18.巨大な見物客
*****
我が部の女性陣が引き揚げても、中央武道館において執り行われる次の試合を、あるいは次の次の試合を、俺は客席で眺めていた。強い弱いはともかく、繰り広げられている熱戦には思うところがある。どいつもこいつもカッコいいな――そんなふうに感じているということだ。
「あのー……」
後ろから、そんな呼びかけ。女性の声であることは自然と知れた。振り返ると背の高いのと低いのとの二人組。どちらも愛らしい顔立ちだなと思うあたり、俺は知らないうちに年老いてしまったのかもしれない。
背の低いほうはもじもじしている。背の高いほうが「神取先輩」と力強く言った。「俺はたしかに神取だが」と力強く返答した次第である。
「このコ、先輩のファンなんです。しかも結構、熱烈な」
そんなふうに紹介された背の低いほうの彼女は瞬く間に顔を赤くする。
今更ながらのことではあるが、「一年生か?」と俺は確認した。
「だから先輩と言いました」背の高いほうはまたもや強気に言葉を吐く。
「で、俺はどうすれば?」
「サインをください。このコの背中に」
「ん?」
「背中にサインをと言ったんです」
ほらほらほら。忙しなくそう呼びかけると、背の高いほうは背の低いほうに背を向けさせた。白いTシャツの後ろにサインをしろということらしい。
「サインって、何を書けばいいんだ?」
「じつはなんでもいいんです。いただいたという現象が重要なんです」
はきはき物を言うあたりにはほんとうに感銘を受ける。背の高いほうの女子生徒はちゃきちゃきで、だから好きなタイプだと感じるのだろう。結局、さらさらさらと自らの名前を記した。「終わったぞ」と告げると、背の低いほうは一目散に階段を駆け上っていった。背の高いほうは頭を下げると、すかさず後を追ったのだった。
試合の観戦に戻る。つまるところ、どの部、どのチームが出てこようが楽しいバトルができるのではないかと思う。――が、どれもこれも風間をはじめとする女子三名には敵わないだろう。いよいよ桐敷が一人で片づけてしまうかもしれない。そうであってもよいと考える。俺は何もせずに大会を終えることになるわけだが、俺のなんてちんけな希望で、だったら三人が楽しめればそれでいいのだ、と。俺は風間のことも桐敷のことも香田のことも嫌いではないのだから。
後ろから「よぅ、小僧」と知った声がした。反射的に――しかしゆっくりと振り返る。黒いTシャツ姿のメチャクチャごつい男――そこには綾野大龍の姿があった。
*****
綾野さん、大龍――大龍さんの第一声は、「暇そうじゃねーか」というものだった。「ファンにサインとは、いくらなんでも笑えるぜ」と言うと、実際、くつくつと喉を鳴らした。俺は眉を寄せた。「彼女が俺に何を見たかという話ではあるが、断ったら断ったで悪いだろう?」と言った。「違いねーよ」と大龍さんはなおも笑顔である。
「というか、大龍さんが見物とは。それとも、他に何か目的が?」
「ねーよ。おまえさんがどんなふうに戦うのか、それを観に来たってだけだ」
「大先輩をがっかりさせるのは気が引けるが、おあいにくさま、俺の出る幕はないようだ」
「だな」
俺の右隣の席に腰を下ろした大龍さん。大柄な彼はただでさえ目を集めるのに、その肩書きを知っているニンゲンからすれば、さらに目をやるしかないだろう。なにせ悪名轟く羽崎工業高校――通称パネ高の元番長殿だ。第一線を退いた今でも知名度は段違いの桁外れ――それくらいのパネェ人物なのだ。
「次は? 相手はどこなんだ?」
「忘れた。というか、覚えようともしていない」
「ったく、おまえには可愛げってもんがねーよ」
俺は「碧ちゃんとの一戦が、事実上の決勝戦だったと思う」とかねてからの見解を述べた。
「碧ちゃん?」
「さっきの白いひらひらの女性だ」
「ああ、奴さんがそういうのか」
「強かったろう?」
「あれにゃあ俺でも敵わないな」
それは嘘だ、冗談だと感じさせられた。大龍さんは大龍さんで、そうそう簡単に誰かに後れを取ったりはしないに違ないのだから。ただ、大龍さんが負けてしまう、その理由があるとするなら……それは相手が女性だからということに尽きるだろう。
「決勝は? 今日なのか?」
「そうだが、そんなこともリサーチしなかったのか?」
「顔を寄越すこと自体、初めてなんだよ。興味がなかったからな」
「興味がなかった?」
「この大会は健全すぎる」と、大龍さんは言った。「もっと華やかでダークでこじんまりしたのが、俺の好みなんだよ」
言いたいことは深く理解できる。
だって、俺も同感だからだ。
「MMAをやる部は? あるのか?」
MMA。
一般的には最強とされてもおかしくない、全方位型の総合格闘技。
「大龍さんは、どうしてそんなことを訊くんだ?」
「格闘という分野においてはもっとも理に適ってる。強いんだろうさ」
「そういうのを容赦なく叩き潰し沈めるのが、ウチの面々だ」
「少年よ、おまえの出番はあるのかね?」
「おっさんよ、だから、それはさほど重要な観点ではないんだよ」
賭けをしよう。
突然、大龍さんがそんなことを言い出した。
「この大会においておまえは勝つのか負けるのか。俺は負けるほうに賭ける」
俺は難しい顔をした。「まさに不可解なベットだ」と口にした。「俺まで回ってくる保証もないのに、俺が負けるほうにはるのか?」と問うた。
「男だったら、オッズが高いほうに賭けるんだよ」
「俺は負けない。俺が勝ったら、どうするんだ?」
「シュリ軒のチャーシューメン、それに大盛りチャーハンをつけてやる」
「案外魅力的な条件だが」
まあ、がんばれよ。
大龍さんはそんなふうにだけ述べ、立ち去った。
たかが蕎麦屋の息子だという事実もあるから、偉そうなことだと思う。
にしても、相変わらず、カッコがいいなと思わされた。
そこには憧れもあるし、尊敬の念もある。
綾野大龍は素晴らしい男なのである――と、俺は考えている。




