其ノ参拾八 ~煮エ滾ル憎悪~
《何故、奴らを殺さなかった?》
街から外れた場所にある廃工場、人気のないその場所で、蓮は鉄骨に背中を預けて座り込んでいた。
殺そうとした相手が金雀枝一月だと知った時、蓮は反射的にそれを中断した。どうして? 理由は明白だった。一月はかつての友であり、無二の親友だった。彼を殺してはならないと思ったからだ。
襲い掛かったあの時、もしも一月のポケットからクマのマスコットが落ちなければ、もしくは落ちたマスコットが視界に入らなければ……標的としている人間が一月だと気付くことすらなく、これまでと同じように殺していたに違いなかった。
獄鏖鬼の殺戮衝動に自分が浸食されつつあると自覚していたし、それに身を委ねつつあった。だが、友を殺してはならないという思考をするだけの理性は、まだ蓮には残されていたのだ。
「一月は友達だ……!」
廃工場のどこかからか漂ってくる、機械の油のようなにおいを鼻腔に感じつつ言う。
こんな場所でも、雨をしのぐには十分だった。
《友達? あいつがか?》
姿の見えない相手は、獄鏖鬼は問うてくる。
蓮は何も言わなかった。ここに来るまでに雨に打たれ、彼の衣服はびしょ濡れになっていた。
《そうか、ならば……あいつはお前が最も殺すべき相手じゃないか》
蓮は身を震わせた。獄鏖鬼の言葉が、悪魔の囁きのように聞こえたのだ。
「何……!?」
すぐ近くにあった、割れた窓ガラスが視界に入った。そこに視線を向けると、蓮ではなく獄鏖鬼の顔が映し出された。蓮の『本当の姿』が投影されている――水溜まりの時と同じだった。
《今まで言ってきただろう、この世には不公平が溢れている……お前が送ってきた人生は、まるで不幸を全て寄せ集めたかのような有様だった。父親に虐待され、母親に見捨てられ、妹も殺され、少年刑務所では頭のイカれた看守共に散々な目に遭わされて……》
蓮は何も言わなかった。
言わなかったが、身を裂くような怒りが身内に込み上がるのを感じていた。獄鏖鬼の言葉に、まるで雨粒が窓に当たるがごとく、自分を苦しめてきた者達の顔が次々と浮かび上がったのだ。
自分を虐待し、大切な妹を殺した父親。子供に暴力を振るう夫を看過し、何の助け舟も出さなかった母親。少年刑務所で、受刑者を人間扱いせず行き過ぎた暴力を振るう看守達。
その全てが今となっては命を失った。だが、蓮の憎悪は消えていなかった。消そうとしたが、消せなかった。
《だが、全ては奴ら……お前が『友』と呼ぶ連中が幸福を独占していたからだ。そうだろう?》
獄鏖鬼の言葉に、抗おうとした。
一月や琴音を復讐の対象とはしたくなかった。
だが、透明な水の中に黒いインクを垂らしたように、蓮の理性は獄鏖鬼に染め上げられていく。
かつて同じ師に師事し、同門として稽古に励んだ一月と琴音。彼らは大事な友達と思っていた。あのふたりだけは殺すまいと思っていた。だが、獄鏖鬼との融合が進むにつれ、一月と琴音も『復讐の対象』へと変じていた。今の獄鏖鬼の言葉で、それが決定的なものに変じた。
「ああ、そうだな……」
一月と琴音の顔を思い出すことはできた。
けれど、もう彼らとの思い出は蓮の頭にはなかった。一月と琴音は、すでに蓮にとっては最優先で消すべき存在、憎悪の矛先へと変じていた。
寄りかかっていた鉄骨から背中を離し、蓮は立ち上がった。
「あいつらは、どこにいる?」
廃工場内に放置されたコンテナやドラム缶、それにもう動かないであろうフォークリフトに視線を泳がせつつ、蓮は問うた。
《探すのは簡単だ》
獄鏖鬼の声は、雨音の中でも鮮明に蓮の頭に届いた。
《今、この街からは出ているようだ。俺達と戦う準備をしているんだろう》
「準備……?」
以前対峙した時、蓮は獄鏖鬼となって一月が振るっていた刀を折った。その代わりを探しに行ったのだろう、と蓮は推測した。いくら何でも、素手でかかってくるような真似はしないに違いない。
だが、どんな武器や策を用意してこようが、負けるなどとは微塵も思わなかった。
人を殺すことなど、もう何とも思わない。獄鏖鬼の力を得た今では、自分を止められる者などいないと蓮は思っていた。血と狂気と悪意に身を埋めながら生きてきた自分が、平々凡々と生きてきた奴に負けるわけがないと考えたのだ。
一月と琴音の命を自分の手で刈り取ること、それが理不尽な人生を背負わされたことに対する、最大の復讐だと結論付けた。
憎悪こそ、何にも勝る力。それが今の蓮の思考回路そのものだった。
《奴らは今……鵲村にいるようだ》
不意に出た自身の故郷の名前に、蓮は息を飲んだ。
「鵲村だと……?」
獄鏖鬼は提案してくる。
《丁度いい……『あの場所』でケリを付けたらどうだ。おびき出せば、奴らは必ず現れるぞ》
「あの場所……?」
怪訝な声を発した蓮は少し考えて、獄鏖鬼の言葉の意味を理解した。
「なるほど、『あそこ』か……いい考えだな」
一月と琴音の処刑場となる場所を思い浮かべ、不気味に笑みを浮かべた。
蓮の身体を、赤黒い霧が覆い包んでいく。足、胴体、腕、顔――やがて蓮は獄鏖鬼へと変じた。
次の瞬間、湧き上がる殺意の捌け口に、目に付く物を手当たり次第に破壊した。
コンテナを叩き潰し、ドラム缶を軽々と持ち上げるとそれを鉄骨に向けて投げつけ、金属製のフォークリフトを紙のように引き裂いた。
ひとしきり暴れた後で、
「ぶっ殺してやる」
《ぶっ殺してやる》
蓮と獄鏖鬼の声が重なった。
そして、殺戮の象徴と称される最強の鬼は、自身の身長の何倍もの高さにまで跳躍し、降りしきる雨の中にその姿を消した。




