其ノ四拾九 ~鬼狩ノ夜 其ノ拾~
「琴音……お前なのか……!?」
琴音が目の前に現れたことと、彼女が既に命を失っていたという事実への驚きが、蓮の表情に現れていた。
いつしか、雨が小降りになっていた。永遠に止まないのではとすら感じられていた雨が、終わりを見せ始めていたのだ。
蓮の顔を見つめたまま、琴音は何も言わなかった。
――ただ彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝い落ちた。
「何……何、泣いてんだよ!」
蓮が叫んだ。
琴音は、何も言わない。
「何とか言ったらどうなんだよ、黙って泣きやがって……こんな風になった俺を笑ってみろよ、蔑んでみろよ!」
彼の言葉はもう、僕には助けを求める心の叫びそのものに聞こえた。いや、そうとしか聞こえなかった。きっと、琴音も同じだったに違いない。
ただ黙って涙を流し続ける琴音、彼女はゆっくりと、蓮に向かって歩み寄り始めた。
「来るなよ……!」
蓮がそう言っても、琴音は足を止めない。
「こっちに来るなよ、やめろ、やめろ……!」
蓮がそう言っても、やはり琴音は足を止めない。
潤んだ瞳で真っ直ぐに蓮を見つめながら、彼女は蓮に向かって近づいていく。
「やめろおおおおお―――――ッ!!!!!」
咆哮を上げた蓮の体を、琴音は何も言わずに、その細い腕で抱き締めた。
「何なんだよくそっ……放せよ、放せえっ!」
その手から刀を滑り落した蓮は、両手で乱暴に琴音を引き離そうとした。しかし、琴音は彼を抱き締めたまま、決して離さなかった。
根負けしたのか、蓮は琴音の肩を抱えたまま、がっくりと力を抜いた。
すると琴音が、涙声で語り始める。
「辛い気持ちを押し殺して笑うこと……とてもじゃないけど、簡単なんかじゃなかったよね」
彼女は続ける。
「愛情を注いでくれるはずの親からあんなことをされて、ずっと泣きたくて、苦しくて、切なくて……それでもいっちぃや私に心配を掛けたくなくて、痛みを無理やり隠して、笑顔を取り繕っていたんだよね。私達と一緒にいた間は、ずっと……!」
震えるような彼女の声に、蓮は何も言わなかった。もう、自身を抱き締める彼女を引き離そうともしなかった。
「もう壊れてしまいそうで、ギリギリのところで生きていたんだよね……辛かったよね、苦しかったよね、悲しかったよね……!」
琴音は、より一層強く蓮を抱き締めた。
「ごめんね蓮……私達が気づいてあげられていれば、きっと蓮は鬼になんか……こんなことになんか、ならなかったかも知れないのに……!」
蓮はただ、悲しさとも何とも分からない気持ちをその表情に浮かべ、その両手を体の脇に垂れ下がらせた。
それは、僕らへの憎しみに塗り固められた彼の心が解けた証のように思えた。
「何でお前ら、俺なんかのためにここまで……」
その言葉には、僕が答えた。
「そんなの決まってるだろ。友達だからさ、他に理由なんてあるもんか……!」
思い出した僕は、ポケットを探り、クマのマスコットを取り出した。
夏祭りの時に琴音から蓮に贈られた後で、離れてしまっても、自分がいつまでも近くにいると思って欲しい――そう願いを込めて、蓮自身から琴音へと返却された物だ。
このマスコットは僕達を繋ぐ絆そのもの、そして蓮を獄鏖鬼から救い出す鍵だった。
「蓮、これ……覚えているだろう?」
蓮は応じなかった。しかし答えは、その表情が明確に語っていた。
琴音が蓮から離れて、僕の手の平にあるマスコットを見る。続いて彼女は、僕と視線を重ねて言った。
「いっちぃ、それを蓮に渡してあげて……!」
僕は彼女に頷いた。蓮に歩み寄り、クマのマスコットを差し出した。
蓮は、すぐには受け取らなかった。受け取らなかったが、食い入るようにマスコットを見つめていた。自分にはもう、これを受け取る資格などない。そう感じているように僕には思えた。
だけど、蓮は受け取らなければならない。これに触れることで、昔の思い出を取り戻さなくてはならない。獄鏖鬼の呪縛から、解き放たれなければならないのだ。
僕は蓮の手を取って、クマのマスコットをその手に握らせた。
「っ……!」
蓮はマスコットを握ると、ただ俯いた。
その顔は見えなかったが、彼が発する嗚咽の声が、耳に届いてきた。
「蓮……」
獄鏖鬼から、彼を救い出すことができた――そう思った僕が呼び掛けた、次の瞬間だった。
「ぐっ!」
突然蓮が体を震わせて、苦悶の声を発したのだ。
石畳に膝を崩し、その胸に手を当てて、彼は言った。
「や、やめろ……! もう俺は、一月と琴音を……!」
一体何を言って……そう思った僕の前に、これまで離れた場所から僕らを見守っていたであろう、薺と菘が現れた。
「その人から離れて!」
「危ないよ!」
彼女達に促されるまま、僕と琴音は後退する。
蓮の全身から、赤黒い霧が漏れ出て、分離していく。あれは、あれは……!
苦しみに顔を歪めながら、蓮は言った。
「ぐっ、よせ……もうこれ以上、そのふたりを……!」
その言葉の相手は、僕でも琴音でも、薺でも菘でもなかった。
この四人と蓮以外で、今この神社にいる者……もう、考える必要もない。
《ふざけるな》
そいつが発する声が頭に浮かび、僕はただ天照を構えた。




