其ノ五拾 ~鬼狩ノ夜 其ノ拾壱~
その声の主が誰なのか、考えるまでもなかった。
とてつもなく邪悪で悍ましい、聞くだけでも体が凍るような声。
獄鏖鬼の声だった。
《ここに来て、また迷うとは……洗脳が不完全だったということか。或いはまさか、俺を拒絶していたのか……?》
抜け出るように、蓮の体から赤黒い霧が離れていく。
それはどうやら痛みを伴うものであるらしく、蓮が苦悶の声を上げ続けていた。
「があっ、ぐっ、やめろ……もう……!」
胸を押さえつつ、蓮が膝をついた。
駆け寄りたかったが、赤黒い霧が……獄鏖鬼が近くで蠢いているせいで、近づくことはできない。
「蓮!」
僕らの呼びかけで、本来の人格を取り戻しつつあった蓮。蓮を完全に取り込もうとしていた獄鏖鬼にとっては、不本意な出来事だったのだろう。僕らへの敵意を喪失した蓮など、もう必要ないと判断したのかも知れなかった。
一時的に獄鏖鬼の意識と力を封じ込め、その間に蓮を説得して彼の心を呼び覚ます。それが僕らの策だった。それは成功し、蓮と獄鏖鬼を分離させることに成功した。
しかしそれは同時に、次なる問題の始まりでもあったのだ。
そう、蓮と分離した獄鏖鬼を倒すこと。それができなければ、獄鏖鬼はまた誰かに取り憑き、また凄惨な殺戮を引き起こすだろう。
ここで止められなければ、事件は終わらない。憎しみと血の連鎖は、断ち切れないのだ。
「そいつらを、一月と琴音を……もうこれ以上、傷つけるな……!」
さっき僕が渡した、クマのマスコットを片手に握りながら、蓮は苦悶に表情を歪めつつ言う。
痛みに苛まれる中でも、決して僕らとの思い出の品を手放しはしない。それが、彼が本来の自分を取り戻した証であると思えた。
絶対助ける……! 僕は天照を握る両手に力を込めた。
《心配するな。奴らを消した後で、今一度お前を憎しみに飲み込んでやる。そうすればもう、誰もお前の邪魔はできない……》
「そんなことは、させない!」
僕が叫んだ。
「蓮はお前の一部じゃない、ましてや所有物でもない。もうこれ以上、彼を苦しめるような真似はさせない……!」
僕の隣にいる琴音が頷き、僕と視線を合わせる。
彼女は「絶対に助けよう……!」と告げて、青い光の玉へとその身を変じさせ、天照と同化した。銀色だった天照の刃が、青い光を放ち始める。それは琴音の霊力が宿った証だった。
《蓮という核を失った今なら、獄鏖鬼は大幅に弱体化しているはず……! お願いいっちぃ、獄鏖鬼を倒して!》
これまでは、獄鏖鬼にはまるで歯が立たなかった。天庭は成す術なく折られ、千芹……つまり琴音の攻撃も一蹴するほどだった。しかしそれは、あの鬼が蓮の憎しみや怒りを取り込んで、最大級の、恐ろしいと称してもまだ生温いほどの強さを発揮していたからなのだ。
だが琴音が言った通り、今はもう蓮と獄鏖鬼の合意は崩れ、分離している状態にある。
今なら倒せる、いや、今ここで絶対に倒さなければならない。憎しみと血の連鎖を止めるのは、今しかない!
「返してもらうぞ、蓮を!」
もう、蓮に辛い思いをさせはしない。その決意も含めて、僕は叫んだ。
僕の前に、薺と菘が歩み出る。
「ここで終わらせましょう!」
「もう誰も、獄鏖鬼の犠牲にさせちゃいけない!」
薺も菘も、それぞれの霊具に光を宿し、戦闘の準備を済ませていた。
僕は、獄鏖鬼の後ろにいる蓮を瞥見した。彼は胸を押さえつつ、神社の石畳に座り込んでいた。苦しそうだが命に別状はないらしく、一先ずは安堵する。
赤黒い霧が、獄鏖鬼が人の姿を形作っていく。
しかし、核を失った影響なのだろう。その動きはどこかぎこちなく、まるで骨格を一切欠いた人間のようだった。
顔に当たる部分に光球状の二つの目が形成され、それが僕らを睨んでくる。
《邪魔者どもが……完全に葬ってやる!》
その言葉が、戦闘開始の合図となった。
僕達に向かって迫りくる獄鏖鬼、蓮と同化している時に比べれば遅く感じたが、それでも十分に速いと言えるスピードだった。
その腕が鋭利な刃の形状に変じ、僕らに向けて振り抜かれる。僕は身を低くしてそれをかわし、薺と菘は後方へと大きく飛び退いて、攻撃範囲から逃れた。
そこに建っていた灯篭が切り裂かれ、獄鏖鬼の攻撃の威力を見せつけられる。
獄鏖鬼の攻撃は、立て続けに放たれた。その手をかざしたかと思うと、そこから赤黒い霧が伸び――まるでロープのように、薺の小さな体を捕らえたのだ。
「ぐっ!」
退避が間に合わず、薺が捕まってしまった。
宙に浮いていた彼女の霊具、緑の光を纏っていた御手玉が石畳に落ち、たちまち光が消失する。
さらに、
「ぐ、あ……!」
菘もまた、その腹部を押さえながら膝をついてしまう。
何の攻撃も受けていない菘までもが、どうして――そう思った僕は、思い出した。
《薺と菘は、ふたりで一つの命を共有しているの。だから、どっちか片方が攻撃を受けたりしたら、その痛みはもうひとりにも……!》
薺と菘は、これまで僕が出会った精霊達とは違い、常に二人一組で行動する。
波状攻撃や挟み撃ちを仕掛けられる反面、痛みを共有してしまうという弱点も存在する。攻撃面では優秀だが、代償として防御力は低い――言わば、『諸刃の剣』なのだ。
獄鏖鬼はそれを知っていて薺を狙ったのか、そうではないのかは分からない。いずれにせよ、僕が取るべき行動は一つだった。
青い光を纏った天照を振りかざし、僕は薺を捕らえている霧へと走り寄る。
「おおおっ!」
この状況で、自由に行動できるのは僕だけ。ならば、僕が助けなくてはならない。
天照を振り上げ、僕は獄鏖鬼の放つ霧を断ち切った。薺が解放されたのを見たが、次に標的になったのは僕だった。
《こざかしい、小僧が!》
刃の形に変じさせられたその腕が、僕に向けて振り下ろされた。
それ自体をかわすことはできたが、飛び退いた際の勢いを留めることができず、僕は石畳に転げた。追撃がいつ来るかなど、分かったものではない、すぐに立ち上がろうとした。
しかし、
「ぐっ……!?」
足が動かなかった。
気づけば、僕の右脚にいくつもの瓦礫が積み重なり、枷のように身動きを封じていたのだ。
さっきの獄鏖鬼の攻撃で跳ね飛ばされた石畳の残骸が、僕の脚に積み重なったのだろう。痛みこそなかったが、残骸を振り払うことはできそうになかった。
《いっちぃ!》
天照に宿っている琴音が叫ぶ、それは危機を知らせる声だった。
その気配に視線を横に動かすと、獄鏖鬼が僕に迫ってきていた。急ぐでもなくゆっくりと、しかし確実に歩み寄ってくるその姿は、罠にかかった動物に止めを刺さんとするハンターのようだった。
「くそっ!」
このままではやられる……! 今一度僕は脚に力を込めたが、残骸は意思でも有しているかのように僕の脚を押さえつけていて、抗いがまるで通じなかった。
獄鏖鬼の刃が、僕の目の前に掲げられる。
薺も菘も、まださっきのダメージで立ち上がることすらできないようだった。
《さあ……どこを貫いて欲しい? 頭か? 首か? 心臓か?》
逃げることもできない、助けも期待できない……。
万事休す――その言葉が、僕の頭をよぎった。




