其ノ四拾五 ~鬼狩ノ夜 其ノ六~
絶望的なまでの獄鏖鬼の力に、僕達はもはや真っ向から戦うことを放棄していた。
しかし、それと勝負を捨てたことはイコールではない。獄鏖鬼を倒すのではなく、蓮を救うことを最重要目標として定めただけの話だ。
今の獄鏖鬼は、蓮との合意によって彼と同調し、鬼として最大の力を発揮している。蓮を切り離せれば、彼を救えることに加えて獄鏖鬼を弱体化させられる。
一石二鳥、そう言えば聞こえはいいが、断じて簡単な話ではない。
《いつき、来る!》
千芹の警告の直後に、獄鏖鬼は襲い掛かってきた。
その攻撃を防ぐのは不可能ではなかったが、有効な攻撃方法がこちらには存在しない以上、いつかは倒されてしまう。疲れも慈悲もない相手に、無策な戦いを挑むのは自殺行為以外の何物でもない。
ならば、僕の取るべき手段はひとつだった。
天照で獄鏖鬼の攻撃を打ち返し、僕は後方へ飛び退いて距離を取った。獄鏖鬼の動きを注視しながら、千芹に問う。
「どうすればいい……?」
息を荒げつつ、僕は問うた。
今の時点で大分スタミナを消費しており、いつ集中力を切らしても不思議ではない。その時こそ、敗北の時だった。
《獄鏖鬼がさっきの攻撃を……鏖殲赩剿掌を使ってくるまで持ちこたえるしかない。そして、それを避けた直後がチャンスだよ》
同時にそれが何を意味しているのか、僕はすぐに理解した。
「つまり、あの攻撃をもう一度避けなければならない……そういうことか」
穿かれた石畳を蔑視しつつ、僕は応じた。
あれは獄鏖鬼がさっき刻み込んだ、あの攻撃――鏖殲赩剿掌の威力を存分に思い知らされる痕跡だった。あんな攻撃を喰らおうものならば、命はないどころか体が粉々に砕かれて、死体すら残らないだろう。
さっきは避けられたが、次もそうなるとは限らない。もし避けられなければ――その先はもう、考えないことにした。
できるかできないかではなく、やらなければならないのだ。
《いつき、ごめん。危険な目に遭うのが嫌なら……!》
「いや……やろう」
僕を案じての千芹の言葉、それをやんわりと押し留めるように、僕は言った。
危険なのは百も承知だ。もし失敗すれば、命を落とす結果は免れないだろう。だが、僕には迷っている余地はなかったのだ。
リスクを厭っていては、蓮を救えない。獄鏖鬼を止めることもできない。
「これ以外に手立てがないのなら……僕は逃げる気はない。命を賭してここに来た以上、危険は覚悟の上だから……!」
決意を新たにした僕の前に、薺と菘が歩み出た。
「力になります」
「きっと守ってみせるから!」
彼女達の助けが、とても頼もしかった。
その後、戦いがどれだけ続いたのかは分からない。
苛烈な攻撃を繰り出し続ける獄鏖鬼、それを迎え撃つ僕と千芹、それに薺と菘。四対一で戦ってようやく互角か、或いはそれでも押されている状況だった。もし黛先生が薺と菘を増援に寄越してくれていなくて、僕と千芹しかいなかったのなら……勝負にすらならなかっただろう。
そしてついに、その時が訪れた。
《消えろ!》
獄鏖鬼の両腕に、赤黒い稲妻が迸る――あれが来る!
絶望的なまでの破壊力を持つ必殺技が、鏖殲赩剿掌が繰り出されようとしている。それは僕にとっては危機的状況であったが、同時にチャンスでもあった。あの攻撃の後、獄鏖鬼は少しの間だけ動けなくなる。その隙を突いて、薺と菘が獄鏖鬼を封じ込める。それが僕らの策だった。
だが、それには大前提として、僕があの攻撃を避けなくてはならないというリスクがあった。失敗すれば、待ち受けているのは死だけだ。
《いつき!》
千芹が何を言いたいのかは、問い返すまでもなく理解できた。
「ああ、分かってる!」
意識を集中させ、獄鏖鬼の動きを注視する。
一度避けられている以上、再び同じ手を打ってくるかどうかは疑わしかった。もしかしたらフェイントで僕を惑わせ、確実に命中させることを狙ってくるかも知れなかったし、それ以外にも僕の想像しえない手段を用いてくるかも知れなかった。
だが、向こうの意識が長時間僕に釘付けになるのは、むしろ好都合だった。こうしている間に薺と菘が背後に回っているが、獄鏖鬼はそれに気づいていない。
僕が鏖殲赩剿掌を避けられるかどうか、全てはそれに集約されている。
いや、避けられるかどうかじゃない。避けなくては、次がないのだ。
獄鏖鬼がその腕を振り下ろすのを見たと思った瞬間、放たれた赤黒い稲妻が僕目掛けて迫ってきた。
フェイントも、他の小細工も交えずに放たれた、二度目の鏖殲赩剿掌――それでも、避けるのは容易ではなかった。範囲は広くスピードも速い、喰らえば死は免れない獄鏖鬼の必殺技。僕はただ、横へと飛び退くしかなかった。
避けることを最重要事項に定めていた僕は、とにかく自分の身を横へ動かそうと必死だった。攻撃範囲から逃れなくてはならなかったからだ。
解き放たれた力の奔流が、背中を掠めるのが分かった。
あの技を一度見ていなければ、もしくは反応するのがもう少し遅ければ、きっと避け切れなかったに違いない。
飛び退いた拍子に雨に濡れた石畳に倒れ込んだ直後、後ろから爆発音が轟いた。僕を捉えるはずだった稲妻が目標を失い、炸裂したのだろう。
体のどこかからも痛みがないことを確認して、あの攻撃を避けられたと確信した。
だがもちろん、喜んでいる場合ではない。重要なのは、ここからだ。
《二度も避けるとはな……》
そう呟く獄鏖鬼の背後から、薺と菘が飛び掛かる。
奇襲に気づいた獄鏖鬼が振り返った時には、彼女達はもう術を繰り出す準備を整えていた。薺の手の平は緑色の光を、菘の手の平は黄色の光を放っていた。
鏖殲赩剿掌を放った後、獄鏖鬼は少しの間だけ身動きができなくなる。彼女達は、そのチャンスを的確に捉えたのだ。
ふたりの精霊が繰り出した掌打が、獄鏖鬼の胸を直撃する。二色の光が炸裂したと思った次の瞬間、赤黒い霧が打ち払われたように消失していき、蓮の姿が現れた。
「何だ、力が……?」
薺と菘が、僕の近くに戻ってくる。
「成功です」
「獄鏖鬼の力を封じたよ、一時的だけど……!」
これで、形勢は有利になったかに思えた。しかし、蓮は焦るどころか笑みを浮かべた。
「なるほどな、これが狙いだったわけか」
彼が、僕に視線を移す。その時にはもう、彼の表情に笑みはなかった。
「けどまさか、これで勝った気になってんじゃねえだろうな?」
蓮の手に赤黒い霧が集まり、一振りの刀を形作っていく。獄鏖鬼の力を封じられた状態でも、そんなことができるようだった。
僕は唾を飲み、天照を構え直した。
「ちょうどいい、俺も久しぶりにお前とサシでやり合いたいと思ってた。この手で、お前を殺してやる」
ここからが、本当の戦いだ――。
降りしきる雨を全身に受けつつ、僕は思った。




