其ノ四拾壱 ~鬼狩ノ夜 其ノ弐~
思案する暇も与えることなく、獄鏖鬼は再び襲い掛かってきた。
数メートルほど開いていた距離が一瞬で詰められ、そのリーチに踏み入るや否や、刃のように鋭利な形状をした五本の指が突き出される。
「ぐっ!」
防御は間に合わないと即座に判断し、僕は回避を選択した。
身を勢いよく横へ動かす形で攻撃をかわす、数秒前まで立っていた場所を、鬼の刃が通過したのを見た。一瞬でも反応が遅れていれば、串刺しにされていたに違いない。
回避に成功しても、気を抜く猶予など与えられはしなかった。獄鏖鬼はすぐさま僕に向き直り、追撃を繰り出してきた。
「もうやめろ蓮! こんなこと……!」
天照で攻撃を弾きつつ、僕は呼び掛けた。だが、攻撃は止まない。止むどころか、むしろ激しさを増していく。
《言っただろ》
一瞬だけ、攻撃が止む。
逃げるなら今しかない。僕はその隙を見逃さずに、距離を取ろうと後方へ飛び退いた。
《俺は獄鏖鬼……蓮なんて奴はもういねえんだ!》
その言葉とほぼ同時に、獄鏖鬼はその拳を神社の石畳に打ちつけた。
鬼の力を伴った一撃は、轟音とともに石畳を粉々に砕き、その残骸が僕目掛けて飛んでくる。まるで散弾だった。
(っ、まさかこんな……!)
獄鏖鬼が繰り出したそれは、想定外の攻撃だった。
放射状に飛散する瓦礫の礫――逃げ切ることなどできなかった。咄嗟に僕は頭を庇い、致命傷を避ける体制を取る。一瞬の隙を見逃さずに後方へ飛び退いたことが功を奏し、それくらいの対抗策は打てた。
しかし、逆に言えば僕ができたのはただそれだけだった。
次の瞬間、大小十数個にも及ぶ石畳の残骸が、僕の背中や肩や腕を直撃した。
「があッ……!」
鋭い痛みが全身を走り抜ける。かなりの威力を伴って放たれた残骸の雨に体中が突き上げられ、呼吸が止まりそうになった。
喰らってしまった僕は、苦悶の声を発しつつ地面に転がることしかできなかった。だが辛うじて、天照は手放さずにいられた。
《いつき!》
千芹の声が聞こえたが、応じることはできなかった。
雨の中から、獄鏖鬼の姿が浮かび上がったのだ。急ぐわけでもなく、ゆっくりとしかし確実に距離を詰めてくる様子はまるで、獲物をじわじわと嬲って追い立てるハンターのようだった。
このままでは殺される、僕は立ち上がろうとした。しかしその矢先に全身に痛みが走り、水溜まりの中に倒れ込んだ。
「ぐっ!」
恐る恐る傷に手を触れてみると、真っ赤な血液が指を染めた。先程喰らわされた瓦礫の破片が、体に突き刺さったのかも知れない。
気配を感じて振り返った時、獄鏖鬼は既に側にまで迫り、円球のような二つの目で僕を見下ろしていた。
目の前に立つ、殺戮の象徴――その姿を瞳に写しつつ、僕はただ地に這いつくばるのみだった。
(強すぎる……!)
戦ってみて、獄鏖鬼の力を思い知らされた。天庭では歯が立たなくとも、強い霊力を宿す天照があれば立ち向かえるかも知れない。そう思った自分が馬鹿だったと思い知らされた。
断じて侮ってなどいなかったが、獄鏖鬼の強さは想像以上で、力の差があり過ぎたのだ。
《完全に……葬ってやる》
石畳を打ち砕く獄鏖鬼の一撃、喰らえば死は免れない。生き残れる可能性など、万に一つもありはしない。
逃げなければ……! しかし全身を走る痛みで、僕は身動きもできなかった。
万事休す、その言葉が頭に浮かび、目を閉じようとした時だった。
突如、どこかからか緑色と黄色の光の玉が飛んできて――獄鏖鬼に直撃したのだ。
二色の閃光が炸裂し、仄暗い神社を一瞬だけ淡く照らし出す。同時に獄鏖鬼が大きく跳ね飛ばされ、後方に立っていた大木に激突した。
(今のは……!)
地面に伏したまま、僕は光の玉が飛んできた方向へと視線を向けた。その先には、それぞれ緑色と黄色の着物に身を包んだ二人の少女が立っていた。
薺と菘、二人一組で行動する精霊、黛先生が獄鏖鬼を倒すための増援として寄越してくれた、心強い味方だった。
「ごめんなさい、加勢に来るのが少し遅れました」
そう言ったのは薺、緑色の着物を着た方の子で、三つの御手玉を霊具として用いる子だ。
続いて、
「力を溜めるのに、ちょっと時間が必要だったの!」
黄色い和服を着た子が、そう言う。
彼女が菘、一つの毬を霊具として用いる精霊の子で、薺の妹だ。
鏡に映したように容姿がそっくりで、背格好もほぼ変わらない彼女達。しかしその性格は正しく対照的で、落ち着きがあって礼儀正しい薺に対し、菘はどことなくやんちゃで、幼い女の子という感じだ。
薺と菘が、空に絵を描くように人差し指を動かす。するとその動きに連動するように、緑色の光を纏った三つの御手玉と、黄色い光を纏った毬が彼女達の手元に戻ってきた。さっき獄鏖鬼を叩き飛ばした攻撃は、彼女達が放ったものだったのだ。
天照に纏っていた青い光が増幅し、その中から千芹が現れ、僕に駆け寄る。
「いつき、大丈夫……!?」
この期を逃すまいと、助けに来てくれたのだ。
恐る恐る、僕は身を起こした。しかしその瞬間、背中や腕や肩に、鋭い痛みが走り抜けた。
「ぐっ!」
思わず体を強張らせる。
間一髪で致命傷は免れたものの、瓦礫を叩き飛ばす攻撃を受けたダメージは軽くなかった。
千芹は獄鏖鬼に視線を向ける。薺と菘の攻撃がいくらか効いたらしく、すぐに襲い掛かってくる様子がないことを確認したように見えた。
薺と菘が、同時に振り向いた。
「今のうちに、その人を助けてあげて」
「やるなら今だよ!」
彼女達に促され、千芹は頷いた。
「いつき、今傷の手当てをするから、ちょっとじっとしてて」
僕の返事を待たず、彼女は白い和服の袂から竹筒を取り出した。何をする気なのかは、訊くまでもなかった。
ただ痛みに耐えつつ、僕は応じる。
「頼む……!」
千芹が僕の後ろに回ったと思うと、背中にひやりとした感触が広がる。降りしきる雨を受けながらでも、それは明瞭に感じ取れた。
見なくても、彼女が何をしているのかは分かる。竹筒の中身……霊水から作られた茶を、僕の背中や肩、それに腕……とにかく傷ができた部位に満遍なく振りかけているのだ。
効果は劇的で、みるみるうちに痛みが引いていった。
「まだ痛む?」
「いや、大丈夫……ありがとう」
もう、体は痛まなかった。
天照を拾い上げて立ち上がると、僕は獄鏖鬼に向き直った。
「いつき……」
千芹が、心配そうな眼差しを向けてくる。彼女が何を言いたいのかは、すぐに分かった。
「分かってる、ただ戦うだけじゃ到底勝ち目はない……それでも、諦めはしない」
獄鏖鬼はすでに体制を立て直し、今にも襲い掛からんとしている。
天照を握る手に力を込め、僕は自分自身に言い聞かせるように言った。
「勝たなければ、蓮は救えない。絶対に負けられないんだ……!」




