其ノ参拾五 ~過去トノ戦イ~
目の前に現れた想い人、しかし決して見知った姿ではなかった。
その小さな体を覆い包む黒霧に、ぞろりと伸びた黒髪、その手には赤い光を纏う刀。彼女は間違いなく鬼と化した秋崎琴音だった。五年前の怪異で遭遇した、一月にとって何よりも忌まわしい記憶そのものといえる存在の彼女が、時を超えて今再び彼の前に現れたのだ。
どうして、一月は思った。だが当然ながら、答えを教えてくれる者などここにはいない。
《殺してやる……》
再び発せられる鬼の意思、それは殺意そのものだった。
鬼となった琴音の前髪から濁った瞳が覗き、困惑する一月の顔を映し出す。
一月は周囲を一瞥したが、一緒にいたはずの琴音の姿はなかった。それはつまり、誰の助けも受けられないということだった。
状況が飲み込めなかった、しかし考えている余裕は与えられなかった。
《死ねえっ!》
鬼となった琴音が、仏間の床を蹴って一月に襲い掛かってきたのだ。
赤い刃が、迷いなく一月の首に向けて振るわれる。喰らえばどうなるかなど、考えるまでもない。
逃げようと身を横へ動かす、しかし間に合いそうになかった。その時だった、一月は自分の手に刀が握られていることに気付いたのだ。天庭かと思ったが、あれは獄鏖鬼に折られたはず。ならば天照かと思ったが、そんなことを確認していられる状況ではない。
回避という選択肢が不可能だと判断した一月は、すぐさま防御という対策を決した。
いつの間にか自分の手に握られていた刀を振るい、鬼となった琴音が振るう刀を受け止める。二つの刃が打ち合わされ、甲高い金属音が仏間に響き渡った。
「ぐっ……!」
苦悶の声を発したのは一月だ。
受け止めてもなお、琴音は全身の力でその刃を押し出してくる。少しでも気を抜けば、刀を弾き飛ばされそうなほどだった。
単純な力では、琴音よりも一月のほうが強いことは明らかだった。しかし鬼となった琴音が有する、一月に対する凄まじいまでの怒りと殺意が、その差を埋めているように感じられた。鬼の憎悪は、れっきとした武器なのだ。
一旦距離を……そう考えた矢先に、鬼となった琴音が次の手を繰り出してきた。
いなすようにして一月の刀を弾いた後、一瞬の隙を突いて一月の顔目掛けて刀の先を突き出してきたのだ。
「!」
声を出す余裕すら与えられなかった。鬼となった琴音の動きを注視していたことが幸いし、予備動作を見逃さずに済んだ。
紙一重で頭を横へ動かし、突きを回避することに成功した。目の前の僅か数センチ先を、赤い光を纏う刃が通過していくのを一月は見た。かわせなければ、顔面を串刺しにされていただろう。
気を抜く余裕は与えられなかった。体勢を立て直した琴音は続けざまに攻撃を仕掛けてきて、一月はひたすらそれを受け続けた。
素早さといい、精度の高い攻撃といい、鬼になっていても生前に培った技は健在だった。五年前の時以上に、強さは増しているように感じられた。
数分間の打ち合いの後、鬼となった琴音は後ろに飛び退くと、刀を構えたまま言った。
《よくものうのうと生きて……私を殺したことなんて、もう忘れているのね》
聞く者をぞくりとさせるような、冷たい口調だった。
一月はただ、刀を構え直す。
《私はお前のせいで死んだ……命を失ってから、もう私の時は止まってしまったの。それなのにお前はそうやって成長して、誰かと笑い合う毎日を過ごして、おかしい……おかしい……!》
鬼となった琴音の意思が、不可視の刃物となって一月の胸を抉り続ける。
忘れてなどいなかった、しかし五年という時を経て微かに薄れつつあった罪悪感が、また一月の胸を満たし始めていた。
《赦さない赦さない赦さない、殺してやる殺してやる殺してやる、殺してやる!》
その叫びに呼応するように、琴音の身体を覆う黒霧が竜巻のように舞い上がる。
台風のごとき風圧が一月にも襲い掛かり、顔を背けたくなった。しかしそれはできなかった。
一瞬でも視線を外せば、その隙に殺される。今一月の前にいるのは正常な人間ではなく、超常的な存在である鬼だ。他にも、どんな一月の知りえない能力を有しているかは分かったものではない。
(なんて殺気、五年前と同じか、それ以上か……だが、負けるわけにはいかない……!)
想い人であった少女から浴びせられる憎しみの言葉は、一月にとっては何よりも鋭い凶器だ。そもそも鬼と化した琴音の姿を見せられるだけでも、彼の心をズタズタの血まみれにするには十分過ぎた。
今、自分が置かれている状況が夢なのか、まやかしなのかは分からない。それでも一月は闘志を失いはしなかった。どうしても、ここで殺されるわけにはいかない理由があったのだ。
鬼となった琴音が、再び襲い掛かってくる。攻撃力もスピードも増していたが、それでも一月は彼女の攻撃を完璧に防ぎ、打ち払った。
二度目の剣戟は十分ほど続き、今一度二人は距離を取る。
あれから五年間、一月は稽古に励んできた。その甲斐あって多少なり体力も増したのか、まだ余裕はあった。
先んじて、口を開く。
「君を死に追いやったことを、僕は忘れたりなんてしない……どんなことをしようが、一生を捧げようが、償い切れるものじゃないって分かってる……!」
まだ中学生だった頃に、自分が琴音に向けて放った心ない言葉――それを思い出しながら、一月は言った。
あの言葉が琴音を傷つけ、彼女が鬼に殺される遠因となってしまったのだ。一月はこれまで幾度も後悔し、その罪を背負いながら生きてきた。あの日に戻って取り消したい、そう何度も思った。
どうなるか分かっていれば、絶対にあんなことは言わなかっただろう。だが放った言葉は取り消せないし、ましてや時を巻き戻すことなど誰にもできない。
自分は琴音を傷つけた、それはもう変えようがなく、何をしようが覆らない事実である。一月はそれを理解していた。
そして、その罪から逃げも隠れもする気はなかった。
「今、大事な友達が苦しんでいる、鬼に取り込まれようとしている……僕は彼を助けなければいけないんだ」
《友達……?》
刀を構え直しつつ、一月は応じた。
「出間蓮……君だって知っているだろう? 琴音、僕は君を死なせてしまった。蓮まで失う訳にはいかないんだ、命に代えても彼を助けること……それが僕にできる償いの一つだと思ってる」
《出間蓮……?》
鬼となった琴音が俯いた。
蓮は、琴音にとっても大事な友達だったはずだ。しかし、
《そんな奴、私は知らない》
吐き捨てるような言葉とともに、赤い光を纏う刀を振りかざして再び襲い掛かってきた。
剣戟が再開する。
《お前への憎しみ以外に、私に残されたものは何もない! 何も何も何も、何も……殺してやる、殺してやる!》
怒りを憎しみを、そして殺意を滾らせながら襲い来る琴音。
鬼と化した彼女には、もう昔の記憶など残されてはいなかった。あるのは、一月に対する負念だけなのだ。
あれから五年の月日が流れ、心身ともに成長した一月。しかし鬼と化した想い人の姿を再び見せつけられ、心の痛みは隠せそうになかった。
振り下ろされた刀を受け止め、一月は全身の力を込めてそれを前方に弾き返した。
一月と鬼と化した琴音、再び互いの距離が開き、両者が刀を構えたまま向き合う状況となる。
《そいつを救えば償えるとでも思っているのか、そいつを助けることで、私にしたことをなかったことにする気か……! そんなことは認めない……赦さない!》
「違う! 贖罪で蓮を助けようとしているんじゃない、蓮を助ければ僕の罪が消えるだなんて……そんな都合のいいこと、僕は断じて考えてはいない!」
鬼と化した琴音が、黙った。
自らの想いの全てを吐き出すかのように、一月は叫んだ。
「だがそれでも……第一歩だ!」




