悪魔祓いの秘蹟
豪雨と稲妻が荒れ狂う中。森と草花に満ちる山々を背に、切り立った崖の端に立つ少女がいた。
いかにも教会のシスター然とした、カソックにヴェールという出で立ちだ。艶やかな黒い長髪に澄んだ同色の瞳は日本人を思わせるが、西欧風な顔立ちが不安に歪みそうになる。
それを必死に堪えて、片手に聖書を開き、片手に不思議のメダイ付きのロザリオを握りながら祈っていた。
「〝わたしの霊魂は主を崇め、御霊は救い主たる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心に掛けてくださいました〟」
ルカによる福音書であった。
「……悪魔祓いには、確かこれでよかったはずですよね」
途中、言葉を途切れさせて自信なさげに呟く。
本来、祓魔師は主に男性司祭の役割なはずだし、これはもうそんなもんじゃない。何もかもがそういう次元を超越してる。
なにせ、彼女の対峙する崖を挟んだ対岸は、まるで別世界。緑の欠片もなく、溶岩の流れる川と砂漠の大地、切り立った岩山ばかりからなる土地で、その奥から黒々と蠢く魑魅魍魎の群れが押し寄せつつあるのだ。
それを祓う役割を担わされているのだから泣きたくもなる。
いや実際泣いている。鼻水まで垂れている。
「マリヤ様、何か仰いましたか?」
先程の呟きを拾われたのか、背後から自分の名前と疑問の声を投げかけられた。
慌てて顔をぬぐって振り返り、少女マリヤは繕う。
「い、いえいえ。ちょっと神様と対話していただけです」
んなわけはない。
話しかけてきたのは、豪華だがもはや破損だらけの西洋甲冑とマントを身に付けた騎士団長。心配そうな顔をした連隊長のおじさんだ。
長身で筋肉質だが引き締まって痩せた男、エリオット。無精髭で30代前半だそうだが、歳以上に若々しく感じさせる。額の十字傷が特徴的なイケオジだった。
その後ろには、彼より若干地味目な鎧兜や、あるいはフード付きのローブに身を包んだ魔術師ら、同じ騎士団に属する隊長の部下たちがいる。みんなボロボロで、傷つき息も絶え絶えで座り込み、または支え合ったり木に寄りかかったりして辛うじて並んでマリヤを見守っているのだ。
縋ってくる迷える子羊たちを、「無理です」なんて見捨てるわけにはいかない。
「――〝今より後世の人々は、わたしを幸福な女性と言うでしょう〟」
崖の向こうに再度臨み、マリヤは詠唱を再開する。
騎士団はこの一帯の魔物たちを退けて満身創痍なのだ。そこに黒々と地を染色するような敵の援軍が攻めてくるのを発見したら、藁にもすがりたくなる心境だろう。
「……にしても、彼女の神様はいったいったどこに?」
心を折りかねない背後の囁きも耳に入るが、気にしてはいけない。
「〝その御名は清らかで、憐れみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます〟」
「だいぶ詠唱も進んだはずだが」
「通常の魔法ならもう神々が顕現してるはずだよな」
「〝卑しき者を引き上げ、飢える者を良いもので飽かせ〟」
「どこにも神なんて見当たらないんだが」
「そもそも聞いたこともない呪文だ、本当に効果があるのか?」
「〝主は、あわれみを忘却されず〟」
「いいかげんにせぬか!」
上官が部下たちを叱責する。
ナイス連隊長、心までイケメン! とマリアは内心ありがたがるも。
「女神マリアンヌ様のお墨付きだ。どのみち、我が軍にはもはやこちらに回す余力がない。信じるしかなかろう」
さらなるプレッシャーも掛けられた。
もう、魔物の大群は崖のちょうど下まで到った。ほぼ垂直の壁面を人外の力で這い上がりつつある。
「〝その子孫とを悠久にあわれむと約束なされたとおりに〟」
「しかし、実際神の姿が全く見当たらないのでは……」
「それは、確かにそうだが……」
連隊長!?
「ああもう!」
ついにマリヤは思い切り振り返って怒鳴ってしまう。1章の55節、 『マリアの賛歌』も終えてしまった。
後をどうすべきかという焦りと重なっての限界であった。
「気にしてるんだから黙っててください!!」
ドッカーン!
途端、天を閃光が割った。
暗雲をことごとく退けた特大の稲妻。いやもはや光の柱。いやいや光の列ともいうべきものが降り注いだのである。
それは、地を満たして崖も半分まで登っていた魔物たちを凪払い、モーセに割られた大海の如くことごとく光線の中に消し去った。
崖の向こうの荒れ果てた大地までもが息を吹き返していた。
砂漠には草花が、岩山には木々が生い茂り、溶岩は澄んだ清水に入れ代わっている。
マリヤの怒号に驚く間もなくそれらの光景と対峙するはめになった騎士団は、しばらく茫然とする。
やがて、魔物の襲来以来逃げていた小鳥の囀ずりが戻ってきたことで我に返り。
「――き、奇跡だ。やっぱり女神様の仰る通りだった!」
「神々を介さない魔法なぞ見聞きしたこともぞ!」
「こんな大規模な魔法自体が神話及だ!!」
喝采にわく騎士や魔術師たちを見渡し、連隊長エリオットは満足げにマリヤに話しかけた。
「ありがとうございますシスター・アベマリヤ。僅かながら疑いかけたことがお恥ずかしい、お許しください。……ところで、先ほど何か仰いましたか?」
轟音に首だけ振り返って自らもたらしたものにマリヤも立ち尽くしていたが、まもなく引き吊った笑顔を連隊長に戻して開口した。
「き、企業秘密な魔法の呪文です」