其ノ参拾七 ~帰属~
「……ちい、いっちぃ……!」
おぼろげな意識の中で、一月は自分を呼ぶ少女の声を聞き取った。
それと同時に、体が揺すられるのが分かる。ゆっくりと目を開けると、心配そうに自分を見つめる少女の顔がそこにあった。
声の主は、琴音だった。
「っ!」
鬼と化した琴音との戦いを思い出し、思わず跳ね起きるように身を起こした。
しかし、一月の顔を見つめていたのは普通の琴音だった。彼女の瞳は濁っておらず、その身も黒霧に覆い包まれていない。、白いワンピースに綺麗な黒髪が映え、どことなく儚げながらも美しい一月の想い人である少女がそこにいた。
彼女の瞳が、涙に潤んでいるのが分かった。
「どうしたのいっちぃ、大丈夫……?」
琴音の表情からは、心配と困惑の気持ちが読み取れた。
一体どうなっているのか――状況が飲み込めない一月は、とりあえず返事をしようとした。
しかし声を出すことはできなかった。意識が鮮明になったと思ったその瞬間、首に猛烈な圧迫感を覚えたのだ。
「うっ、ごほっ、げほっ……!」
息ができなくなるほどの苦しさに、一月は激しく咳き込んだ。
「いっちぃ!」
琴音が背中をさすってくれるのが分かる。
気道もろとも首が絞め上げられるようで、まともに呼吸ができなかった。涙が浮かぶほどに咳き込み続けたが、次第に楽になり、やがて一月は落ち着きを取り戻した。
ゆっくりと呼吸を整えつつ、琴音に問いかける。
「琴音、一体何が……?」
彼女は一月の背中をさすり続けながら、応じた。
「覚えていないの?」
一月を見つめつつ、琴音は続けた。
「あの仏間を見た瞬間……いっちぃ、自分で自分の首を絞めたんだよ」
告げられた事実に、一月は息を飲む。もちろん、彼にはそんなことをした記憶などなかった。
半信半疑のまま首に触れてみると、熱を帯びていて、そして指が食い込んだような形に腫れているのが分かった。それこそが、琴音の話が本当であることの証明だった。
どうして……そう思った時、琴音がまた口を開いた。
「叫び声をあげながら、もの凄い力で両手で自分の首を……慌てて私、止めようとしたの。でも呼び掛けても全然聞こえていないようで、どんどん力が強くなっていって……最後にはいっちぃ、気を失って倒れちゃったんだよ」
「そんな、まさか……!」
一月は信じられなかったが、首を絞めた痕が残っている以上、琴音の話に疑いの余地はなかった。
冷静に思い返してみれば、仏間を覗いた瞬間からの記憶が途切れていた。ただ意識を失っただけと思っていたが、あの時一月は正気を失ったのだ。
思えば、あの仏間は五年前の怪異にて、一月が凄惨極まる殺し方をされた女子生徒達の遺体を目撃した場所であり、鬼と化した琴音に襲い掛かられた場所でもあり、そして彼女と死闘を繰り広げた場所でもあるのだ。この廃屋の中で、最もあの怪異に縁が深い場所――そこを目の当たりにしたせいで五年前の記憶が一気に呼び起こされ、精神錯乱に陥ってしまったのかも知れなかった。
五年が経過しているとはいえ、あの怪異は未だ一月の頭に深く刻み込まれていたのだ。
「でも良かった、意識が戻って……縁起でもないけど、本当に死んじゃうかと思った……!」
震えた声で、琴音が言った。
彼女の潤んだ瞳に見つめられると、一月はもう何も言えず、視線を合わせることもできなかった。
「ごめん……」
琴音がいなければ、一月は自分自身を絞め殺していたに違いない。
彼女が、その細い腕で首を絞める一月を押し止めてくれたのだ、一月と比べれば力の差は歴然であったはずなのに、懸命に、そして必死に救ってくれた……それを理解すると、一月は謝ることしかできなかった。
五年前と同じように、また一月は彼女に命を救われたのだ。これで何度目か、もう思い出せない。
「私は大丈夫、もういいの……それよりも、いっちぃは大丈夫? 体、何ともない?」
首にズキズキと痛みが走り、息苦しさもまだ消えていなかった。さらに体が少し重く感じていたが、これ以上琴音に迷惑はかけられなかった。
廃屋の壁に身を預けつつ、一月は立ち上がった。
「平気さ、心配はいらない……」
クマのマスコットを手に入れるという目的は達したし、とりあえずここから出るべきかと一月は考えた。
また何かの拍子に錯乱して、琴音に迷惑をかけてはならない。それに、この廃屋の不気味な空気に当たっていては、どうかしてしまいそうだと思ったのだ。
この廃屋から出よう、琴音にそう提案しようとしたところで、一月はある物に視線を止めた。
琴音がその片手に持っている、天照だ。
「ん……?」
世莉樺から借り受けたそれは、獄鏖鬼に立ち向かう鍵となる武器だ。しかし現時点では抜くことができず、一月には扱えない。ふと視界に入ったそれに、一月はこれまでとは違う何かを感じた。
廃屋から出ようと考えていたことも忘れて、一月は天照を見つめた。
「天照、どうかしたの?」
一月が天照に視線を釘付けにしていることに気付き、琴音が先んじて問うてくる。
答えずに、一月はただその霊具をじっと見つめた。
――呼んでいるように感じた。もちろん天照が声を発したわけではないが、一月にはそう感じられたのだ。
「琴音ごめん。天照、ちょっと貸してもらってもいい?」
「え、うん……」
怪訝な声を発しつつ、天照を差し出してくる琴音。持っている物を人に見せないようにする精霊の能力を、彼女は生前の姿の時でも使えた。刀を持ち歩いているのを人に見られれば騒ぎとなるため、琴音がここまで持ってきていたのだ。
廃屋の中であれば、人に見られる心配はない。一月は天照を受け取ると、その鞘をじっと見つめた。得体の知れない冷たさが、手の平を通じて伝わってきた。
左手で鞘を保持したまま、一月は右手で柄を掴んだ。
「えっ、いっちぃ……!?」
天照は今、いっちぃには抜けないはずでしょう。琴音はそう言いたげだった。
その通りだった。天照は使い手の想いを見透かす霊刀、確固たる想いなくしては振るうことはおろか、刃を鞘から覗かせることすらできない。
しかし、一月には何故か抜くことができる気がした。
さっき感じた天照に呼ばれるような感覚、あれは単なる気のせいではないと確信していたのだ。
「はー……」
静けさに包まれた廃屋内に、一月の深呼吸が反響する。
そして一月は、天照を鞘から抜こうとした。以前抜こうとした時は、まるで天照自体が意思をもって拒んでいるかのようにびくともしなかった。
しかし、今回はそうではなかった。
「えっ……!」
隣で見守っていた琴音が、驚きの声を発した。
無理もない。一月の手によって、天照がその銀色の刃を見せた――抜けたのだ。
世莉樺が所有し、鬼の怪異を終結するために使った霊刀。その刃には少しの汚れも、一片の錆も付いていなかった。研磨されて間もないかのように眩い銀色の刃は、鏡のごとく一月の顔を映し出していた。
琴音が、目を見開く。
「どうして……!」
驚いたのは一月も同様だった。どうして抜けたのか、天照の刃に映った自身の顔を見ながら思案する。
そして、あることに思い至った。
ついさっき体験した、一月にとって最も忌まわしい過去の再臨、鬼と化した琴音との戦い――ただの夢と片付けるには、あまりにも大きすぎる出来事だったのだ。
(もしかして……天照が僕に課した試練?)
もちろん証拠などなかった。しかし、そう考えると合点がいく気がしたのだ。
夢というより、限りなく実体験に近しいあの戦いと、一月には抜けなかった天照が抜けるようになったこと。これらが無関係であるとはどうしても思えなかった。
鬼と化した琴音と戦う中で、一月は蓮を救いたいという想いをより確固たるものとした。鬼に取り込まれようとしてる親友を助け出したい、それは琴音を死なせた自分にできる贖罪であり、そして義務であると強く思った。
天照はその気持ちを酌み、一月を自らの使い手として認め、彼に帰属したのかも知れなかった。
「琴音……」
未だに驚きを浮かべている琴音を、一月は呼んだ。
決意に満ちた表情を映す天照の刃、それを一旦鞘に収めて、一月は続けた。
「蓮を助ける、絶対に……だから力を貸して欲しい」
一月は、ポケットからクマのマスコットを取り出した。琴音の部屋で手に入れた、一度は蓮の手に渡った品だ。
琴音は天照が抜けた理由を一月に問いただそうとはせず、頷いてくれた。
「もちろんだよ」




