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鬼哭啾啾4 ~鬼が哭く~  作者: 灰色日記帳
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其ノ四 ~渦巻ク悪意~


「ぐっ!」


 突如、左側頭部に炸裂した痛みに、蓮は苦悶の声を発した。

 それと同時に襲った衝撃で、蓮の身が右方向へと揺さぶられる。その勢いで、手錠が手首に深く食い込むのが分かった。

 手錠? そう、蓮は今手錠によって鉄格子に後ろ手に拘束され、自由を奪われていた。彼が今いるのは、煙たく汚く、薄暗くてカビの臭いが充満した独房だった。

 先程までの出来事は、全て夢だったのだ。あの光と温かさに満たされた世界も、二人の友人の姿も、実際に起きたことではなかったのだ。

 もちろん、あの眼球を失った少女も、彼女に猛烈な殺意を浴びせられ、精神崩壊を起こしかけたことも、血の海に溺れそうになったことも、全ては夢の中の出来事だった。蓮は、悪夢から逃れられたのだ。

 しかし、安心などできなかった。夢の世界以上に、蓮は今自分がいる現実世界のほうがより忌まわしく、恐ろしいと感じられたからだ。

 それに、何よりも――。


「おら、何のんびり寝てやがんだ?」


 蓮の目の前に、二人の看守が立っていた。名前は知らなかったが、さっきの言葉を発したのは中年で体が大きくて体格の良い男だ。さっき蓮の側頭部を襲った痛みは、この看守によって殴りつけられたことによるものだった。

 痛みに耐え、喘ぐような呼吸をしながら、蓮は何も言わずにその看守を睨みつけた。

 

「てめえ、なんだその目つきは!」


 逆上した看守が、腰から警棒を抜いて振り出した。ジャキッという金属音とともに、その長さが伸長する。

 自衛用の装備として全看守が携行している、スチールタイプの三段階伸縮警棒、看守がそれを振り上げるのを見たと思った次の瞬間、蓮の左目のすぐ横が、勢いよく打たれた。


「がっ!」


 意識が飛びそうになるほどの痛みに、蓮は身を屈めた。警棒で打たれた部分の皮膚が切れ、鮮血が顔を伝い落ちるのが分かる。だが両手を拘束されているせいで、こめかみに手を当てることすらできない。

 蓮が痛みに悶えていると、突然髪が鷲掴みにされ、強引に上を向かされた。さっき警棒で蓮を殴りつけた、中年の看守の顔が間近にあった。

 

「おいクズ、よくも仲間達を何人も病院送りにしてくれたな。今からたっぷりと罰を与えてやるぞ」


 煙草臭い息を吐き出しながら、看守は告げた。

 髪から手が離されたと思った次の瞬間、蓮の腹部に蹴りが入る。


「ぐふっ!」


 痛みが背中まで突き抜け、押し上げられた胃液が蓮の口から溢れ出た。

 その蹴りだけでも戦意を失わせるには十分だったが、その一撃は始まりに過ぎなかった。続けざまに警棒で足や腕や肩が打たれる、続いて腹部に二度目の蹴りが入る。その後も拘束されて防御もできない蓮目掛けて、凄絶な暴力が振るわれ続けた。蓮には、声を上げる暇すら与えられなかった。


「おらっ、どうだクソ野朗、このゴミがっ!」


 唾液を飛散させつつ、看守は口汚く蓮を罵った。彼はとても暴力的で、容赦のない性格だった。仲間の報復というよりも、ただ鬱憤を晴らしているような、無抵抗の蓮を痛めつけることを楽しんでいるとすら思えた。

 暴行は一分ほど続き、一旦止まった。蓮の血で所々が赤く染まった警棒を片手に、看守は両肩を上下させ、呼吸を荒げていた。彼自身も疲れを感じているようだった。


「いいんですか大杉さん、そんなにやったらそいつ、本当に死んじまいますよ」


 そこにいた比較的若い看守が、蓮を痛めつけた中年の看守(大杉という名前のようだ)に言った。

 しかし、それは決して蓮の身を案じて出た言葉ではなかった。彼の口調は楽しげであったし、その表情には笑みすら浮かんでいた。大杉同様に、彼もまた情け容赦のない人間なのだ。

 大杉はその若い看守を向くと、


「はっ、いいじゃねえか。こいつが襲ってきたから正当防衛で殴ったら運悪く死んじまった、それで通るだろ。今までと同じようにな」


 その言葉から察するに、この大杉という男はこれまでにも同じようなことを繰り返してきたようだった。受刑者を殺害したこともあるのだろう。行き過ぎた看守は他にも大勢見かけていて気に留めたことはなかったが、大杉は段違いに暴力的で、冷酷無比な男なのだ。

 執拗に痛めつけられ、元々衰弱していた蓮は鉄格子に背中を預けたままがっくりと力を抜いた。声すらまともに出せなくなっていた。

 そんな蓮を虫けらを見るような目で見つめ、大杉は続けた。


「上の方もこいつには手を焼いていたんだ、拘束しただけで猿轡さるぐつわを噛ませていないのだって、頭がイカれた拍子に舌でも噛み切ってくれりゃいいと思ってたからなんだろ。だったら俺が始末したって何の問題もねえ、ただのゴミ掃除だろうが」


 自身の行動を正当化するための、無茶苦茶な理屈だった。看守というより、まるで犯罪者だ。


「病院送りにされた奴らの中には、俺の昔からの友人もいたんだ……こいつだけはこの手でぶっ殺してやらねえと、気がすまねえ!」


 怒りで真っ赤になった顔を震わせる大杉、その様子はまるで狂人だった。

 警棒を横に振り抜く形で、今度は右側頭部が打たれる。これで何発目なのかもすでに分からなくなり、蓮はただ痛みを味わうことしかできなかった。

 それでも、力を抜いているのが分かった。頭部を思い切り打てば即座に致命傷となるはずだが、そうしないのは蓮を極限まで苦しめるためだろう。捕らえた鼠をいびる猫のように、大杉は蓮を存分に痛めつけてから殺すつもりなのだ。

 

「けど、さすがに何度もやったら……」


 大杉の行動に難色を示すように、若い刑務官が言った。

 しかし大杉は聞き入れることはなく、反論する。


「はっ、別にいいじゃねえか。そもそもこいつはとんでもねえ罪を犯してここにぶち込まれた……それに知ってるだろ。もうこいつが死んだところで誰も悲しみやしねえんだ」


「っ……!」


 大杉の言葉に、蓮は黙り込んだまま目を見開いた。頬を流れ落ちた血液が、独房の床に落ちていくつもの血痕を作り出す。

 

「所詮、こいつは不要な存在なんだ。石の下で誰にも知られずにくたばっていく虫ケラと同じなんだよ!」


 死んでも誰も悲しまない、不要、虫ケラ……大杉の言葉が頭の中で反響する中、蓮はただ目を見開いて息を呑んだ。流れ出た血液が、また頬を伝っていくのが分かった。

 それまでは手を出さず、傍観するようにしていた若い看守が歩み寄り、蓮の腹部に靴の裏を押しつけた。


「まあ、確かにそうですよね。んじゃ続けましょうか? 『害虫駆除』を」


 若い看守の言葉を合図にしたかのように、彼らは笑い始めた。

 独房内に響き渡る嘲笑の渦、人間が発したものとは思えないほどに邪悪で、悪意に満ち満ちた笑い声だった。

 その時、水に落ちた一滴のインクが広がっていくかのように、蓮の中である感情が芽生えた。

 怒りであり、憎悪でもある感情。それは一瞬と呼べる時の内に蓮を支配し、蓮の心を塗り潰し、そして、蓮にその言葉を発せさせた。

 口内に充満した血の味を噛みしめながら、蓮は口を開いた。


「売って、や……る……」


 その言葉に、二人の看守は笑うのをやめた。

 蓮の腹部にグリグリと靴の裏を押しつけたまま、若い看守は言った。


「ああ、何か言ったか?」


 答えず、看守の顔を見ようともせず、蓮は視線を落としたままもう一度言った。


「売ってやる……」


 その言葉は、大杉に向けたものでも、若い看守に向けたものでもなかった。

 ポタリポタリと、血の雫が蓮の顔から滴り落ちる。

 

「俺の魂を、売ってやる……」


 歯を食いしばり、手錠で拘束されたまま、蓮は両方の拳をギリッと握りしめた。指の爪が、手の平の皮膚に深々と食い込んだ。

 血を飲み込み、全身を襲う痛みを押し殺しながら、蓮は静かながらも威圧感に満ちた言葉を発した。


「『奴ら』に、復讐する力を……俺によこせ……!」


 ――蓮の『言葉の相手』が、ようやく答えた。


《いいだろう》


 




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