其ノ終 ~鬼が哭く~
降りしきっていた雨が、もう止んでいた。
この神社で戦っている間に、どれほどの時が過ぎていたのか、もう僕にも分からない。ただ、陽の光が穏やかに照らし始めていて……怪異の終結を、獄鏖鬼が消え去ったことを実感させてくれた。
もう誰も死なない、誰も殺されずに済む。
しかし……代償は、あまりにも大きすぎた。
「蓮……!」
僕の腕にその身を預けつつ、蓮はぼんやりとした眼差しを向けてきた。
致命傷を負わされ、常人なら立っていることすら不可能な状態になりながらも、驚くべき精神力を見せた蓮。獄鏖鬼を倒せたのは、彼のお陰だった。獄鏖鬼に利用されて取り憑かれても、彼は打ち勝った……僕らの所へ帰ってきてくれた。そして自分の手で、獄鏖鬼に引導を渡したのだ。
傷口からは、血液がとめどなく流れ続けていた。もう痛みすら感じていないようで、蓮はただ自分の運命を受け入れたように、穏やかな表情を浮かべていた。
「蓮!」
「蓮君!」
琴音と黛先生も、蓮を呼んだ。
師である黛先生と、その弟子だった僕と琴音と蓮。こんな形で一堂に会することになるなんて、運命の皮肉を感じずにはいられない。
だけど蓮が息絶えれば、また僕らは離れ離れになってしまう。そしてもう二度と、あの頃の四人が揃うことはないだろう。そんなことは絶対に嫌だと思っても、僕にできることは何もない。
蓮を救う術など、僕は持ち合わせていないのだから。
「一月、琴音、先生……」
もう、その瞳に光を映すこともできなくなっているのか、どこか遠くを見つめながら、蓮は言った。
瀕死の人間が発しているとは思えない、しっかりとした声だった。
「すまなかった……世話をかけたな」
僕は涙を堪えながら、応じた。
「何言ってんだよ、友達だろ……!」
僕達の中で唯一、光の差す道を歩むことができなかった蓮。幼少期から苦境に立たされ、理不尽な運命を背負わされた彼。それでも彼は僕らを憎まず、辛い気持ちを隠しながら懸命に妹を、それに自分自身を守り続けてきた。
獄鏖鬼に取り憑かれて、こんなことになって……こんな結末は、あまりにも悲し過ぎた。
蓮にこんな人生を与えた神が、憎かった。いや、そもそも……神などいないのかも知れない。仮にいたとしても、蓮を救ってはくれなかった。見捨てたのか、他に助けを求める人が多すぎて手が回らなかったのかは分からない。いずれにせよ、神は蓮に何もしてはくれなかったのだ。
琴音は、何も言わなかった。彼女はただ、蓮を見つめながら……涙を流すのみだ。
「獄鏖鬼に負けちまって、危うくお前達を……俺が弱かったんだ……本当に、すまなかったな」
自責の念が滲んだ言葉、応じたのは琴音だ。
「蓮、もういいよ、もういいから……だから、やめてよっ……!」
震えるような琴音の涙声に、蓮は笑みを浮かべた。
「ありがとな、琴音」
琴音に感謝を告げると、蓮は続いて、
「先生……悪かった。それに、ありがとう」
黛先生は、何も言わずに蓮に歩み寄った。
「ガキの頃、俺との約束を守ってくれて……それに今回も、俺を助けようとしてくれたんだろ?」
両親からの虐待を、誰にも漏らさないこと。蓮が黛先生と交わした約束というのは、きっとそのことなのだろう。
黛先生はその約束を守った、しかし結果的に、それがこの状況を招いたという見方もなくはない。
だけど、先生が責められるいわれはないだろう。僕が同じ状況に置かれれば、きっとどうすればいいかなど分からなくなるだろうから。それに先生は、獄鏖鬼から僕と琴音を救ってくれた。それに、自分の命を削ってでもこの場に駆けつけてくれた。
黛先生の協力がなければ、この怪異は乗り越えられなかった。最強の鬼に打ち勝つなど不可能だった。先生が助けてくれなければ、初めて獄鏖鬼に遭遇したあの時点で、僕は獄鏖鬼に殺されていたに違いない。
「蓮君……!」
黛先生が呼ぶと、蓮はその目を閉じた。
「最後に、皆と会えてよかった」
呟くような彼の言葉に、黛先生が歩み出た。
「いや、蓮君……最後じゃないよ」
その言葉の意味が分からずに、僕も琴音も黛先生を向いた。
先生は蓮の側で膝を折り、彼の胸に、真っ赤に染まった服から覗く傷口に、その右手をかざした。
一体、何をする気なのか?
「薺、菘!」
真に迫る黛先生の声。近くで会話を見守っていた、ふたりの精霊の少女達が息を飲んだ。
「先生、まさか……!」
「でも、それをやったら先生の命が……!」
薺と菘が、難色を示すように返事する。
彼女達は黛先生の意図を理解しているようだが、一体何をする気なのか、僕にはまったく分からない。きっと、琴音も同じだろう。
何をしようとしているのか、先生に訊きたかった。だが、それは許されなかった。
「ふたりとも早く、時間がないんだ!」
黛先生の真に迫った声には、有無を言わせない雰囲気が込められていた。
ほんの僅かな間を挟んで、薺は応じた。
「はい、先生!」
なおも戸惑う様子の菘と視線を合わせて、薺は頷いた。菘は表情に迷いを浮かべていたが、それもほんの数秒、同意を示すように薺に頷き返した。
薺と菘が蓮に寄ると、彼女達も黛先生と同じように蓮の傷にその手をかざした。
うっすらと目を開けつつ、蓮が問うた。
「何を……!?」
黛先生は、
「蓮君、君を死なせはしない……!」
そう答えると、先生は目を閉じ、詠唱を始めた。
隣にいる薺と菘も、同じように呪文を唱え始め、三人の声が重なり合った。
効果は、劇的だった。薺と菘、それに黛先生の手が眩い光を放ったかと思うと、それに照らされた蓮の傷がみるみる塞がっていき、やがて跡形もなく消滅したのだ。身体を真っ赤に染めていた血液まで消えて、まるで傷を受けたこと自体がなかったことになったかのように。
僕はただ、驚くばかりだった。
「この力……?」
琴音がそう漏らした、次の瞬間だった。
黛先生が突然、胸を押さえて苦しみ始めたのだ。
「ぐっ……!」
薺と菘が、両脇から慌てて先生の体を支えた。
「先生!」
「大丈夫!?」
胸を押さえつつ、黛先生は乱れた呼吸とともに答えた。
「心配ない、それよりも……!」
先生が視線を上げて、蓮を見る。
蓮が目を覚ます――その瞳には再び、生気が宿っていた。
困惑した表情を浮かべながら、蓮がゆっくりとその身を起こした。
「傷が消えた……? 先生、俺に何を……?」
呼吸を整えながら、黛先生は言う。
「何てことはない、鬼に刻まれた傷を治療する術さ。薺と菘、ふたりの精霊の力を借りなければ使えないし、自分の体力を削るという難点こそあるが……どうだい蓮君、楽になっただろう?」
まさか、こんなこともできたなんて……という驚きとともに、僕は状況に気づいた。
蓮が、助かったのだ。彼は死なずに済んだ、幼い頃から理不尽な運命に捕らわれ、最後には獄鏖鬼に利用された果てに人生を終える、そんな救いのない結末を迎えることを、回避できたのだ。
琴音も、そのことを察したらしい。
「それじゃあ先生、蓮は……!」
「ああ、助かるよ。保証する」
その直後だった。黛先生が突如激しく咳き込み、口に当てた手に血が付いていた。
僕や琴音よりも先に、蓮が駆け寄った。
「先生、その血は……!」
顔を上げ、その口の脇に血を付着させたまま、先生は蓮に答える。
「大丈夫さ、これくらい……君が受けた痛みに比べればね」
「え……?」
健常に戻った蓮に、黛先生は語り始めた。
「私には、君を助けられなかった責任がある。君が両親から虐待を受けていることを公にしていれば……いや、仮にそうしなくとも、きっと君を助ける手段はあったはずだ。だが、私は悩んで手をこまねいているだけで、結局君を鬼にさせてしまった。師匠として、弟子を守るという責務を果たせなかったんだ。だからせめて、君の命だけは守れたという心の救いをくれないか……」
黛先生も、責任を感じていたのだ。
命を削ってでも蓮を救う、死の運命から引き上げる。それが先生なりの贖罪なのだと、僕には感じられた。
「だけど、先生の体は……!」
蓮の言葉を引き留める形で、琴音が言った。
「蓮!」
胸元で拳を握り、哀願するような面持ちで、彼女は続ける。
「お願い、黛先生の気持ちを分かってあげて……言ったでしょう? 生きているというのは尊いこと、幸せなこと……命があればこそ、蓮はこれから『やり直す』ことができるんだよ」
琴音の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち……その頬を、一直線に伝い落ちていった。
そして彼女は、
「私は……もうやり直せないから」
琴音のその言葉に、僕も胸が苦しくなる。
涙が出そうになるけれど、それを懸命に堪えた。だって、そうだろう。一番泣きたいのは……琴音のほうじゃないか。
蓮はもう、何も言わなかった。
◎ ◎ ◎
手錠を掛けられ、パトカーへと向かっていく最中だった。蓮は立ち止まり、自身を見送る一月と琴音、それに黛を振り返った。
両脇には二名の警官がいたが、無理やりに連れて行こうとはせず、蓮に猶予を与えた。
「こんな俺でも……本当にやり直せるのか?」
応じたのは、一月だった。
「もちろんさ、蓮なら絶対やり直せる……君は、僕らの仲間なんだから」
一月に同意するように、琴音と黛が頷いた。
これから自分がどうなるのか、蓮には分からない。
不本意ではあれど、獄鏖鬼として多くの人間を殺めた蓮。どんな刑に服すこととなるのか、そもそも裁判が成立するかどうかすら分からない。自分が向かおうとする未来は、未だに闇に包まれたままであるように感じられた。
それでも、確かに希望はあった。
この状況を分かってくれる友が、仲間が……目の前に三人もいるのだ。
一月達に背を向け、蓮はふたりの警官に触れられつつ、再びパトカーへと歩き始めた。
「蓮!」
その最中で、一月から呼び止められて足を止めた。
「またいつか、会えるのを待っているから。だから……それまで負けないでよ」
蓮は振り返らず、返事もしなかった。
ただ少し立ち止まった後で、またゆっくりと歩を進め始めた。
――その最中で、蓮はとめどなく涙を流した。
◎ ◎ ◎
「蓮、大丈夫だよね」
蓮を乗せたパトカーが走り去っていくのを見届けて、琴音が言った。
一月は頷く。
「当然さ」
これから蓮がどんな処遇を受けることになるのか、一月にも誰にも想像はつかない。
だがそれでも、一月は蓮を信じようと決めていた。他者のために痛みを隠すこと、それができる蓮ならば、どんな試練に直面しても打ち勝てる、そう信じていたのだ。
何年後か、何十年後か……どれほど先の話になるのか分からなくとも、一月は蓮と再会できる日を待とうと思っていた。その時はもちろん、塀の外で。
「一月君、琴音さん、済まなかったね」
かつての師に謝罪され、一月と琴音は黛を振り返った。
「今回の怪異で、獄鏖鬼の討伐という難題を押し付け、君達を危険な目に遭わせてしまった。改めて謝罪する」
一月は、慌てて否定した。
「いや、そんな……僕のほうこそ、先生がいなかったら獄鏖鬼に殺されていましたから」
「私も、同じです」
黛は頷いた。
「ふたりとも、本当にありがとう。流石、私の弟子達だ」
会話を見守っていた薺が、促す。
「先生、そろそろ行かないと、体が……」
黛は、「分かった」と応じた。
聞いた話によれば、黛は薺と菘に命を繋いでもらっている状態とのこと。それにさっき蓮を助けた時にも、苦しそうな面持ちを浮かべていた。
霊的な力を駆使する際には、体に負担がかかるのだろう。
「それじゃあ一月君、琴音さん……そろそろ失礼するよ」
一月は頷いて、
「先生、本当にありがとう御座いました」
かつての師に、今一度心よりの感謝を告げた。
黛は一月に小さく頷くと、琴音を向いた。
「琴音さん、そろそろ『お別れ』の時間だろう? 一月君に、しっかり伝えてあげて」
「はい、先生」
黛の言葉の意味は、一月にも理解できた。
「それじゃ、ふたりとも……縁があったら、またどこかで」
そう告げると、黛はかつての弟子達に背を向け、歩を進め始めた。
薺と菘も、一月と琴音に一礼してその背中を追う。
一月と琴音だけが、そこに残された。心地よい暖かさを内包した風が、穏やかにふたりを覆い包む。
琴音が、自分の手の平を見つめた。
その指先が、淡い光の粒に変じ始めていた。
「もう……行っちゃうの?」
一月が問うと、琴音は頷いた。
「今までと同じだよ、役目が終わったから……私はもう、行かなくちゃ」
琴音は、もう生きている人間ではない。
千芹という精霊の器を借りて、鬼から想い人を、一月を救うために遣わされる存在なのだ。この世から切り離されている身であり、現世に居続けることは許されない。
これまでもそうだったように、怪異の終結の際には、彼女との別れが訪れるのだ。
琴音は、一月に向き直った。緩やかに吹いた風が、彼女の白いワンピースや黒髪を揺らした。
「私が前に言ったこと、覚えてるよね?」
「え?」
琴音は瞳を潤ませつつも、笑顔を浮かべた。
別れを惜しんでいるというよりも、想い人と共に在る時間を授かったことに喜んでいるように見えた。
「鬼がいるところには、いつだって私達がいる……これは永遠のお別れなんかじゃない、悲しまなくてもいいんだよ」
そう言いつつも、琴音はその瞳から一筋の涙を頬に伝わせていた。
彼女の体は刻一刻と光の粒に変じており、別れの時が迫ろうとしているのが分かった。
いつの間にか、一月もその瞳に涙を浮かべていた。
それでも、伝えなければならなかった。言わなければならないことがあったのだ。
もう、次にいつ会えるのかなど分からない。永遠のお別れではないと彼女は言ったが、もしかしたらもう二度と会えない気もしていた。
チャンスは、今しかなかった。
「琴音、大好きだ……!」
涙を堪えながらも、一月はどうにか言うことができた。
そして、言葉はしっかりと届いたらしく……琴音は応じた。
「いっちぃ、ありがとう」
――直後、琴音は無数の淡い光の粒にその姿を変じさせ、空へと昇っていった。
五年前、高校一年生だった時にもそうしたように、一月は見えなくなるまで、それを見送った。
再会の時、それが訪れるかどうかは分からない。
それでも、これからの人生を精一杯生きようと決めた。
天から見守ってくれているであろう想い人に、恥じぬように。
金雀枝一月
秋崎琴音/千芹
出間蓮/獄鏖鬼
黛玄正
雪臺世莉樺
新庄永介
御藤隆久
大杉
鬼哭啾啾4 ~鬼が哭く~
終




