そうか? あたいの顔は赤いのか?」
「だから、そう言っている」
「う、ううぅ……」
「話があるなら聞いてやるぞ」
すると桐敷は顔をぱっと明るくして。
「ほほ、ほんとうか?」
「意外と俺はおまえとは仲がいいと思っているんだよ」
「だ、だったら聞いてくれ。困ってるんだ」
「困ってる? おまえにしては珍しい事象だな」
「事象とか小難しいこと言うなよ。ホントに困ってるんだ」
「どこで聞けばいい?」
「中庭だ、行こうぜ」
「了解だ」
桐敷の引き締まった背に、俺は続いた。
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中庭には鯉が泳いでいる四角い池があって、その四方にはベンチが設置されている。高校生ごときに鯉を愛でろというのであればわけがわからないが、まあそのへんはともかく、なんだか心を穏やかにできるスペースではある。無人販売として麩がある点は謎だが。またそれを購入して撒き始めた桐敷も謎だが。
一通り麩をやり終えると桐敷が戻ってきた。俺の左隣に座り、「あっ、あのなっ」と発した。次は頬を赤らめ、「あ、あのな……」と幾分声は小さくなり。
「あ、あたい、告白されちまったんだ」
「告白」俺は首をかしげた。「告白とは、一般的に言うところのアレか?」
「そそ、そうだ、アレだ、アレなんだ」
「前にもそんな話を聞かされたように思う」
「そ、そうだったか?」
俺は深く頷いたのち、「で、何か問題が?」と訊ねた。桐敷は「問題、オオアリじゃんよ!」と声を大きくした。デカい声は目立つからよろしくないので、「落ち着け」と伝えた次第である。
「その気は? あるのか?」
「そ、その気?」
「ああ。その気だ」
「あるわけないじゃんよ」
「だったらその旨を伝えるだけで事は済むと思うんだが?」
「そうなんだけど……」暗い顔をした桐敷。「でもよ、断るなんて、悪いじゃんか……」
だったらいっそ抱かれてやればいい――俺がそんなふうに言ってやると、桐敷は怒った。顔を真っ赤にし、「おまえならそう言うと思ったよ、くそったれぇぇっ!」との反応アリ。両手で顔を覆い、いかにも恥ずかしげ。かわいい奴ではあるのだ。
桐敷が顔を上げた。
「やっ、やだぞ、あたいは。男に抱かれるとか、そんなの嫌なんだぞ」
「だったらフッてやればいい、容赦なく」
「だから、それは相手に悪いって――」
「どうしたら断れるんだ?」
「へっ?」
「どうしたら断ち切れるのかと訊いている」
すると桐敷、今度は深く考え込むようにして腕を組み――。
「あたいに勝ったら、とかかな?」
「物理か?」
「そうさ、物理さ」
「相手は何部の生徒だ?」
「カポエラ部さ」
「カポエラ部? 結構なことだ」
「あ、あれ? おまえならてっきり馬鹿にすると――」
俺は首を横に振ることで否定の意を示した。
「あれはあれで優れた格闘技だ。その理由としてさばきにくい点が挙げられる」
「雅孝、テメーがそう言うだなんて……」
「意外か?」
「っていうか、冷静なんだなって」
俺はいつも冷静だよ。
そう主張してやった。
「話はわかった。俺はどう貢献してやればいい?」
「そ、それはだな、たたっ、たとえばだぞ? おまえがあたいの恋人を名乗ってくれるとか……」
そんなふうに言ったようにも聞こえたが、ごにょごにょと尻すぼみだったので、確信を抱くまでには至らない。
「なんだ、もう一度だ、はっきり言え、桐敷」
「い、いや、だからだな、ごにょごにょにょ……」
「俺に恋人になってほしいんだな?」
「だから微妙にそうは言ってねーだろうが、馬鹿野郎ぉぉぉっ!!」
また両手で顔を覆ってみせた桐敷。いちいち声が大きいので周囲の視線を集めてしまう。それは彼女からすれば不本意な事象に違いないのだが、なんだかんだ言ってもそんなことにはかまっていられないということなのだろう。
「で、でもさっ」桐敷が顔を上げた。「おおぉ、おまえがあたいの恋人だって宣言してくれたら、相手も諦めてくれるんじゃないかな、って」
「なんだかんだで、結局その旨、期待しているんじゃないか」
「おまえが嫌だってんなら、その……」
「嫌ではない」
「へっ?」
「嫌ではないと言ったんだ」
するとさらにきょとんとなったのち、桐敷はぱぁっと顔を明るくして。それから「だ、だけど」と断りを入れたかと思うと、ぷいっと顔を背けてみせ――。
「かか、勘違いすんなよな。ただの頼み事だってだけだ。あたいはべつに、おまえのことなんか――」
「そのへんはどうだっていい」
「いいのかよ?!」
「なんだ? 何か不満か?」
「そ、そうじゃねーけど……」
若干緑色に濁った池の上部で泳ぐ紅白の鯉をずっと眺めていた俺は――やはりなおもその鯉を見つめている。食べたらうまいのだろうか。あるいは売るとなったらそれなりの値がつくのだろうか……そんなことばかり考える。
「いいぞ。そのカポラーのところに連れていけ」
「か、カポラー?」
「カポエラを嗜むニンゲンだからカポラーだ」
桐敷は顎に右手をやり、難しい顔をしたかと思うと――。
「凶暴な奴なんだぜ? いいのかよ」
「俺が負けると?」
「それは、思わねーけど……」
「あるいは、これも天命だ」
「ててて、天命?」
「ああ。おまえを守ることも、またさだめなのだろうと誰かに説きたい気分だよ」
予想どおり、桐敷はふたたび顔を赤くした。「馬鹿野郎ぅ……」と照れ臭げに言いながら、俺の左の肩をばしばし叩いたのだった。
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相手はほんとうにカポラーだった、正確にはカポエラ部の長殿。雰囲気がなかった、強そうな雰囲気が、まるで。変則的な動きがカッコいいと思っているような似非ダンサーじみたつまらない男。かたちから入るタイプだ。パルクールなんかも好きなのではないか。貧弱にすぎなかったので。ものの秒で潰してやった。彼の部下は驚いていた。信者なのだろう。まあ、ダイナミックな動きは見栄えのするところではあった。
夏の日は長い。
また鯉の泳ぐ池を前にするベンチの上へと戻ってきた。
「カポエラは美しい格闘技だ。評価に値する」
「そう言う割には、ソッコーの秒殺だったじゃんか」
「美しいと言った。強いとは言ってない」
「あー、そんなこと言ったら方々から叩かれるんだぜ」
「方々とは、具体的に誰のことだ?」
「それはわかんねーけど」
「だったら黙っていろ」
無作法かつ無防備に橋の欄干に下げられている豚の貯金箱に百円玉を投じ麩を入手、それを鯉どもに与え始めた俺である。
左隣に、桐敷が立った。
「最近、変だよ、あたい。くだんのカポラーか? にしたってよ、前なら問答無用で片づけてた」
「それができなくなった理由は?」
「……わかんね」
「どこかのタイミングで、おまえは優しくなってしまったのかもしれないな」
なおも麩をちぎって撒く。
水面で口をぱくぱくさせながらむさぼるその姿は美しくない。
「……なあ、雅孝」
「ずいぶんと思い詰めたような口調に聞こえる」
「そう言うなよ」
「用件を問うたつもりだ」
「晩飯、なんにするんだ?」
「チキンの入ったサラダを食べる。スーパーで買う。なかったらコンビニだ」
あたいに付き合えよ。そう言ったように聞こえたので、桐敷のほうを向く。彼女は照れ臭そうに笑み、右手で頭を掻いてみせた。
「シュリ軒のラーメンセット、奢ってやんよ」
美味のそれはチャーハン付き、税込み950円の魅力的なメニュー。
「いいのか。桐敷の場合、家に帰ったら夕食があるんだろう?」
「それがないおまえにかまってやろうってんだよ」
「奢ってまでか?」
「い、いいだろ、そのへんは。こまけーことは抜きだ」
桐敷のことが可愛らしく思えることは、ままある。
「ただな、言っておくぞ、桐敷。俺は――」
「今の立場だって自分が望んだ結果だって言うんだろ? わかってるよ、んなこたぁ。おまえは強いぜ。イイヤツでもある。じゃなきゃ遊んでなんかやんねーってば。ててっ、てか、あたいはからかって遊んでるだけだかんな」
そのへんについては、まあどうだっていい。
俺が「ご馳走になってやろう」と応えると、「なに偉そうに言ってやがんだよ」と言って、桐敷は笑った。
「食事の後はラブホテルでもいいぞ」
「やめろ、馬鹿ぁっ! 馬鹿みてーこと言うなぁぁぁっ!!」