其ノ八 ~大虐殺~
柄の悪い男女の集団は、走るわけでもなくゆっくりと歩いてきた。彼らが迫ってくるにつれ、香水の濃厚なにおいが蓮の鼻をつく。
先陣を切るように歩み出たのは、金髪の男だった。手首や腕にいくつものアクセサリーを光らせ、背は蓮よりも少し高い程度だが、とても筋肉質な体つきをしているのが分かった。
「おい、何見てんだよ?」
煙草臭い息を吐き出しながら、男は言った。その口調には、有無を言わせぬ威圧感が滲んでいた。
蓮は何も言わなかった。ただ口を結び、挑むような眼差しを男に向けていた。
「きったねえ奴……おい、そいつもホームレスじゃねえのか?」
後ろにいた仲間のひとりがそう言った。それを合図にするように、彼らはゲラゲラと笑い始めた。
嘲笑の渦に包まれたトンネル内で、蓮は思った。これまでにも、この連中はこんなことを繰り返してきたのだろう。単なる鬱憤晴らしか、それとも社会的弱者を虐げることで快楽を得ていたのかは分からない。
だが彼らは親から貰った金で髪を染め、アクセサリーや香水を買い……とにかく気の向くままにやりたいことをやり、満ち足りた暮らしを送ってきたに違いなかった。
自分とは、まるで正反対だと蓮は思った。
「おらてめえ、聞こえてんのか?」
金髪の男が一歩、前に歩み出る。いかにも喧嘩っ早くて気が短そうなその男は、今にも殴りかかってきそうな雰囲気だった。
憎悪が湧き上がる、蓮が拳を握った時だった。
《殺せ》
体中に鳴り響くほどの心臓の鼓動とともに、その声が蓮に語り掛けた。
「やめろ……!」
蓮はそう返した。看守達の一件で、声の主を受け入れればどうなるのかは、すでに身をもって知っていた。
男が、蓮の胸倉を鷲掴みにする。
「何が『やめろ』だ、殺されてえのかこの野郎……!」
男はどうやら、蓮の言葉を自分に向けられたものだと勘違いしたようだ。
後ろにいた仲間達が騒ぎ始める。
「やっちまえ、ボコボコにしろ!」
「ぎゃはは、殺しちゃいなよ!」
乱暴で邪悪な言葉が鼓膜を揺らすたびに、蓮の身内に芽生えた負念が増大する。
こいつらは人間じゃない、頭のイカれた化け物だ……そう思わずにはいられなかった。
《何を迷っている?》
声がまた、蓮を誘惑する。
「やめろっ……!」
さっきと同じ言葉を、蓮は繰り返した。しかし声は止まない。
《こいつらは人間じゃない、頭のイカれた化け物だ……そうだろ?》
蓮が考えたことを見通すように、姿の見えない存在は言った。
男が、一層の力を込めて蓮の胸倉を掴み上げた。喉が圧迫され、呼吸が苦しくなる。
「やめるわけねえだろ、ああ?」
見開いた目をギラリと輝かせながら、男は言った。虐げる快楽に酔いしれているのだろう、その口元には笑みを浮かべていた。
男がその拳を振り上げた時だった。
《そう……お前の父親と同じようにな》
その言葉で、蓮の中で何かが壊れた。
世界から音が消え去ったように思えた。『父親』という言葉が何度も跳ね返り、蓮の頭の中をズタズタの血まみれにしていく。
怒りが、憎しみが、殺意が、急激に増大する。ダムの堤防が決壊して水が溢れ出すかのごとく、抑え込んでいた負念の全てが爆発し、一瞬と呼べる時のうちに蓮を飲み込んだ。
「やめろと言っているんだ―――――ッ!!!!!」
笑い声を掻き消さんばかりの叫びを発しながら、蓮は自身の胸倉を掴む男の腕を掴み返した。
その瞬間――突如として発生した赤黒い霧が蓮の腕に渦巻き、やがて同化していった。看守を殺した時と同じだった。
「な、何だ……? 何なんだよこれ!」
様子がおかしいことに気づき、男がだじろぐ。
しかし、もう遅かった。赤黒く染まった蓮の手、まるで刃物を突き刺すかのごとくその指先が男の腕に沈み込んでいく。
抵抗する暇すら与えず、男の腕はまるで粘土細工のように千切り取られた。
「ぎあああああああああああああああッ!!!!! うげえあああああああああああああ――ッ!!!!!」
腕の断面から鮮血を噴出させながら、男は凄まじいまでの悲鳴を上げた。千切り取られ無造作に捨てられた腕は、少しの間ビクビクと蠢いていた。その様子はまるでトカゲの尻尾だった。
飛び散った血液がトンネルの壁に付着し、蓮の顔にも赤い水玉模様を作り出す。
後ろにいた男の仲間達は、目の前の出来事が飲み込めていないのか、ただ状況が理解できていないのか、ただその場に立ち尽くしているだけだった。
腕を千切り取られた男は、ただ鮮血を撒き散らしながら悶え苦しみ続けていた
こんな恐ろしいことをした後だというのに、蓮の殺戮衝動は収まるどころかさらに湧き上がった。
《殺せ》
もう、その声に抗おうとはしなかった。
腕を覆い包む赤黒い霧が、蓮の意思に呼応するように刃のような形状へと姿を変える。それが届く範囲へと踏み入るや否や、蓮は金髪の男の腹部を串刺しにした。若い看守を殺した時と同じように、肉や内臓を切り裂き、骨を削る感触が伝わってきた。
「うがはっ、ぶおっ……!」
奇妙な声が男の口から漏れ出る。それが、男がこの世で発した最後の言葉となった。
霧の刃を引き抜くと、絶命した男はその傷や口から大量の血液を溢れさせながら地面に崩れ落ちた。トンネルの狭い道が、瞬く間に真っ赤に染め上げられていく。
次に蓮の耳に入ったのは、仲間である別の男が発した声だった。
「てめえっ、よくも!」
恐怖よりも、仲間を殺されたことに対する怒りが勝ったらしい。ある意味、大した奴だと蓮は思った。
しかし――容赦する気はなかった。
殴りかかってくるよりも先に、赤黒い霧に覆われた手がその男の首を掴み上げた。それだけで、男は行動不能になってしまった。
「あがっ、ぐっ……!」
蓮の手を振りほどこうと男は身悶えするが、何の意味もなさない。
《もっと殺せ》
負念に飲み込まれそうになりながらも、蓮にはまだ理性が残されていた。
しかし次に発せられた言葉が、それをも奪い去る。
《怒りと殺意を滾らせろ、そして俺の力を引き出せ!》
変化は劇的だった。
それまでは蓮の腕だけを覆っていた赤黒い霧が、全身を覆い包み始めた。足、胴体、そして顔……赤黒い霧はそれ自体が意思を持つように、蓮の体全てを飲み込んでいったのだ。
もう、蓮は人間としての姿をしていなかった。あえて例えるならば、赤黒い霧が人の姿を取った物体――禍々しく邪悪な怪物だった。
殺意が、爆発する。
「ぶっ殺す」
《ぶっ殺す》
二つの声が重なった。
怪物と化した蓮は、首を掴んでいた男を無造作に放り投げた。
男は顔面から壁に激突し、鈍い音を辺りに響かせる。首が変な方向に捻じれた男は、もう二度と起き上がることはなかった。
蜘蛛の子を散らすように、残りの仲間達が悲鳴を上げながら逃走していく。だがもちろん、逃がす気などなかった。
顔にあたる部分に形成された、円球のような二つの目で周囲を見渡し、蓮は手近にいた女に狙いを定めた。
凄まじい跳躍力でトンネルから飛び出し、蓮はその女の前に立ちはだかる。その女が恐怖に表情を染めて何かを言おうとしたが、声を出す猶予すら与えはしなかった。
右手の赤黒い霧を刃物の形状に変じさせ、蓮は女に向かってそれを上向きに振り抜いた。
華奢な女の体が宙に打ち上げられ、真っ二つに切り裂かれる。臓物と血液の血生臭い雨が、周囲に降り注いだ。地面に落ちた心臓が、しばらく拍動を続けていた。地獄さながら、目を背けたくなるほどの残酷極まる惨状――常人ならば吐き気を催すであろうが、蓮は何も感じはしなかった。
それどころか、むしろその光景が滑稽だと感じられ、口元には笑みすら浮かんでいた。
人体を構成していた肉片が地面に落ち、ビチャビチャと音を立てる。蓮は他の仲間達の方へ振り向いた。残りはあと三人だった。
「いやっ! いやーっ!」
生き残った女が悲鳴を上げる。
怪物と化した蓮は獲物を視界に捉えると、凄まじい叫び声を上げた。
耳を聾しそうなその咆哮は、狂気の雄叫びにも、そして悲鳴にも聞こえた。
◎ ◎ ◎
「っ……!?」
永介とコンビニで夕食を済ませ、一月はマンションへ戻っていた。
あとは風呂に入って眠るだけだったのだが、彼は自室のドアノブを掴もうとしたところで手を止めた。
いや、止められた。凄まじく邪悪で、禍々しくて……以前にも感じたことのある気配に、身が凍りつくような感覚を覚えたのだ。
マンションの廊下、その壁にある窓から外を見てみる。闇に包まれた景色の中で、木々が風に吹かれて揺れているのが見えた。
(今の感じ……まさか、まさか……!)