其ノ五拾弐 ~鬼狩ノ夜 其ノ拾参~
獄鏖鬼の刃に腹部を貫かれた蓮が、糸が切れた人形のように倒れ伏すのを僕は見た。
うつ伏せに崩れ落ちた彼を起点として、鮮血の水溜まりが広がっていく。少しばかり身動きしていたが、蓮はすぐに動かなくなった。
蓮が、死んでしまった。
そう思った瞬間、僕の中で何かが壊れるのが分かった。
「あああああああああ――ッ!!!!! うわあああああああああ――ッ!!!!!」
喉を裂くような叫び声とともに、涙が溢れ出る。
怒りと悲しみ、相反する感情が激突し、僕の中で爆発した。
ぐるぐると巡り巡るふたつの感情、優先順位的に上位に立ったのは、目の前の化け物に対する怒りだった。
蓮を玩具にし、犯罪者にし、挙句命を奪った、この忌々しい獄鏖鬼に対しての憤怒が、マグマが地表を突き破って吹き出すかのごとく、僕の心を覆いつくしたのだ。
《心配するな、お前もすぐに同じ場所に送ってやる》
獄鏖鬼が僕に迫ってくる。
怒りの咆哮を上げようと、今の僕は石畳の残骸に足を捕らえられて動けない。動けない以上は回避は不可能だし、防御も満足にできない。強大な鬼に対して、あまりにも無力な状態だった。今の僕を殺すことなど、獄鏖鬼には息をするように簡単なことだろう。
それでも、何もせずになどいられなかった。自由なほうの足で、懸命に残骸を蹴り払おうとした。しかし僕の行為は何の意味もなさず、ただ獄鏖鬼を睨み返すことしかできない。
《精々、感謝するんだな》
万事休すの言葉が、再び僕の頭に浮かんだ。
刃が振り上げられるのを見た。
「うっ!」
僕は固く目をつぶり、視線を背ける。それ以外にできることなど、何もなかった。
――数秒。痛みも、自分の身を貫かれる感触もなかった。それらを感じる猶予もなく殺されたのかと思ったが、そうではないようだった。
この状況で、獄鏖鬼が僕を殺さないはずがない。そう思った僕は恐る恐る目を開き、そして目にした。
《貴様……!?》
忌々し気に言う獄鏖鬼、その先には蓮がいた。
腹部を貫かれ、命を失ったと思っていた蓮が立ち上がり、そして獄鏖鬼にしがみついて押さえ込み、その動きを封じていたのだ。
お陰で僕は、致命傷を受けることを免れた。
しかし蓮の腹部からは、鮮血が流れ出し続けていた。
「蓮!」
僕は叫んだ。
身を挺して僕を守ってくれた蓮、しかしあんな傷を負った状態で動けば、彼は死んでしまう!
《貴様、生きていたのか……!》
蓮が顔を上げた。
その目は赤く充血し、口からは鮮血が溢れ出ていた。
「言った、だろ……傷付けさせねえって……!」
腹部を貫かれ、すでに致命傷を負っている蓮。
彼がどれほどの痛みを感じているのか、僕には想像もつかない。いや、それはもはや痛みなどという段階を超えているに違いなかった。
大量の血液を失い、瀕死のはずだった。普通ならば立ち上がることもできない状態にあるのに、蓮は凄まじい精神力で獄鏖鬼にしがみつき、動きを封じていた。
「てめえは、俺と一緒に地獄行きだ……!」
充血した目と、鮮血をとめどなく溢れ出させる彼の口。そして、獄鏖鬼を射抜く鋭い瞳。
その姿といい、雰囲気といい……今の蓮は、『鬼』となっていた。
獄鏖鬼のような邪悪な鬼とは違い、計り知れない痛みと悲しみ、そして怒りを抱いた鬼。血反吐を吐きながらも、命を賭して友を救わんとする、『善き鬼』だ。
どれだけ辛い目に遭わされようと、決して折れずに自分を保ち続けてきた、本来の彼がそこにいた――僕がそう感じていた時だった。
僕の足を捕らえていた石畳の残骸が、突如として弾け飛んだ。
「っ!」
拘束が解かれ、僕は自由を取り戻した。何が起きたのかと思った時だった。
目の前に、思いもしない人物が現れたのだ。
「一月君、大丈夫か?」
駆けつけたのは、黛先生だったのだ。
「先生……!」
身体のことがあって、ここには来られないとのことだったはず。それなのにどうして……僕のそんな疑問を読み取ったように、黛先生は先んじて言った。
「すまない、君達が必死に戦っていると思うと、やっぱり黙ってなどいられなかったんだ。自由の効かない体を引きずって、無理やり来てしまったよ」
黛先生に、薺と菘が駆け寄る。
「先生、体は……!」
「大丈夫なんですか!?」
彼女達に頷き、黛先生は前方を見やる。
「しかし、遅かったか……!」
その言葉に、僕は思い出した。
蓮が今も、その身を挺して獄鏖鬼を押さえ込んでいるのだ。
「蓮!」
名を叫び、僕は無我夢中で駆け寄ろうとする。しかし、
「来るなッ!!!!!」
瀕死の人間が発したとは思えない叫び声に、僕の足は止まる。止められる。
鬼気迫っていた蓮の表情が、別の色に変じていく。
――哀願するような、縋るような……悲しみに満ちた表情だった。
「頼む一月、先生……!」
彼の言葉が何を意味するのか、考えるまでもなかった。
蓮は、獄鏖鬼を消滅させることを望んでいた。利用されたといえど、自分もその一端を担ってしまったこの怪異を、終わらせたかったのだ。
身をもって、命をもって、蓮は償うつもりでいたのだ。そして、僕らを守ろうとしているのだ。
琴音が、僕のそばに現れる。
「いっちぃ……!」
彼女の瞳には涙が浮かんでいた。しかし、その面持ちは決意に満ちていて、覚悟を後押しさせてくれる。
黛先生も、いつの間にか二本の刀を手にしていた。
「一月君……!」
答えはもう、決していた。
「はい!」
僕が手にする天照に、青い光の玉に姿を変じさせた琴音が宿る。同じように、黛先生が両手に携えた刀に、薺と菘がそれぞれ身を光の玉に変じさせ、同化した。
青、緑、黄色……三色の光を纏う刀が、仄暗い神社を照らし出した。
僕と黛先生は、ほぼ同時に獄鏖鬼へと駆け出した。
《離せ、死にぞこないが!》
獄鏖鬼が、蓮を振りほどこうと身悶えしていた。しかし、蓮は決して離すことなどない。
身動きを封じられた獄鏖鬼、がら空きの腹部を、僕と黛先生はそれぞれの武器を用いて貫いた。三色の火花が、眩いほどに飛散する。
《がッ……ああああああッ!!!!!》
耳を塞ぎたくなるほどの断末魔を上げ、僕らの刀に刺し貫かれた場所を起点に獄鏖鬼が消滅していく。
殺戮の象徴と称された最強の鬼も、蓮という核を失ったうえに三本の霊具の攻撃を一度に受ければ、耐えられはしなかったようだ。
消えゆく獄鏖鬼を前に、僕は怪異の終結を実感し、一時の安堵を覚える。
しかし、すぐに現実へ引き戻された。
倒れ込もうとした蓮の体を、僕は慌てて抱き留めた。天照が石畳に落下し、甲高い金属音が響き渡った。
「ぐっ!」
蓮の重い体を支えるのは容易ではなく、僕も彼と一緒に石畳に倒れ込んだ。
脱力した蓮の頭を、僕は抱き起こす。
「蓮、蓮……!」
致命傷を負った状態で、武器もなしに獄鏖鬼を押さえつけるという驚くべき精神力を発揮した蓮。その命はもう、風前の灯に等しく見えた。
それでもまだ息はあった、僕の呼びかけに応じるように、蓮はぼんやりとした眼差しを向けてきた。




