其ノ四拾 ~鬼狩ノ夜 其ノ壱~
できることなら、こんな戦いは避けたかった。
こんな形で蓮と対峙するなんて、僕は望んでいなかった。
だがもう始まってしまった、こうなる前に彼を止めるのが最善策だったが、それは叶わなかった。
しかし、悔やんでいる余裕などない。一瞬たりとも気を抜けば、隙を見せれば殺される。降りしきる雨を全身に受けながら自身に言い聞かせ、僕は天照を構えた。
既に琴音が……いや、千芹が同化し、その霊力を与えられている天照の刃は、青い光を帯びていた。
鬼を倒す準備は整った、だが勝てるとは言い切れない。むしろ、負ける可能性の方が高いとすら思える。相手はこれまで戦ってきたどの鬼よりも強力な、殺戮の象徴――獄鏖鬼だ。
先の一手を仕掛けてきたのは、向こうだった。
《来る!》
天照に身を宿した千芹の声が聞こえる。
獄鏖鬼が迫ってきたのは、それと同時のことだった。僕を捕えようと、その手が伸ばされる。
反射的に身を屈めてそれをかわした、しかし即座に次が来る。それに気づいた僕はいち早く後方へ飛び退き、獄鏖鬼の腕のリーチから逃れた。
怖い……!
今一度間近で獄鏖鬼と対面して、僕は恐怖心を隠せなかった。
赤黒い霧に覆い包まれたその姿に、円球状の二つの目。そして何よりも、視界に入る全ての人間を引き裂かんばかりのその殺気……まさに鏖殺の鬼だ。
どうやって勝てばいい? いや、勝てるのか?
そもそも獄鏖鬼と戦うということは、蓮と戦うということ。それは承知していたのだが、いざ本番になると迷いを抱いてしまう。かつての友達に、本物の刀を振るうなんて……。
振りかざされた腕を天照で食い止めると、獄鏖鬼が言った。
《駄目だな、全然駄目だ……まるで手ごたえがない》
押し返すように、僕は前方へ天照を押し出した。
後方へ飛び退いた獄鏖鬼が、
《こんな程度か? どうせ死ぬなら、少しくらい俺を楽しませろ》
息を飲んだ。
あれが蓮の本心ではなく、獄鏖鬼が言わせている言葉だと信じたかった。
《いつき、もし負けたら……お友達は獄鏖鬼に吸収されちゃうんだよ!》
僕の気の迷いを見抜いたのだろう。彼女の言葉で、僕は目が覚めるような心地がした。
「っ!」
迫りくる獄鏖鬼の手を、今度は僕は逃げずに受けた。
強い霊力を備えた霊刀である天照は、天庭と違って折れなかった。折れるどころか、刃こぼれすらしなかった。
押し返しながら、僕は自分に言い聞かせる。そうだ、今目の前にいるのは蓮ではなく、獄鏖鬼……彼の意識を奪おうとしている恐ろしい鬼だ。戦いをためらっていたら、蓮は救えない。そればかりか、ここで食い止められなければ、これからも多くの人が犠牲になるに違いない……血塗られたこの怪異に終止符を打つのは、今しかない!
獄鏖鬼の手は、赤黒い霧が五本の指全てを鋭利な形状に変じさせている。一度でも喰らえば致命傷は免れないだろう。
負念の集合体である鬼、その中でも抜きん出た危険性と戦闘能力を持つ最強の鬼――それが、獄鏖鬼。その姿も威圧感も、まるで『破滅』そのものだ。
こんな化け物に勝てるのか? 分からない。
だが、勝たねばならない。勝たなければ、蓮は救えない……今の僕には、それだけで十分だった。
「おおおっ!」
獄鏖鬼の攻撃を捌き、反撃を繰り出す。
その中で、僕は獄鏖鬼を観察し、勝利するための策を巡らせる。
単純な破壊力を見れば、獄鏖鬼は僕がこれまで目にしてきたどの鬼よりも強力だ。事実、天庭では手も足も出ず、折られてしまった。最強の戦闘能力を有する鬼であるということに、もう疑いの余地はない。
だが、攻撃の際には少なからず予備動作がある。それに、攻撃後には隙も生まれる……そこを突けば反撃も可能だと結論付けた。
もちろんのこと、そう思うのは剣道で培った技、それに動体視力があってこそだ。常人であれば、とっくに八つ裂きにされているに違いない。いや、そもそも戦う以前に、その威圧感に飲み込まれて身動きすらできなくなるだろう。
一瞬の隙を見逃さず、僕は突きを放った。その一撃は獄鏖鬼の腕をかすめ、青い火花が飛散する。それは攻撃が命中した証だった。
獄鏖鬼が後方へ飛び退く、僕に付けられた傷を見つめたかと思うと、すぐに向き直った。
《衰えていなかったようだな》
僕はただ、天照を構えてその動きを注視し続けていた。
《昔からお前の強さには、俺も一目置いていた。入門した時期は俺達の中で一番遅かったが、それでも俺や琴音に追いつくばかりか、互角以上に渡り合ったことすらあったな……何にせよ、お前は非凡な才能の持ち主だった。鍛錬を怠らずに続けていたことは、太刀筋を見れば分かる》
察するに、獄鏖鬼は蓮の記憶を受け継いでいるようだった。
それが蓮の本意なのか、不本意なのかは分からない。だが鬼なんかに僕らとの思い出を浸食されていると思えて、気持ちのいいものではなかった。
《だが、力不足だ。お前がどんな武器を用意しようが、どんな小細工をしようが……今の俺を止められはしないだろう》
ほんのさっき付けた腕の傷が、みるみるうちに塞がっていき、やがて跡形もなくなった。
攻撃力だけでなく、防御力も跳び抜けているのだ。ただ天照で斬る程度では、手傷にすらならないらしい。
《いや、仮に俺が獄鏖鬼の力を手に入れていなくとも、お前には俺と渡り合うなど不可能だ》
僕はただ、天照を構え直した。
降りしきる雨音の中、獄鏖鬼の言葉は続けられる。
《俺とお前の力の差の理由、俺にはあって、お前にはないもの……それが何だか分かるか? 一月》
獄鏖鬼の顔の部分の霧が半分だけ晴れ、蓮の顔が覗く。
視線の先の者を恐怖に閉ざすような、鋭く冷たい眼差し。ともに身動きもできなくなるような威圧感が向けられ、僕は思わず唾を飲み込んだ。
《それは……『憎悪』だ》




