其ノ参拾六 ~決着~
鬼と化した琴音との戦い、それは一月にとって過去そのものとの戦いに他ならなかった。
彼女から放たれる憎しみの言葉の数々は、一月の罪悪感を煽り立てて彼の傷を抉った。
何も感じないはずはなかった。しかし決して刀を捨てようとはせず、一月は戦い続けた。技のみを見れば互角か、それ以上に鬼と化した琴音と渡り合っていた。
蓮を助けるためにも、ここで負けるわけにはいかなかった。それに一月はもう、琴音の真意を知っている。目の前にいる鬼が叩きつけてくる自分への憎悪、それが彼女の本心ではないと理解しているのだ。
心の痛みを感じつつも、それでも決して折れはしなかった。
《ぐっ、何故……どうしてここまで……!》
戦闘の最中、鬼と化した琴音が忌々し気に呟いた。
打ち合いが長引いているにも関わらず、一月の動きが悪くならないのが予想外だったか、あるいは再三に渡って一月の心を攻撃しているにも関わらず、彼が折れないことにしびれを切らしたのだろう。
ただ無意味に五年の時を過ごしてきたわけではなく、一月は稽古を続けてきた。心身ともに鍛えられた彼の実力は、以前よりも飛躍的に向上していたのだ。
「言っただろ、助けなければならない友達がいる……ここでは負けられないんだよ」
鬼と化した琴音は、視線を下げて何かを呟き始めた。
自分の言葉が聞こえているのか、そうではないのか。一月には分からなかった。
《絶対に、絶対に……殺してやる!》
幾度も聞かされたが、慣れを感じる気がしない殺意の言葉。
これまで以上の強さを帯びて発せられると同時に、それが起きた。
彼女が得物とする刀に纏う赤い光がより明るく、そして禍々しく増大したのだ。まるで燃え盛る炎のようにも見え、幾人もの悲鳴のような音が鼓膜を揺らすのを一月は感じ取った。
その光景に、鬼と化した琴音の意図を理解する。
(鬼の力を結集させて……!)
薄暗い仏間を隅々まで照らさんばかりに増幅する赤い光、眩しくて目を背けたくなったが、一月は前方を注視し続けた。
鬼と化した琴音は、攻撃の切り札……言うなれば必殺技を繰り出すつもりだ。次の一撃で、勝負を決するつもりなのだ。僅かたりとも隙を見せようものなら、その次の瞬間には殺される。
蓮を救うためにも、そして一月自身の罪の清算のためにも負けられないこの戦い――たとえ一瞬たりとも目を外せば、それは敗北に、ひいては死に繋がるのだ。
次で勝負を決する。彼女同様に、一月もその決意を固めた。
仏間の床を蹴り、距離を詰めたのはほぼ同時のことだった。互いの武器のリーチにまで踏み入り、相手に向けてそれぞれの刀を振るったのも同じく、ものの数秒の誤差もない出来事だった。
一月は冷静に、鬼と化した琴音が斬りかかってくる方向を把握する。先んじて仕掛けてくる方向を読み取って攻撃をいなし、その隙を突くつもりだった。
(左から来る……!)
攻撃の方向を読み取った一月は、左からの攻撃に備えようとする――その時だった。
自身に向けて斬りかからんとする彼女の動きに、一月は決定的な違和感を抱いた。
(いや、これは……?)
その違和感の正体が何なのか、一月はすぐに理解した。
(フェイント攻撃!)
それは琴音が得意としていた、言うなれば彼女の切り札である攻撃法だった。
相手に攻撃の手順を誤認させ、その隙を突く戦術。中学の頃の剣道の大会(公式ではなく道場が独自に主催して行われた。男女混合であったが、体力差を配慮してハンデは設けられていた)の際に一月が彼女と打ち合い、そして敗北する原因となった技だった。
中学生だった頃の一月には、それを見破ることができなかった。しかし今の一月には、その僅かな動きの違和感を見逃さず、フェイント攻撃を見抜くだけの技量が備わっていたのだ。
確信を得た一月は、即座に防御する方向を逆に変じさせた。
彼が思った通り、誰もが左から来ると錯覚するであろう一撃は、右から繰り出された。しかし看破した一月には、何の意味もない。
一月の刀が、鬼と化した琴音のそれを難なく受け止める。
《なっ……!?》
彼女が発した驚きの声が、一月の耳に届いた。
あの大会の時と同じように、フェイント攻撃を繰り出せば一月を惑わさせ、倒せると思い込んでいたのかも知れない。五年前の手が今でも通用すると思っていたか、それとも一月の成長を見抜けなかったのかは分からなかった。
しかしいずれにせよ、彼女が繰り出したフェイント攻撃こそが、逆に一月には突破口となった。もし彼女がこれを行わなければ、このチャンスが訪れることはなかっただろう。
刀を防いだ一月は、それを勢いよく打ち上げた。
一際高い金属音が鳴り渡り、鬼と化した琴音の腹部が一瞬だけ無防備となる――その隙を見逃しはしなかった。
「終わりだ!」
この琴音は本物の彼女ではなく、言わば鬼がその姿を取って現れた負念の集合体。それを理解している一月に、迷いはなかった。
宣言すると同時に、一月は鬼と化した琴音の腹部を一閃した。
防ぐ暇も与えないその一撃は、彼女の腹部を的確に捉えた。
《があっ、ああああああああああああああッ!!!!!》
耳を塞ぎたくなるような悲鳴が、仏間中に響き渡る。
彼女の手から離れた刀が床に落下し、ドンと音を立てて突き刺さる。その刃から赤い光が消失したかと思うと、刀は灰とも砂とも分からない物体に変じていき、やがて消滅した。
そして、消滅するのは刀だけに留まらなかった。
一月の攻撃が致命傷となったのだろう。鬼と化した琴音の身体そのものが、徐々に黒い霧へと変じていき――そして爆散した。
その際に凄まじい風圧が発生し、一月の全身に叩きつけられる。
「うっ!」
思わず袖で顔を覆い、数歩後退した。
その時だった、右足の踵に何かが触れたのを一月は感じた。それが何なのかは分からなかった。荒れた仏間には木屑や仏具などが至る所に転がっていたから、そのどれかだったのだろう。
「っ……!」
障害物に躓いてバランスを崩した一月は、反射的に両手を泳がせた。しかし周囲に掴める物などない。
彼にできたことは、鬼と化した琴音が消滅間際に発生させた風圧を全身に受けながら、重力に従って仏間の床に倒れ込むことだけだった。
最初は背中に衝撃を感じ、その直後に後頭部を何かに強打したのが分かった。
「ぐっ、う……」
呻くような声を発した直後、一月の視界はみるみる黒く染め上げられていき――やがて、何も見えなくなった。




