其ノ参拾四 ~置キ忘レタ一ツノ思イ出~
日本に限らず、世界には呪われていると噂される場所が数多く存在する。
例を挙げてみれば、まずはアメリカのゴールデンゲートブリッジ。
二七〇〇万ドル(外国為替レートによる変動はあるが、日本円にして二七億円以上)の費用を投じて建設され、一九三七年に開通した吊り橋であり、金門橋とも呼ばれる。サンフランシスコの主要な観光名所であると同時に自殺の名所としても知られ、これまで二〇〇〇人もの人間がこの橋から身を投げているとされる。そのために霧に交じって自殺者の霊が現れるといわれており、映画のテーマになるほどの知名度をもつ場所だ。
他にも、イタリアのポヴェーリア島。
このベネチアの市街地近くに浮かぶ小さな島は、十四世紀頃にペスト患者の隔離収容施設として使用されるようになった。だが当時は有効な治療法も確立されておらず、手の施しようのない患者で溢れた島に足を運ぶ医師などいなかった。つまり完全な放置状態にあり、行けば二度と生きては戻れず、ポヴェーリア島に送られるということは死と同義だったのだ。以降約四五〇年近くもの間、島はペスト患者の掃き溜め状態となり、十六万以上もの人間が苦しみの果てに命を落としたとされている。ポヴェーリア島の土壌の半分は死者の遺灰からできているという噂もあり、イタリア政府は島を立ち入り禁止区域に指定し、今では『世界で最も幽霊が出る島』とまで伝わっている。
そして今、一月と琴音が目の前にしている廃屋もまた――おぞましく忌まわしい、いわくつきの場所とされていた。
(またここに来ようとは……)
壁も屋根も、至る所がボロボロに老朽化し、庭には草木が繁茂しているその家。長らく放置され、人の手が入らなくなって久しいことが分かる。
傷みきってはいたが、表札の『秋崎』という文字は辛うじて読み取ることができた。
秋崎、それは琴音の苗字。そう、この廃屋は琴音が生前、つまり彼女が命を落とす前まで祖母と一緒に住んでいた家なのだ。だが琴音と彼女の祖母が亡くなって以降は誰も入居せず、取り壊されることすらなかった。
この鵲村には、死者の負念は鬼になるという言い伝えがある。琴音とその祖母が命を失くした時、殺された少女の怨念がこの廃屋に宿り、近づく者は呪い殺されるという噂が広まったのも記憶に新しかった。祟りを恐れて取り壊さないのか、あるいは単に取り壊しの費用がもったいないと思っているのかは分からない。仮に取り壊して更地にし、土地を売ったとしても、気味悪がられて買い手がつかないだろう。
誰も寄りつかず、時の流れに置き去りにされて存在意義すら失った家。
建物を命ある存在として扱うならば、この廃屋は間違いなく死んだ建物だった。五年前にここを訪れた時と同じように、一月はそう感じた。
廃屋を見つめているだけで、五年前の怪異の記憶が呼び起こされそうだった。
できれば二度と来たくはなかったが、一月にはここを訪れなくてはならない理由があった。
琴音が蓮に渡し、そして分かれる間際に彼から返してもらったマスコット。それこそが、蓮を獄鏖鬼から救う鍵となるかも知れない。手に入れるためには、今一度この廃屋に踏み入らなくてはならないのだ。
こんな形で、五年前の怪異に再び相対することとなろうとは。一月は運命の皮肉を感じずにはいられなかった。
「いっちぃ……」
案じるように、琴音が声を掛けてくる。
五年前と違うのは、今度はひとりではなく、彼女が共にいることだった。
尻込みしている猶予などない、こうしている間にも、蓮は獄鏖鬼に意識を奪われつつある。自分にそう言い聞かせ、一月は拳を握った。
「大丈夫、行こう」
五年前の怪異に今一度立ち向かう覚悟を決め、一月は廃屋の敷地内へ踏み入った。
雑草が生い茂り、木々が無造作に枝を伸ばしている庭は見るからに日当たりが悪く、湿った場所を好む生き物には絶好の環境のようだ。敷石の上にはムカデやワラジムシが闊歩し、生理的嫌悪感を駆り立てられる。
五年前と同様に、入口に鍵は掛かっていなかった。
引き戸を開けて、一月は廃屋内に入る――すかさず鼻に飛び込んできた異臭に、表情をしかめた。
(ここは、五年前のままか……)
黴とも湿った土の臭いとも分からない、とにかく鼻を覆わずにはいられなくなるような異臭。
外観以上に、内部は老朽化が著しく思えた。
壁の至る所が剥げて木目が剥き出しになり、天井付近には蜘蛛の巣がいくつも張っていた。床には土や木片、他にも何とも分からないゴミが散乱しており、臭いの発生源など特定のしようもない。
五年前以上に不気味で、こんな場所にいると気がおかしくなりそうだった。しかし一月は引き返そうとはせず、携帯電話のライトで前方を照らし出した。
一月自身が成長して体が大きくなった分、以前訪れた時よりも廃屋内部が狭く感じた。
隣にいた琴音が言った。
「こんなに荒れているなんて……」
かつて自分が住んでいた家の、変わり果てた姿を目の当たりにした彼女。ショックを受けているのは想像に難くなかった。
彼女の気持ちを考え、一月は鼻を袖で覆うのをやめた。
前に歩み出ると、琴音は廊下を少し進んだ場所にあるドアを指差した。
「私の部屋はここ……いっちぃ、危ないから足元を見ながら歩いてね」
彼女に促されたように、一月は床を注視しながら進んだ。
歩を進めるたびに、腐食した床板がギシィ、ギシィ……と不快な音を立てた。
この廃屋に踏み入り、廊下を進み、そして琴音の部屋へと通じるドアに向かう。全てが五年前と同じ流れで、一月はあの怪異をなぞっているように思えた。
ドアノブを握り、一月は今一度琴音を振り返った。
「入ってもいい?」
命を失っているとはいえ、ここは琴音の部屋。勝手にドアを開けるのは申し訳ないと感じたのだ。
琴音は迷いもなく、頷いた。
「大丈夫だよ」
彼女の了承を得ると、一月はゆっくりとドアを開けた。
五年前にも訪れた琴音の部屋は、この廃屋とともに時を経て、以前にも増して荒れているように感じた。机の上には傷み切ったノートや紙切れ、筆記用具が散乱していた。割れた窓から入り込んだのだろう、床には木屑や落ち葉が落ちており、土埃が堆積していた。棚の上のボロボロになったぬいぐるみが、とても痛々しく思えた。
琴音が、沈痛な面持ちを浮かべていた。自分が住んでいた部屋がこんな風に荒れ果ててしまい、悲しくなったのかも知れない。琴音と一緒に、この部屋もまた命を失ったのだ。
どう声を掛けるべきか迷っていた時だった。琴音が一月に先んじて部屋に踏み入り、棚の引き出しを開けてその中を探り始めた。
「琴音……?」
一月は琴音の背中に呼び掛けた。しかし彼女は応じることなく、「たしかここに……!」と呟き、引き出しの中を探り続けた。
そして数秒後、
「あった……!」
振り返った彼女の手に、マスコットが握られていた。
一月が琴音から贈られたのと同じ、彼女手作りの可愛らしいクマのマスコット。あれこそが、一月と琴音がここを訪れた目的だった。
思い出と一緒に置き忘れられた、思い出の品。蓮を獄鏖鬼から救い出す武器となりえる物なのだ。
「良かった、まだここにあったんだ」
荒廃した廃屋に数年に渡って放置されながらも、マスコットは紛失せずに残されていた。
友を救おうとしている自分に、運が味方してくれていると一月には思えた。
琴音が歩み寄ってきて、
「はい、いっちぃ」
一度は蓮の物となったマスコットを差し出してくる。手に取って見てみると、汚れや傷みこそあったが原型は留めていた。
一筋の希望を手にしたように感じ、一月は笑みを浮かべる。
しかし、彼はすぐに別の問題を思い出した。
「だけど、これじゃまだ十分じゃない」
説明せずとも、琴音はその意味を理解してくれたようだった。
「天照のこと?」
一月は頷いた。
そう、蓮……つまり獄鏖鬼との戦いに、一月は世莉樺から借り受けた天照を持ち込むつもりでいた。天庭の代わりとしては申し分ない強さを持つ霊具なのだが、今の彼には抜くことができないのだ。
天照は使い手の心を見透かす霊刀、これを認めるに値する想いなくしては、扱えない。今のままでは一月は丸腰に等しく、この状態で獄鏖鬼に戦いを挑むのは自殺行為に他ならなかった。
天照を抜けるようにならなければならない、しかしどうすれば……一月がそう思った時だった。
廃屋のどこかからか、一月を呼ぶ声がしたのだ。
「っ……?」
息を飲み、一月は振り返る。
「どうしたの?」
琴音が問うてきた時、一月はもう歩を進め始めていた。
彼女を向かないまま応じる。
「今、誰かが呼んでいたような……」
琴音の部屋を出て、玄関とは逆の方へと向かう。
この先に何があるのかは分かっていた、行きたくはなかったが、一月自身の意思とは無関係に足が動いたのだ。
「いっちぃだめ、そっちは、そっちには……!」
自分を引き留める琴音の声が聞こえたが、一月は足を止めなかった。いや、止められなかった。
その場所に近づくにつれ、仄かな線香の香りが鼻腔を撫でる。
両断された襖が落ちているのが視界に入る、そのすぐ後には仏間が見えた。
その瞬間だった。五年前の怪異の記憶が、駆け巡るかのように一月の頭の中に浮かび、埋め尽くしていった。
この仏間で見た女子生徒達の惨殺死体、一面にびっしりと『殺してやる』と書かれた灰色の日記帳、雨が降りしきる鵲村の情景――そして最後に浮かんだのは、一月にとって最も忌むべき光景だった。
鬼によって惨殺された琴音だ。
制服ごと腹部を大きく裂かれ、内臓が溢れ出し……鮮血の水溜まりにその身を沈めた、想い人の姿だったのだ。
直後、声を上げる間もなく一月の視界は闇に包まれた。
◎ ◎ ◎
「うっ、ぐ……」
意識を取り戻した一月は、襲い来る頭痛に苦悶の声を漏らした。
頭に手を当てようとしたところで、自分が地面に寝そべっていることに気が付く。砂利や木屑が手の平に触れ、ザラザラとした感触が伝わってきた。
一体何が……そう思った時、不鮮明な視界の中で、ある少女の姿を捉えた。
「っ!」
よろけながらも立ち上がり、一月は彼女に目を凝らす。
暗い仏間に浮かび上がるような後ろ姿は、見知ったものだった。
(まさか……!)
そうであってくれるな、と一月は願った。
しかしその期待は脆く打ち砕かれる。
いつの間にか現れたその少女が、ゆっくりと振り返る。黒霧に小さな体を覆い包まれ、泥のように濁った瞳を持つ彼女――誰なのかは、考えるまでもなかった。
「琴、音……!」
五年前に消し去ったはずの、鬼と化した想い人だった。負念の塊ともいえる彼女は、一月にとって最も忌むべき記憶、五年前に置き忘れた一つの思い出。
耳に届く声ではなかった。しかし彼女が発する意思が、明確に一月に伝わる。
《殺してやる……》




