3.桐敷サキは身体を動かす
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ジョギングに付き合っている、誰のって桐敷の。地道な鍛錬については好印象が持てる。それすなわち俺が桐敷について好感を抱いているということの証左なのだが。どういう折においても阿呆みたいに強がる桐敷だが、だからこそ微笑ましい――と、述べるくらいだから、俺は当然、桐敷のことが嫌いではない。
走り込みののち、今宵も組み手に付き合った。当該「鏡学園」の空手部の道場――今日は夜しか取れなかったらしい。テコンドー部はマイナーだから、テコンドーはマイナーだからと、練習場を確保するのに桐敷はしばしば苦慮している。たしかにテコンドー自体はこのニッポンにおいては後発的な感が否めないのかもしれないが、俺自身としては、なにせ桐敷の動きが奔放でアグレッシブなものだから、高く買わせていただいている。桐敷はおもしろくてすばらしい。今日も何度もそう思わされた。ほんとうに桐敷はイイ。本人の精神性は弱っちいので、だからその人格人間性については多少の問題アリと言わざるを得ないのだが。
道場の壁、その上部を囲う窓からのささやかな黄金色の光、月夜――。
俺は空手部の道場の中央付近にて、桐敷と向かい合っている――互いに正座の姿勢で。一通りの手合わせをおえたところなのである。
桐敷がにっこり――。以前はこんなに爽やかに笑う女性ではなかった。何が彼女を変えたのか。きっとそのへんの理由や要素なんて、誰にとってもどうだっていいことなのだろう。
「にしてもさ、雅孝、おまえさ」
「なんだ? 何か文句でも?」
「文句はおおありだよ。おまえ、まともに攻撃してこねーんだもんよ」
「それは――」
「いいよ、わかってっから。で、あたいは」
「あたいは?」
「い、いや、そんなおまえが嫌いじゃないってーかなんてーか……」桐敷が右手を前に広げつつ、首をぶんぶん横に振った、至極恥ずかしそうに。「やめろぉぉっ、あたいは男なんて大嫌いなんだぞぉぉっ」
その様を微笑ましく思い、俺はほっと息を抜きつつ、微笑んだ。
「桐敷、おまえに出会えたことも含めて、俺はこの学校に籍を移して良かったなぁ、って」
明らかにきょとんとなった桐敷は、不思議そうに首を右へと傾け――。
「恐らく――いや、かなり高確率の話だ、俺はおまえや香田、それに風間と会うことがなければ、死ぬほどつまらない人生を送っていたはずなんだ」
「そ、そんな大げさな境遇だったのか、おまえは?」
「以前にもそんなことは話したはずだ」
「そうだったっけか?」
「ああ。事実、おまえたちと出くわす以前の俺は死んでいた」
「そうか……。でもよ、テメーの生き様を後ろ向きに解釈するなんてのは良くないぜ?」
まったく、桐敷はいいことを言う。
「何が正しいというわけではないんだ、何が間違っているということも。しかし、掛け値なしの明るさにあてられてしまうと……ということもあるんだよ」
桐敷は腕を組み、うーんと首をかしげてから、「なんだろう、不思議な感覚もあったもんだな。まあ、あたいはそういう奴は許すけどな。だって自分は正しいのに悩んでやがんだからよ」と言った。
「は?」
「いや、だからよ、生き方とか生き様を悩んでるってんなら、それだけ苦労してるってことだろうが。そういう奴は偉いとまでは言わねーけどさ、苦しんでるんだから、その時点で悪いニンゲンじゃぁねーよ」
今度は俺がきょとんとなってしまった。
「桐敷、おまえ、俺を慰めてくれているのか?」
すると桐敷はかぁぁっと顔を赤くして。
「そそっ、それは気のせいだ。あたいに限って、男を庇うなんて……」
「桐敷」
「な、なんだよ、いちいちあらたまんなよ」
「組手はもうじゅうぶんか?」
「んなこたねーよ。やれって言われたら言われただけやるさ」
「だったら、かかってこい」俺はすっくと腰を上げた。「おまえの掲げるネオ・テコンドーもまたすばらしいものだ、概念だ、考え方だ」
だったらどうして香田にも風間にも敵わないんだろうな。
穏やかに微笑み、桐敷はそう言った。
「おまえには邪念が多すぎるんだよ」
「それはわかってるさ。だけど、邪念がないニンゲンなんて――」
「風間と香田は鬼のような天才だ。おまえだって化物みたいに天才だ」
「ほ、ほんとうか?」
「ああ。だから俺は付き合ってやる。おまえが風間を追い抜くまで」
桐敷も立ち上がった。――が、いよいよ真っ赤になった顔を右方に背けてしまった。「おまえはなんてはずいことを言いやがるんだよぅ」と絞り出すように言った。
「来い、桐敷」俺は右手で彼女のことを招いた。「だからといって高校生活は長くないんだ。あと一年と半分しかない。そのあいだに、おまえは風間をやっつけてみせろ。俺はそれを期待している」
赤い顔ながらも目線を寄越してくれた、桐敷。いきなり「ッシャ!!」と気合いを入れた。腰の帯をぐっと締め直し、ぴょんぴょんと真上に跳ねる。
「あたいはおまえのことだって超えてやるんだぞ、雅孝。完膚なきまでにぶちのめしてやって、言うことを聞かせてやるんだ」
「言うこととは?」
「そそ、それはだな――」
「俺を駆逐できれば、なんでも聞いてやる」
「う、嘘じゃねーな」
「ああ、だから本気を出そうと思う」
俺は右足を引いて半身になり、左手を前に広げた。引き絞るようにして右の拳は腰の位置――。
「ゾクゾクすんぜ!」
桐敷も若干、右足を引いた。両手は顎の下に構え、全盛期のモハメド・アリばりの鋭いフットワークを左右に刻む。
「何か賭けよう。そっちのほうが盛り上がる」
「あたいが勝ったら焼き鳥だ、焼き鳥を奢れ!」
「俺が勝ったら、おまえの驕りだ」
桐敷は歯を見せて笑った。
「ネオ・テコンドーの神髄、あらためてみせてやんぜ!」
突っ込んできた桐敷は振り抜くような右の中段蹴り。それがスカると、まるで見計らったかのようにジャンプ、勢い良く左の回し蹴り。隙なんて作りたくないものだから、着地するなりすぐに左のジャブからボディブロー。右のストレートまでは打たずキリのいいところでとんずらこくあたりがじつに玄人好みだ。すぐに距離を取り――だが攻撃したくてたまらないものだからすぐに右の前蹴りを突き出してくる。左手を使って叩き落としてやった――のだが、恐れることなくすぐに左足を踏み込んできた。俺の左足の甲を踏みつけようとして、ダーティーだ――。
「打ってこいよ、雅孝。ナメてんじゃねーぞ!」
「いいだろう。屈服させてやる。あとから泣くんじゃあないぞ」
桐敷の右のハイキック。左の前腕で受けると今度は身を反転させて左足の踵落とし。動きの正確さ、忠実さ、生真面目さで言うと、桐敷の動きは群を抜いている。誰よりもキツく、美しく、堂に入っている。香田に敗れたというのも、風間に負けたのも、それこそ欲のせいではないのか。桐敷は誰にも何も劣っていない。俺にはそう見える。
左に右にと振り回すようなサイドキック。受け流し詰めようとすると桐敷も踏み込んできた。左のジャブから右のボディブロー。腹筋で受け止め、ただただその愛らしい顔に顔を近づけた。桐敷の動きがぴたりと止まった。
十センチと離れていない距離――吐息すらかわす近さ。
やられちまったと言って、桐敷はにししと笑った。