其ノ六 ~広ガル不穏~
剣道サークルでの活動を終えた一月は、永介とともに自転車を駆り、帰途についていた。
時刻は午後十時を過ぎており、辺りは闇に包まれていた。道路脇に点在している街灯に照らされてはいたものの、夜空に浮かぶ満月が一際映えるほどの暗さだった。路肩の草むらからは、虫の鳴き声が途切れることなく聞こえてきた。
「ふー、疲れたな」
隣を走る永介の言葉に、一月は自転車のライトで照らされた前方を見つめながら応じた。
「ああ、お疲れだ」
永介は続ける。
「一月お前また強くなったんじゃないか? 俺じゃ全然相手にならなかったよ」
剣道サークルで、今日は実戦練習を行った。対戦カードはランダムで決めたのだが、偶然にも一月と永介が対戦することとなった。結果は一月の完全勝利、永介はまるで歯が立たなかったのだ。
はぐらかすような笑みを浮かべつつ、一月は言う。
「偶然だよ、浮き沈みがあるから日によって調子が出なかったりするし……いつもこうだとは限らないさ」
「はは、俺も言ってみたいわそんなこと」
笑みを浮かべてはいたが、永介の表情にはどことなく含みがあるように一月には思えた。いつも飄々としていて明るい彼だが、劣等感でも感じているのだろうか。
すると永介が何かに気づいたような面持ちを浮かべ、言ってきた。
「あ、もしかして一月がいつも持ってるあのクマのマスコットのご利益か?」
一瞬でも永介の気持ちを慮った自分が愚かだったと、一月は自身を恥じた。
「からかうなって」
二人の笑い声が、夜の街に発せられた。
一月はふと満月を見上げ、
(けど、そうかも知れないな)
このマスコットをくれた少女のことを、ふと思い返した。
彼女は、自分を見てくれているだろうか。今の自分を見て、彼女はどう思っているのだろうか……一月はふと、そんなことを思った。
「それにしても、やっぱすごいよな一月。サークルのエースになれるって、こないだ先輩方が言ってたぞ」
永介の言葉で、一月は我に返る。
「え?」
前方から完全に視線を外さないように、一月は横目で永介を見た。
「ほら、一月って先輩とも互角以上に打ち合えるし……何ていうんだろ、竹刀を持ったお前と向かい合うと、ただならぬ気迫を感じるっていうか……思わず飲まれそうになっちまうんだよな」
「何だそれ、漫画じゃあるまいし……」
いつも通り、冗談を言っているのだと一月は思ったが、永介の表情はいつになく真剣な感じだった。
「一月ってもう三段なんだろ? こりゃ将来は八段間違いなしだな」
永介が話題に挙げたのは、剣道段位のことだった。
剣道段位は正式には『全日本剣道連盟〇段』と表記され、剣道未経験の者にも通ずる称号であり、履歴書などにも書くことができる。
受験料を支払えば誰でも受審できるというわけではなく、例えば初段には『一級を所持かつ、十三歳以上の者』、その上の二段には『初段取得後に一年以上修行を積んだ者』……というように条件が定められているのだ。
なお、八段の受審条件は『七段取得後に十年以上の修行を積み、かつ四十六歳以上の者』。仮に一月が八段に合格することがあるとしても、それは二十五年以上も先の話になるだろう。
「段位なんてそこまで重要じゃないさ、それに八段なんか夢物語だって」
謙遜するように、一月は言った。彼にとって、段位とはあくまでも目安のようなもの。肝心なのは実力だと考えていた。
そもそも最高段位たる八段の合格率は一パーセント未満、単純計算で百人が受験しても一人しか合格できないということになる。数字上では司法試験以上の難易度であり、日本最難関の試験とすら言われているのだ。
その後も一月は永介と二人で夜道を走り続け、コンビニに立ち寄った。
サークル活動の帰りには、二人で晩まで営業しているラーメン屋やカレー屋に行くことがしばしばあったが、今日はコンビニ弁当で済ませることに決めたのだ。
涼しい店内には、他にも数名の客が見受けられた。一月は唐揚げ弁当を、永介はトンカツ弁当を購入し、イートインスペースへ向かう。
飲み物が欲しいと思った一月が自動販売機に小銭を投入していると、不意に永介が言った。
「うわ、まじかよ……」
永介はイートインスペースの椅子に座り、スマホを操作していた。
「どうした?」
一月が問うと、彼はスマホの画面を見せてくる。そこにはニュース速報が映っていた。
「ほんのさっき、少年刑務所から受刑者が一名脱走したんだってよ。しかも看守が二人殺されたって」
スマホに映ったページの見出しをそのまま読み上げるように、永介は言った。
一月はその記事を読んでみた。それによると、脱走が発生した少年刑務所は鶫ヶ丘少年刑務所という場所で、その住所はここから近くはない……しかし、遠くもない場所だった。
脱走したのは十九歳……つまり一月や永介と同い年の受刑者とのことで、実名は伏せられていた。
「これは……」
一月が目に留めたのは、さらにその先の内容だ。
状況的に、二名の看守を殺害したのは件の脱走した受刑者であると考えられており、しかもその者は刑務所の壁を破壊して、そこから逃げたのだという。
刑務所の壁ならば頑強な設計になっているはずだし、外には夜間だろうと多くの見張りや、有刺鉄線や電流が仕掛けられた高い塀だってあるはずだ。それ以外にも、一月が知りえないようなセキュリティが何重にも張り巡らされていることだろう。単なる受刑者がそれらを掻い潜って脱走など、できるものなのだろうか。
しかも、看守が二名も殺害されただなんて……一月がそう思っていると、永介が不意にスマホをポケットにしまった。
「まあ、すぐに捕まるよな」
気には留めたものの、深刻に考えるようなことではない……永介はそう思っているようだった。
一月は頷く。
「そうだよな」
看守を二名も殺害したといえど、所詮は一人の少年だ。警察が束になって捜索すれば、永介の言う通りすぐに捕まるだろう。一月はそう結論づけた。
記事に載っていたその受刑者が一体誰なのかなど、気にも留めなかった。
想像を絶する悪夢は、もう始まっていた……一月はもちろん、そんなことは考えもしなかった。