其ノ四拾六 ~鬼狩ノ夜 其ノ七~
一時的とはいえ、獄鏖鬼の力を封じた。一見すれば、それは安心材料にも思えるかも知れない。だが、僕にとっては本当の戦いの始まりでもあった。
力を封じても、獄鏖鬼が消滅したわけではない。もちろん、蓮が僕達に抱く憎しみだって何も変わりはしない。限られた時間の中で蓮を説得し、彼と獄鏖鬼との合意を崩すこと――それが、僕の最重要事項だったのだ。
失敗すれば、もうチャンスはないと考えていいだろう。何故なら、さっき薺と菘がかけた獄鏖鬼の力を封じ込める術、あれが何度も通じるとは到底思えなかったからだ。この状況を作り出せただけでも恐らく奇跡に近かったはず、ここで蓮を救えなければ、もう後がない。
僕が天照を構えると、数メートル先にいる蓮も手にした刃を掲げた。
赤黒い霧で作り出された、邪悪で禍々しい刀――それは、蓮の怒りと憎しみそのものから形作られているようにも見えた。
「いい構えだな。ガキの頃から、さらに精進したってわけか」
僕を射抜く彼の目を見つめ、僕は応じる。
「蓮……!」
もうやめよう、そう続けようとしたが、言葉が止まってしまう。
彼にそんな気がないことは、もはや明らかだったからだ。
「だが、お前よりも俺の方が上だ。昔も、そして今もな」
唾を飲み込みつつ、僕は円を描くようにゆっくりと移動する。すると蓮もそれを追い、僕と向かい合う位置に移動した。常に、お互いが対峙する位置取りだった。
僕に刃を向けたまま、蓮は続ける。
「知ってんだろ、俺は親父と御袋……それに妹をぶっ殺してムショにぶち込まれた。それにこの数日間では、数え切れねえ人間をこの手で惨く殺してやった……今の俺には、人殺しなんざ息をするのと何も変わらねえ」
狂気に満ちた言葉を、何のためらいもなく口にする蓮。僕が知る昔の彼の面影は、微塵も感じられなかった。
本当に救い出せるのか? これは獄鏖鬼が言わせていることなのか、それとも蓮自身の本心なのか……考えている暇も、問い返す猶予も与えられはしなかった。
「それと最初にも言ったが、お前と仲良しこよしやってた蓮なんて奴は、もういねえ。俺は獄鏖鬼……頭のイカれた化け物だ!」
そう叫ぶと同時に、蓮は僕との間に開いた距離を一気に詰め、襲い掛かってきた。
振り下ろされた刃を天照で受け止める、全身の力が込められているのが感じられ、容赦の欠片もなかった。
さっきまでの言葉はもちろん、彼にこんな攻撃を繰り出されることが悲しい。
蓮の刃を押し返しながら、僕は思った。
こんな形で蓮と戦うことになるなんて……一体誰を恨めばいい? 蓮の両親か、蓮を救えなかった黛先生か、彼を鬼にさせるような運命を辿らせた神か。
あるいは……彼の苦悩に気づけなかった、僕自身か。
「……じゃない」
分からない。誰を恨めばいいかなど、僕には分からない。
だがそれでも、分かることがある。
「何?」
下げていた視線を上げて、僕は蓮と目を合わせた。
そして僕は、気持ちの全てを吐き出すように――彼に叫んだ。
「君は……化け物なんかじゃない!」
明確な苛立ちが、蓮の表情に浮かんだ。
「てめえに、何が分かるってんだ!」
再び襲い掛かってくる蓮、剣戟が再開される。
情け容赦のない攻撃が次々と繰り出され、防戦一方を余儀なくされた。僕への憎しみもあるのだろうが、稽古で培った蓮の技は健在だった。
ひとしきり刃を交えた後、一旦距離を取った蓮が言う。
「昔から、俺はお前が憎かった……いや、お前だけじゃねえ。琴音も、あの道場に通ってた他の奴らも、学校の同級生達も……俺と同い年で、俺と同じ人間なのに……何でこんなにも境遇が違うんだってな……!」
刃を下ろし、蓮は続けた。
「お前、父親から本気でぶん殴られたことがあるか? 床に叩き伏せられて、足蹴にされたことがあるか? 不要だのクズだのと、口汚く罵られたことがあるか?」
静かな口調で語る蓮。それが返って、悲惨さを引き立てているように聞こえた。
「見てみろよ、これ」
蓮が服の袖を捲り上げる。
その腕に刻まれた、無数の煙草の痕――僕は絶句した。
蓮が実の父親から、煙草の火を体に押し付けられるという虐待を受けていたことは知っていた。知っていたが、実際にその痕を見せられると、それは思っていたよりずっと痛々しく……彼が受けた苦しみを物語っていた。
自嘲するように、蓮は続けた。
「笑えんだろ、てめえの息子にこんな真似すんだぜ? 正しく『鬼』だよな」
その言葉に込み上がるものがあって、僕は言った。
「だからといって、君まで同じ道を辿る必要はない……蓮が鬼になる必要なんてないんだ」
「何だお前、まさか俺を助けようなんて考えてんじゃねえだろうな」
蓮が再び、その刃を僕に向ける。
「ガキだった頃、道場でお前や琴音の親を見かけるたびに思ったよ、何で俺の両親はあんな人達じゃなかったんだろうってな。俺が受けた仕打ち、あの痛みや苦しみはお前には分からねえ、分かる訳がねえ!」
彼の言う通りだった。
愛情を注いでくれるはずの親から、凄絶な暴行を受け続けた蓮。彼がどれだけ辛く、苦しい思いをしてきたのか……想像もつかない。
「俺はお前らが妬ましかったし、憎くもあったよ。助けようなんて情けをかけられる覚えはねえ、この手でまずはお前から殺してやる、その次は琴音だ……!」
天照に宿っている千芹が、息を飲んだのが分かった。
獄鏖鬼に意識を完全に奪われているかどうかは、分からない。だがひとつ言えることは、今の蓮にとって僕は憎しみの対象でしかないということだった。
境遇の違いで恨まれる、それは理不尽にも思えたが、そうでも思わなければ生きていられなかったのだろう。誰かのせいにしなければ、心の均衡を保つことすらできない……そんな凄絶極まる人生を、彼は過ごしてきたのだ。
終わらせなければならない。
闇の中から、彼を助け出さなくてはいけない。僕はそう思った。
青い光を宿す天照を見つめ、僕は告げた。
「千芹、ごめん……僕と彼、一対一で勝負をさせてくれないか」
《うん……》
何も問い返さず、千芹は力なく返事をした。
直後、天照に宿っていた青い光が消失し、代わりに千芹がその姿を現す。同化していた彼女が、分離したのだ。
天照の刃を掲げ、僕は向き直った。
この戦いは、絶対に負けられない――。




