魔王の秘蹟
「魔王!」
ありそうで、これまでゴッデスでは出てきたことがなかった嫌な言葉に、思わずマリヤは再度起立してしまう。
「魔王って、あの魔王ですか? 元世界でのルシファーのような!?」
ここでは神の一柱とされる元世界でのルシファーは、そう呼称されもする。役割は、いわゆる完全な創作のそれとたいして変わりない。
人を苦しめる極めてヤバい奴である。
「ええ、まさしくフィクションのような魔王ですわ」女神は認めた。「悪魔と同じものから生まれるというのだから、どういったものか見当はつきますでしょう。人類を、ひいてはゴッデスを滅ぼす者ですわね」
昨日までは、超常的なものも係らない現代にも行われているような仕事がほとんどだったので完全に油断していた。
盗賊程度の危険は初日にあったので覚悟していたが、ここが異世界ファンタジー的世界ならそうした奴がいてもおかしくはない。元世界の魔王たるルシファーが人を介して魔法を使う程度なのだからと安心しきってしまっていた。
「だとすると」
しかし衝撃とは裏腹に、ゆっくりと座り直したマリヤの口をついて出たのはこんな台詞だった。
「魔王や魔物を退けるお手伝いって、やっぱりわたしにもできるんでしょうか?」
女神マリアンヌは目を丸くする。でいながらどこか嬉しそうに口にした。
「当然ですわ、昨日可能としたように。にしても自ら申し出るとは、このひと月はかなり有意義であったようですわね」
「それは確実かと」
ひと月前まで単なる女子中学生だった彼女は、素直に肯定した。
「修道女というかほとんど司祭のすることでしたけど、フィクション的には憧れていたシスターみたいな仕事ができて人の役に立てたわけですから。力になれるなら、それをしないなんて選択肢も初めからないですよ」
そう、加えて初日から自分を襲った盗賊をも助けようとするお人好しが彼女であった。
うんうんと満足げに聞いていたマリアンヌであったが、そこでふと表情を険しくして表の方に顔を向け警鐘を鳴らす。
「とすると、おあつらえ向きの事態かもしれませんわね」
「えっ?」
直後であった。
「ひえー! た、助けでくだちゃいマリヤ様ぁーっ!!」
悲鳴である。キキの。
慌ててマリアンヌは表に通じる告解室の扉から出ていき、すぐにマリヤもいったん部屋から出て最短距離である来客用のそこから出た。
間にも、救援を呼ぶキキーモラの声は継続していたので場所もすぐに特定できた。ときどき悲鳴が遮られてもいたが、もがく声音はだだ洩れである。
――畑であった。
その一角。キャベツが実っている辺りでキキが少年に捕まってもがいていた。
「ちょっとあなた!」
手前の柵を挟んで止まり、侵入者の後ろ姿に声をぶつけるマリヤ。
「キキを放してください、どういうつもりですか?」
少年は振り返った。拍子に、悲鳴を妨害しようとキキの口を押えていたのであろう手がずれた。
「マリア様、マリアンヌ様! この子たち野菜泥棒でちー!!」
それで畑を確認しようとして、マリヤは初めて気づいた。
少年の足下に、別に女の子もいることを。彼女の傍らには見るからに捥ぎ取られ齧られたキャベツも転がっている。
そして、少女は苦しんでいるのだった。
二人の侵入者はどちらも十歳前後に見える。白髪赤目の美少年と美少女だが、容姿に似合わず薄汚れていて着衣もボロボロの布切れみたいな有様だった。
「……落ち着いてください!」そこまでの状況を確認して、マリヤは提案する。「事情があるのでしたら話してください、ことと次第によっては罪も咎めません。助力が必要でしたら手伝いましょう」
「うるさい黙れ!」
少年は腰元の鞘から短剣を抜き出し、キキに突きつけた。
「こんな立派な畑と家畜がいるとこに住んでる奴に、おれたちの境遇なんてわかるもんか!!」
そして足下の少女を案じる。
「クインクレイン、動けるか? とりあえず逃げよう、アジトまで戻ればこないだ盗んだ薬がある」
「だ、だめみたい。グレアム兄ちゃん」
「そうか」
妹らしきクインクレインなる少女の呻きに、グレアムと呼ばれた少年は顔付きを険しくして吼えた。
「ほぼ全能の女神まで来てるなんてタイミング悪いが、奥の手使えば治療も同時にできるかもしれねえ。やってみる」