17.互角すぎる
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場所として校内最大の規模を誇る「中央武道館」が選ばれたのは集客が見込めたからに違いない。俺が知る限り、風間紅VS静内碧は日本中――否、世界中を探したって屈指のゴールデンカードだ。先に現地に入ったのは俺を含めた「ファイトクラブ」の面々だった。畳から一転、板張りの床には大したクッション性など見込めない。黒いタンクトップにだぼっとした迷彩柄のズボン、それに今日は漆黒のブーツを履いている。「アップは? いいのか?」と訊ねたところ、「虎はいちいち準備したりしないでしょ?」と返ってきた。このあたりの傲岸さが風間である。美しいとすら思う。風間は白い開始線から少し離れたところでどっかりとあぐらをかいてみせた。すり鉢状の会場全体には息を飲むような空気が流れており――そのうち、彼らがざわとなった。今日も白い衣装――各所にレースがあしらわれた白い着衣をまとっていて、華やかな外見は非常に見栄えがする。足元はヒール。大した自信だとしか言いようがない――そうでなければ碧ちゃんとも言えないだろう。
「おはようございますですわ、風間さん」
「お茶でもしにきたみたいな装いだね。相変わらずだ、碧ちゃんは」
「あなたに会うためにずいぶんと雑魚の相手をさせられました」
「ここは、鏡学園は、そういうところなんだよ」風間が「よっこらせ」と言いつつゆっくりと立ち上がった。「そろそろケリ、つけてあげないとね。碧ちゃんがあたしクラスだなんておこがましいにもほどがあるから」ということらしい。
絵に描いたお嬢様を地で行く碧ちゃんは「おほほほほっ!」と笑った。彼女は彼女で「その傲慢さがあなたの命取りになるのですわ」――と言いたかったらしい。「簡単に殺害してさしあげますわ」とえらく物騒なことまで言い放った。
事実上の決勝戦だろう。両者がそれぞれ構えを取ったところで、大きな和太鼓がどどんと打ち鳴らされた。円を描くようにして身軽にステップを踏む風間、彼女の動きに合わせてスタンスの方位を変える碧ちゃん。背筋をゾッとした冷たいものが滑り落ちる。こんな感覚は初めてだ。らしくもなく、俺はわくわくしている。ほんとうに、らしくもなく。
風間がぴたりと足を止めた。鷹か鷲が翼を広げるように両腕を上げ、にぃと邪に笑む。碧ちゃんも肩を揺らした、笑ったのだ。
風間の身体が液体と化した。頭の先からどろりと溶け――たかと思うと、左足でぱぁんっと板を蹴った音が鳴り響いた。風間は右手で脚を刈りに出た。転ばしてしまえば確かに終わる。そんなの碧ちゃんだって百も承知だからかわしてみせた、華麗に、とんぼをきって。力押しするつもりらしい。着地したところを狙ってショルダータックル。どんっと弾き飛ばされながらも碧ちゃんは踏ん張った。「やっぱやるじゃん」と風間は、にやり。守勢ばかりが碧ちゃんではない。今度は仕掛けた。左の突きを見せると、ヒールで右足の甲を踏み潰しに出た。どちらもすんでのところでやりすごした風間はすかさず後ろに回り込んだ。しかし駒のようにくるりと身を回転させた碧ちゃんは逆にバックを取り返す、ローキック、左足を左脚に叩きつけた。さすがの風間もバランスを崩した次第だが、しかし高々と飛び上がり――。
強制的な肩車、碧ちゃんに飛び乗った風間はそのまま大きく後ろへと背を逸らした。リバースのフランケンシュタイナー、大技だ。頭頂部をもろに板へと叩きつけられるようなことになれば、さすがの碧ちゃんでも死んでしまうかもしれない。刹那のことだから制止を叫ぶ暇などなかったのだが、あったとしても、俺は止めなかっただろう。運命的な出会いを果たした二人にとっては、どのような結末もまた運命なのだ――などと大げさな思考を巡らせもした。が、なんの心配も要らなかった。碧ちゃんは両脚によるクラッチから逃れた。風間からすれば途中ですっぽ抜けてしまった格好だ。バク宙の要領で綺麗に着地した碧ちゃん、同じく板を踏んだ風間は風間ですぐに向き直る。静けさに包まれていた場内が一気に沸いた。そりゃそうだ、当然だ。たった十秒ほどのあいだに信じられないくらい目まぐるしい攻防が起きたのだ。やるじゃないかと思うとともに、胸の奥に何か、疼きのようなものを覚えた。次の瞬間に感じたのは、俺もただの格闘馬鹿だということだった。強制的に自覚させられた根本的な価値観――とでも言うべきだろうか。
風間のスタミナは無尽蔵だろう。碧ちゃんはどうなのか。いずれにせよ、両者とも長引かせるつもりはないように見える。半身になり、両手を前にかざし構え直した碧ちゃんは一つ、ふぅと息をついた。右足で板を蹴ると同時に左脚を引いた。振り回すようなハイキック。大振りだ――が、避けられるスピードでもない。実際、風間は右の前腕でガードした。歓声にかき消されかけたのは事実だ、しかし、嫌な鈍い音が、俺の耳には確かに届いた。なあ風間、その右腕、折れたんじゃないのか?
風間は弱ったところなど微塵も見せない。今度こそ左手を使って右足を刈ることで、碧ちゃんに尻餅をつかせた。すかさず飛びかかり、今度こそ容赦なくバックを取った。リア・ネイキッド・チョークがいよいよ決まる。すぐにタップすれば――否、タップしないとマズい。この好機に風間が手加減する理由がない。落とされる――だなんていう醜態を晒すくらいなら……。
碧ちゃん、もう十分だ。おまえは風間相手によくやった。よくやったんだ。
――が、どうしようもない状況なのに碧ちゃんはギブアップしない。と言うより、むしろ苦しそうな表情すら浮かべていない。
それを認めた瞬間、俺は悟った。
風間は本気で、締めていない――。
碧ちゃんがするりと首の拘束から逃れた。すっくと立ち上がると、難しい顔をした。そんな顔を、俺に向けてきた。何か言いたそうではある。いっぽうで、何も言いたくなさそうでもある。神妙ではなく微妙な面持ちだということだ。
碧ちゃんが「セバスチャン、帰りますわよ! すぐに車を回しなさい!!」と声を放った。自らの主の戦闘を見守っていたセバスチャンなる執事然とした品のある老人が「はっ!」とキレのいい返事をし――彼は早々にひきあげた。
「命拾いしましたわね、風間さん」
「えーっ、碧ちゃん、それってあたしのセリフなんですけどぉ?」
「次こそはぶち殺してさしあげますわ。吠え面かかせてやりますですわ」
「いつでもかかっておいで。現状、碧ちゃんより面白い相手はいないからね」
すると、碧ちゃんがすたすた俺のほうへと歩んできた。両膝をぐっと折ると耳元で、「あのゴリラのどこがよろしいの?」などと訊ねてきた。いや、俺からすると二人ともゴリラなんだがなと思う。立ち上がるなり「おーほっほ!!」と発した碧ちゃんはやはり超越している。今日の結果はたまたまなのかもしれない。次は碧ちゃんが勝つのかもしれない。なにせ碧ちゃんだからこそ、そう思わせてくれる。
敗者である碧ちゃんが――そのじつそうではないのかもしれないが――傍目から見ればご機嫌で退場したわけだ。なんとも釈然としない空気が場を包む。そんな雰囲気を一変させたのは、やはり風間だった。会場の真ん中に躍り出ると、ただただ、左の拳を突き上げた。それだけで十分だった。彼女は今日も最強の生物として自身の力で勝ち名乗りをあげた。
風間の名を叫ぶ大歓声は、ちょっと鳴りやみそうになかった。




