其ノ参拾弐 ~託サレル希望~
翌日の朝八時過ぎ、一月はバスに乗ってある場所へと向かっていた。今日は本来大学の講義がある日だったのだが、今の彼にはそれを欠席してでもしなくてはならないことがあった。一月はこれまで一度もサボることなく、普段から勤勉に出席していたので、出席日数が足りなくなって単位を落とす心配はなかった。
けれど、もしかしたらもう講義には出られないかも知れない。何故なら、単位どころか命まで落とす結果になるかも知れないのだから。彼が立ち向かおうとしている相手、獄鏖鬼はそれほどまでに強大で、恐ろしい存在なのだ。
「いっちぃ、大丈夫?」
隣の席に座った琴音が、心配するように語り掛けてくる。
バスの中に、他の乗客は数人しかいなかった。一月はあえて離れた席に座ったし、走行音が絶えず響き続けているので、琴音と会話しても問題はなかった。
「うん……平気さ」
自分は今、殺戮の象徴と称される存在に立ち向かおうとしている。恐怖がないのかと問われれば、とても首を縦に振ることはできそうになかった。
しかしそれでも、一月に引き下がるつもりはなかった。
諦めれば、蓮は獄鏖鬼に完全に意識を奪われてしまう。それは彼を見殺しにするに等しかったし、誰かが食い止めなければ、獄鏖鬼はこれからも大勢の人間を餌食にするだろう。
親からの虐待を受けていた蓮が、鬼と化して人の命を奪い続けている。まるで負の連鎖だと一月には思えた。
これまでにも鬼と戦った経験があるからという理由以上に、蓮の友だからこそ、彼を止めなければならない、獄鏖鬼から救わなければならないと感じていたのだ。
ポケットから携帯電話を取り出して、一月は『もうすぐ着くから』というメッセージを打ち込み、ある人物へと送信した。
「誰に送ったの?」
琴音が問うてくる。
「これから会いに行く相手……琴音も知っている人さ」
十数秒の後、『分かりました、待っています』という返信が来た。
◎ ◎ ◎
待ち合わせの場所に到着する以前に、一月は遠目に竹刀袋を背負った少女の姿を捉えた。
これまで幾度も見たその横顔、間近まで近づかなくても、すぐに彼女が会う約束をしていた相手だと分かる。
気配を感じたのか、名を呼ぶより先に彼女は一月を振り向いた。長く伸ばされたその茶髪が、緩やかに空を泳いだ。手にしたスマートフォンをポケットにしまうと、彼女もまた一月に歩み寄ってきた。
互いの声が聞こえる距離にまで近づくと、彼女は一月に会釈し、先んじて言葉を発した。
「お久しぶりです、一月先輩」
一月は応じた。
「久しぶり、世莉樺」
少女の名は、雪臺世莉樺。
彼女は一月より一歳年下で、現在十九歳。一月の高校時代の剣道部の後輩であり、一月の卒業後は部長も務めたことがある。ふたりの弟妹を持つ姉で、礼儀正しくて誰にでも優しいが、芯の強さも持ち合わせた少女だ。
そして何よりも、世莉樺は一月と同じ、鬼の怪異の経験者なのだ。
今から四年前、一月が高校二年生で、世莉樺が高校一年生だった頃だ。一月は当事者ではなく協力者という立場であったが、一月も世莉樺もともに精霊の助力を受け、霊刀を振るって鬼に立ち向かった。
一月にとって彼女は後輩であり、そして黛を除けば、鬼に関して唯一頼れる人物なのだ。
こうして顔を合わせるのは、数年ぶりのことだった。
「それに……琴音さんも」
世莉樺は、琴音にも挨拶をした。
一月と同じく、世莉樺も鬼に立ち向かう中で、精霊を見る能力を得た人物だ。だから彼女は琴音を見ることができるし、声も聞こえる。
「ごめん世莉樺、わざわざ来てもらっちゃって。保育士の勉強中だっただろう?」
本題に入る前に、一月はまず詫びた。
世莉樺とはメールのやり取りを交わしていたので、一月は彼女の進路についても知っていた。高校卒業後、世莉樺も一月と同じように鵲村を巣立ち、専門学校へと進学したのだ。
試験に向けて勉強中だという彼女を呼びつけるのは申し訳なかった。だが一月は今、どうしても彼女を頼らなければならない状況にあるのだ。
「いいんですよ、気にしないで下さい。それよりも一月先輩、これ……」
背負っていた竹刀袋を差し出してくる世莉樺、これこそが、一月が世莉樺をここに呼んだ理由だった。
竹刀袋を受け取った一月は、チャックを少し開けて中を覗いてみる。そこには本来入れるはずの竹刀ではなく、鞘に収められた真剣が入っていた。
「天照……!」
隣から竹刀袋の中を覗き込みつつ、琴音が言った。
霊刀・天照。世莉樺が所持する霊具で、天庭同様に鬼を退ける力を有する真剣だ。
これこそが、一月が世莉樺をここに呼び、そして自ら彼女に会いに来た理由だった。天庭は折られてしまい、素手で獄鏖鬼に立ち向かうのは無謀に他ならない。ならばどうすべきか、一月が見出した結論は、至って簡単なものだった。
自分の霊具を失ってしまったならば、代わりの霊具を見つければいい。一月は世莉樺から、天照を借り受けることを申し出たのだ。世莉樺はそれを、快く承諾してくれた。
「ありがとう世莉樺、天照……全てが終わったらこの竹刀袋と一緒に返すから」
「あの、一月先輩」
心配そうな面持ちを浮かべ、世莉樺が言った。
「一月先輩、鬼と戦おうとしてるんですよね? 最近のあの、人が大勢殺されているっていうニュース……鬼が絡んでいるんですよね」
予期していたことではあった。
獄鏖鬼による殺戮は、既に人々には周知のことだ。鬼の怪異を経験したことがある者ならば、鬼の仕業だとすぐに分かるだろう。
一月は、世莉樺には獄鏖鬼のことも、その正体がかつての親友だということも話してはいなかった。しかし天照を借りたいというのは、自分はこれから鬼と戦いに行くと言っているも同じだ。
誤魔化そうとは思わなかったし、誤魔化せるとも思わなかった。一月は首を縦に振る。
「うん、そうだよ」
世莉樺が、前に歩み出た。
「あの、それだったら私も……! 私は一月先輩みたいに強くはないけれど、私だって鬼と戦った経験があります、一緒に戦えばきっと力に……!」
鬼との戦いに身を投じようとする自分を案じてくれているのだと、一月は思った。
しかし、世莉樺の厚意を受け入れることはできなかった。
「ありがとう、でもダメなんだ。これは僕と琴音の戦い……僕らの手で終わらせなければならない怪異なんだ。君を巻き込むわけにはいかないよ」
一月の隣で、琴音が頷いた。
蓮を鬼にさせてしまった責任の一端を、自分も負っていると一月は感じていた。ならば自分の手で彼を救うことこそ、唯一にして最大の贖罪。世莉樺は巻き込めないと思ったのだ。
それに何より、相手はこれまでの鬼とは一線を画す強大な敵、獄鏖鬼だ。天照を借り受けた今、世莉樺に霊具はない。
「だけど……!」
反論しようとする世莉樺を、一月はやんわりと諭した。
「保育士の勉強、今大事な時期なんだろう? それに君にもしものことがあったら……真由ちゃんと悠太君が悲しむ」
「っ……!」
世莉樺はただ息を飲み、胸元で拳をぎゅっと握りしめた。
真由と悠太とは、世莉樺の弟妹の名だ。一月の記憶している限りでは、真由は現在中学生で、悠太は小学生。長女である世莉樺がしっかり者の姉で、いつもふたりを気にかけていたことも知っている。
どこかぎこちなくも優しい笑みを浮かべ、一月は言った。
「その気持ちだけ、ありがたく貰っておくからさ」
すると世莉樺は、すがるような面持ちで言った。
「分かりました。でも……約束して欲しいことがあるんです」
「何?」
世莉樺は一度下を向き、また一月と視線を重ねた。
「天照とその竹刀袋……絶対に私に返しに来てください。それだけ、約束して欲しいんです」
その言葉がどういう意味を持つのかは、考えるまでもなかった。
「ああ……もちろんさ」
一月に続いて、琴音が言った。
「世莉樺ちゃん、ありがとう」
そして一月は世莉樺に背を向け、彼女から借り受けた天照を――託された希望を手に、歩を進め始めた。
獄鏖鬼を止め、蓮を救う。その決意を新たにした。




