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 私がもう一度考えたい旨を伝えた時に、お母様は大変驚いた顔をしていたけれど、彼が猛省した様子でわざわざ謝りに来てくれた事を伝えたら一応納得してくれた様だった。

 一方、私と母の様子からすっかり諦めていた父は、少しだけ前向きな流れになった事を大層喜んでいた。

 早速アルバート家に手紙を書いたらしい。


 結果数日後、彼から二人で出かけないかとお誘いの手紙が届いた。

 自分から言った手前、何となく気恥ずかしくもあったが私は了承する旨の手紙をしたためる。

 一体どんな所に連れて行かれるのだろう、闘技場?狩り?など、一抹の不安を抱えながら。


 そしてその日はやって来た。


「お嬢様、カイン様が来られました」


 その名を聞いて、心臓がどきりと跳ねる。


「分かりました」


 私はふうと息を吐いた後、お気に入りの白い帽子を手に取ってエントランスへと向かう。

 すぐに彼の姿が目に入った。


「ごきげんよう、オリヴィア嬢」

「…ごきげんよう」


 相変わらず大きな身体をしている。

 だがそんな事より、彼の手に持っている物に私は釘付けになっていた。


「本日は誘いに応じてくださり、誠にありがとうございます」

「いえ、こちらこそ…ええと、その、それは…」


 遂に堪らなくなって、彼が手に持っている小さな花束を指差した。


「ああ、あなたに渡そうと思い持ってきました」


 そう言って、スッと渡される。

 まるで貸してた物を返されたぐらいの気軽さで、相変わらずロマンというものはないけれど。

 でも単純に嬉しい。こんな事をする人だとは思わなかったから余計だ。


 彼の大きな手から、大事にそれを受け取る。

 主に黄色で纏められた可愛らしい花束だった。


「嬉しい…ありがとうございます」

「…いえ」


 何故か突然どもった様な返事に、思わず吹き出しそうになる。やはり慣れない事をしている様だ。

 私はすぐに近くのメイドを呼ぶ。


「私の部屋に飾っておいて下さる?」

「かしこまりました」


 そしてメイドに渡そうとした瞬間、折角頂いたのにもう手放してしまうのが何だか惜しくなった。


「ごめんなさい、やっぱり鋏を一つ持って来て」

「はい」


 呆然と私を見守っている彼を尻目に、メイドから鋏を受け取る。

 そして花束から2本ほど拝借して茎を短く切り取り、手元の白い帽子のリボンにそれらを挿した。


「折角頂いたので、もう少し楽しめる様にお供してもらう事にします」

「…素敵な、アイディアだと思います」


 頬を掻きながら、少し照れ臭そうに言う彼。

 何だか恥ずかしい事をしちゃったかしらと思い、私は取り繕う様に残りの花束をメイドに託すと彼を外へと促す。


「カイン殿」


 扉が開いたと同時くらいに、お母様の声が響いた。


「奥様、ご無沙汰しております」


 彼が騎士特有のポーズを見せる。

 私も何故か一緒になって、頭を下げていた。


「今日はちゃんと約束の時間に来られたのですね」

「はい。先日は大変申し訳ございませんでした」


 お母様の嫌味な一言に冷や冷やしたが、彼は全く気にした様子もなく答える。

 この間も思ったが、さすが魔物相手に戦っているだけに肝の据わった人だ。


「くれぐれも危険な所へは行かない様に、お願いしますね。

 オリヴィア、楽しんでらっしゃい」


 お母様もきっと私と同じ様に、彼が一体どんな所に連れて行くのだろうかと心配なのだろう。そしてさりげなく釘を刺している様だ。


 そんな想いを知ってか知らずか、彼は勿論です、と威勢よく答えると私達は屋敷を後にした。


 外へ出ると、馬車が一台止まっていた。

 私は彼のエスコートでそれに乗り込む。

 軽く手を握った際、硬くてざらりとした手触りがした。


 彼は魔法ではなく主に剣で戦うそうだ。

 この手の硬さは、彼が今までたくさん努力してきた証だろう。


 近年利便性の高い魔法が重視されがちだが、結局魔物を確実に仕留める事が出来るのは剣だという。

 自ずと接近戦となるためリスクが高く、剣士を望む者は年々減っているらしい。

 そんな剣士の中でも、隊長に選出される程の優れた存在が彼だ。


 と、お父様が嬉しそうに話していたのを思い出す。

 それにしても、何故お父様はこんなに彼を好いているのだろうか。

 普段押されがちなお父様が、お母様を振り切ってまで彼を勧めてくる理由を私は分かっていない。

 そして私は、それを知るべきな気がする。


(…不安は拭えないけれども)


 そう思いながら、向かい合う様に座った彼をちらりと見る。

 彼はコンコンと覗き窓を叩いて、それをきっかけに馬車はゆっくりと出発した。


「どこに向かうのですか?」

「今日広場の方で市場が開かれているそうです」


「…!!」


 思わず前のめりになる。

 彼が驚いた様に目を丸くしたので、慌てて居住まいを正した。


「…どうやら楽しんで頂ける様で、幸いです」


 彼が薄く笑っている雰囲気を感じる。

 どうしよう、耳まで赤くなってるんじゃないかしら。


「市場はお好きですか?」

「…その、一度も行ったことがないのです」

「え、一度もですか」


 もうすぐ十八歳になる私。

 それに家は裕福な部類なので、一度もないという事に驚かれるのも無理もない。


「母は賑やかしい場所が苦手な上に心配性で、行くならメイドではなく護衛を付けて、と。

 そこまでしないと危険な所なのかと少し怖くて…結局行けずじまいだったのです」

「そうですか…。

 なら今日は安心して楽しんで下さい。俺がいますから」


 彼が言うと、何と説得力のある言葉だろうか。

 余りにも頼り甲斐がありすぎる体つきに、思わず笑いながら頷いた。


 そして目的の場所へと到着。

 半年に一回開かれるこの大市場は国内外から出店していて、この時にしか買えない物を求めて多くの人が行き交っている。

 お母様が嫌がるのも、護衛を付けろというのも、分かる気がした。


「…すごい、人ですね」


「俺も何年ぶりかに来ましたが、昔より更に盛り上がっていますね」


 彼のエスコートで馬車を降り、帽子を被る。

 ちゃんと彼にもらったお花がいい位置にくるように調整して、彼の横に並んだ。


「何か目当ての物でもあるのですか?」

「いや、特に。あなたの好きな様に見て下さい。

 ただし、俺のそばから離れない様に」


 そう言って彼が自身の腰の後ろに拳を当てて、脇に空間を作った。

 思わず心臓が高鳴る。ここに掴まっておけ、という事だろうか。

 おずおずと掴むと、彼がにこりと笑った。

 それを私は何故か直視出来なくて、よろしくお願いしますと俯きながら言った。


 男の人と並んで歩くなんて初めてで、緊張するなと思っていたが全くの杞憂だった。

 噂に聞いていた通りの一風変わった商品の数々に、頭がいっぱいになったからだ。


 見た事のないデザインのアクセサリー、布地、食材、お菓子など、目が忙しい。

 興奮の余り、いつの間にか両手で彼の腕をぎゅっと掴んでいた。


「ご、ごめんなさい!」

「ん?

 それより先程から見てばかりですが、何か買わなくてもいいのですか?」


 はしたない事をしたと慌てたが、彼は全く気にしてなくて何故か少しだけ心が沈んだ。

 私ばかり焦って、恥ずかしい。


「その、目移りしてしまって」

「初めて、ですからね。

 来た道を戻ってみますか」

「よ、よろしいのですか?」

「勿論」


 そして私達は再び来た道を戻り、特に気になっていた食器が置かれている出店の前に来た。


「いらっしゃいませ。どうぞごゆっくりご覧ください」


 優しそうな年老いた男性が微笑む。

 色々な茶器やお皿が並んでいて、どれも見た事のないデザインだ。それに私が普段使っている物よりも分厚くて、色味も重厚感がある。

 その中でも一際目を引いたのが、その食器と同じ材質で作られたブローチだった。


「珍しいでしょう?」


 思わず手に取っていると、店主に声を掛けられた。

 私は小さく頷く。


「余った材料を再利用しているのですよ」

「まあ、素敵…」


 手の中にある、見た事のない深い青でひし形に象られたブローチを親指でなぞる。


「ここに置いてある物は陶器と言って、この国で主に使われている磁器とは少し違います。

 鉄分が多く含まれているので、白を基調とする磁器とは違い、深い色が出るのが特徴です。

 形も色も一つ一つ違うのも魅力なのですが、分厚いですしデザインも優雅な物ではないので、ここではあまり好まれないみたいですね」

「そうなのか?

 俺は結構好きだがな」


 困った様に微笑んだ店主を見てか、一緒に聞いていた彼が突然参加してきた。私も横でうんうん、と同意する。


「ははは、嬉しいです。

 私はこの陶器を製造している国の生まれでは無いのですが、初めて出会った時から惚れ込みまして。

 こうして気に入って頂ける方に出会う為に、各地を回っているのです」

「それはぜひ頑張ってくれ。

 じゃあ、彼女が手にしているブローチを。いくらだ?」

「え!」


 当たり前のように払おうとしている彼を慌てて止めようとする。

 しかしいつもの如く、むしろ気付きもせずに、彼は他の商品も吟味し始めた。


「…お嬢様、こういう時は相手をたてるものですよ。

 もしや恋人同士になったばかりですか?」


 大変和かにブローチを包む店主のとんでもない発言に、一気に顔が熱くなる。


「わ、私達そんなんじゃ…!」

「この茶器もいいな。店主、これも頼む」

「かしこまりました」


 一人あわあわする私を置いて二人はあれこれやり取りをし、結局ブローチだけでなく茶器まで買って貰ってしまった。


「ありがとうございます…」

「いえ。さあ、次は何処に行きましょう」


 その後も私の目が止まる度にそこに行き、有無を言わさない内に彼がお金を出して、という展開を二回繰り返す。おかげでどんどん私の申し訳ない気持ちが膨らんでいった。

 もうこうなったら何処も見ない様にしようと俯いていたら、彼が立ち止まった。自ずとその腕を掴んでいる私も止まる。


 彼は何かをじっと見つめていた。

 その視線の先には食べ易い様に茶色い袋に包まれたパイが並んでいて、ほのかにいい匂いもする。


「美味しそうですね」


 きっと食べたいんだ、と思った私はそう声をかける。予想通り、彼の顔が綻んだ。


「そうですね。行ってみましょう」


 心なしか、気分が高揚している様に見えた。

 もしかして、甘い物が好きなのだろうか。


「それは何だ?」

「レモンとサツマイモのパイです」

「面白い組み合わせだな。それを二つ」


 そして再び彼がお金を払おうとした手を、私は止めた。


「お願いですから、ここだけは私に払わせて下さい」

「何も気にする事はないのですよ。

 全て俺が払うつもりでここに来てますから」

「気にするとか気にしないとかではなくて、お礼がしたいのです。

 こんな素敵な所に連れて来て下さった、お礼。

 店主、これでいいかしら?」


 そして今度は、私が有無を言わさない勢いでお金を払う。

 内心ドキドキしていた。家族以外の人に自分の意思を強引に示したのは、初めてだったから。


 しかしどんどん不安が募って来て、不快に思われていたらどうしよう、我の強い女だと思われていたらどうしようと考えて始めてしまう。

 少し震えた手で店主からパイを受け取って、恐る恐る彼に差し出した。


「くく…」


 そんな私の不安をよそに、なぜか彼は小さく肩を震わせていた。


「な、何故笑って」

「…失礼。

 あなたは大変顔に出やすい人だ。

 大丈夫です。とても嬉しいです。ありがとうございます」


 そう言って、彼は受け取る。

 別にそんなに笑わなくてもいいじゃないかと口に出そうになったが、本当に嬉しそうな顔を見せるものだから、ぐっと口を噤んだ。


 どうやら彼はこんな事で不快に思う様な人ではないらしい。

 むしろ私の申し訳ない気持ちを汲みとってくれて、ほっとする。


 少し歩くと、開けた場所に出た。真ん中に噴水があり、みんなここで買ったものをその縁に腰掛けて食していた。

 私達もスペースを見つけ、二人で座ってパイを齧る。


「…美味しい」

「うん、これは美味い」


 不思議な組み合わせだったが、サツマイモの甘味とレモンの酸味が絶妙にマッチしていて美味しい。

 それにこんな所に座って青空の下で食べるなんて普段ならはしたないと言われそうな背徳感がまた、余計に美味しくさせている気がする。


「甘い物がお好きなのですか?」

「そう、だな。

 言われてみればそうかもしれません。

 特に訓練などで疲れている時は、無性に糖分が欲しくなります」


 彼の手からはもうパイは無くなっていた。

 本来手のひらくらいの大きさの筈なのだが、彼が持つと一口サイズにしか見えなくて、案の定一瞬で食べ終えてしまった様だった。


「ゆっくりでいいですからね」


 早く食べなきゃと急ぎ気味になっていた私に、優しく声を掛けてくれる。

 この時にはもうすっかり彼の印象は変わっていた。


 騎士らしく紳士的だし、倒れる程怖かったはずなのに今では彼が横にいるだけで安心している。

 もっと時間が必要だと思っていたのに、彼の誠実さにすっかり警戒心というものはなくなっていた。


 ただ、相変わらずロマンというものがないのが少し残念だ。

 彼はごく自然に私に触れ、気を遣ってくれている。でもそこに下心というものは一切ない。

 あくまで人として、男として、使命を果たしているといった感じだ。


 別にいいのだけれど。

 こうして彼を知れて良かったし、まだ知り合ったばかりなのだから。

 なのに私だけが意識してしまっている事に、どこか残念に思ってしまう自分がいた。


 その後もいくつか店を回って、陽が傾き始めた頃に次の目的地へと移動した。

 案内されたお店はテーブルの真ん中にお花とキャンドルが置かれている様な、落ち着いた雰囲気がある素敵な所だった。


 はっきり言うと、彼らしくない。

 そう、私はもう一つ引っかかっている事がある。

 下心はないくせに、やたら女性が好みそうな行動や場所を選択している事だ。


 花束を持って来たり、買い物に付き合ってくれたり、雰囲気のあるお店でディナーをしたり。

 本当に彼の意思で今日のプランは組まれたのだろうかと疑問を抱く。


 案の定給仕におすすめのコースを聞いていて、初めて訪れたであろう事を、悪びれもなく私の前で見せている。

 さすがに貴族なだけあってテーブルマナーは完璧だが、コースは少量ずつくるので先程のパイと同様皿が来ては一瞬でなくなり、全く味わう様子もない。


 美味しくて腹を満たせれば良い、といった感じだ。

 一つ一つまるで品評するかの様に味わうお父様とはかけ離れていて、普段こういうお店を利用していない事が一目瞭然だった。


「美味しくて、素敵な場所ですね。

 カイン様も初めてですか?」

「はい、同僚に教えてもらいました」


 本当に素直な人だ。

 少しは取り繕えばいいのに。


「もしや、今日のプランもその同僚の方にして頂きました?」


 ぴたり、と彼のフォークとナイフの動きが止まる。


「…分かりましたか?」

「ええ。ふふふ…」


 あっさり認めた彼に、とうとう笑いを堪えられなかった。

 私もこんな失礼な事を殿方に聞くなんて余程彼の事を信頼しているらしい。


「…実は、前回の顔合わせの時に強行した討伐作戦の指揮を、その同僚に任せていました。それなのにのこのこやって来た俺を見てかなり叱られまして。

 結局すぐに魔物が暴れ出したので、俺も急遽戦いに参加する事になってなあなあになってしまったのですが、その後もかなりしぼられました。当たり前なんですが…」


 またシュン、となっている。

 この話になると、彼は小さくなってしまうらしい。


「今回またあなたからチャンスを頂き、同僚も喜んでくれました。そして、もう失敗する事のない様にと協力してくれて…その、そんなにらしくなかったですか」


 大きくてがたいの良い男が、可愛らしい花とキャンドルとお皿に対してこじんまりとした料理の前でそう言う。

 どう見ても、らしくないだろう。


「…はい。

 最初に見たあなたが青い血に染まった姿でしたので、てっきり闘技場や狩りにでも連れて行かれるのかと」

「いやいや、流石の俺でも女性を連れて行く様な場所ではない事は分かってますよ」

「やはりお好きなのですか?」

「まあたまにですが、行きますね」


 やっぱり行くんだと思って、予想通りの彼にまた吹き出してしまう。

 そして一応女性に対しての常識はある様で安心した。


 ここで私は小さく決意する。

 相手が正直に話してくれたのだから、私も正直に話そうと。

 あのすっぽかされた一件は、どの道乗り越えなければいけない事だ。

 そう思い、膝に乗せた手をぐっと握ってから口を開く。


「あなたが…私達の未来の事より仕事を優先してしまった事実は変わらないし、確かにその…不快、でした。何よりも悲しかったです」


 彼が姿勢をそっと正す。


「正直、今日もあまり期待していませんでした。

 それでも、お父様があなたを信頼している理由を知りたかったのです」


 彼が私の言葉を待っている。

 私はふう、と一つ息を吐いた。


「とても楽しかったです。

 お花も市場に連れて行ってくれた事も。

 他の方が考えた事だったかもしれないけれど、素直に嬉しいです。あなたが私を喜ばそうとしてくれた事には、変わりはないから」


 何故この人相手だと、こんなに素直に言葉を紡げるのだろう。普段引っ込み思案と言われている私じゃないみたいだ。

 ちなみに彼は何故か呆けた様な顔をしていた。

 若干気になるけれど、私はまだ彼に聞きたい事があった。


「その、一つ聞きたいのですが」

「…え?な、何でしょう」

「あなたが考えたプランはあったのでしょうか」

「聞きたいですか?」

「はい」


 彼は困った様に頭を掻いたが、意を決した様に咳払いをしてから口を開いた。


「私は目的もなく歩くのが好きなのです。

 休みの日はよく自分で軽食を作って遠出していて、あなたも一緒にどうかなと考えていました。

 同僚からは、女性にはきつすぎるからやめろと止められましたが」


 なるほど。確かに大変そうであるが、その方がよっぽど彼らしい。

 昨日までの私なら引き攣っていただろうに、なぜか心が躍った。



 ───オリヴィア、あなたはもっと広い世界を知るべきね───



「…ぜひ、行きたいです」

「え…」


 そして気付いた時にはそう口にしていた。

 もしかしたらこの人が、私を広い世界へ連れて行ってくれる人なのかもしれない。そう思ったから。


「いつでもいいので、また行く時があったら誘って頂けませんか」

「…その、奥様に許可を頂けたら、ぜひ」


 彼は困惑していた様だが、にこりと笑った。

 私もつられて笑う。

 そしてどちらからという事もなく、再び目の前の料理を食べ始めた。


「今日は、ありがとうございました」

「いえ、すっかり遅くなってしまって申し訳ない。

 お二人に挨拶します」

「い、いいです。私から言っておきますから」


 遅いといっても、まだ二十時だ。

 出発したのは昼過ぎだったので、こんな時間になっても不思議ではない。

 それに彼と一緒にいる私を、両親に見られるのが何となく恥ずかしかった。


「分かりました。よろしくお伝え下さい」


 彼が深く礼をする。


「…はい」


 初めての二人でのお出かけは、これで終わり。

 本来彼は多忙な人間だから、次いつ会えるか分からない。

 じわじわと心が沈んでいくのが分かった。


「すっかり萎れてしまいましたね」


 ぼうっとしていたら、彼が私の手元にある帽子に挿した花に触れながら呟いた。


「ええ。

 でもしっかり仕事をしてくれました。

 今日の市場に来ていた誰よりも、素敵な帽子になったと思います」


 すると花に触れていた彼の手が上がり、私の後頭部をそっと撫でた。息が止まる。


「また持って来ます。

 あなたを、飾れる様に」


 さあお入り下さいと、何事もなかったかの様に誘導される。

 私は呆然としたまま扉を開けた。


「お休みなさい」

「…お休み、なさい」


 扉が閉まるその時まで、彼の騎士のポーズは解かれる事はなかった。



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