其ノ参拾壱 ~決意~
「現場には大量の灯油が撒かれて火が付けられ、現場検証もほぼ不可能なほどに焼き尽くされていたそうだ。ただそこには三人の焼け焦げた遺体があって……分かったのはそれが蓮君のご両親と、妹の子だったということ、それに父親の男が何十回も刺され、妹の子は両目を潰されていたということくらいだったそうだ」
あまりにも恐ろしく、耳を塞ぎたくなる話だった。
黛は事件のことを一切包み隠さず、詳細に語った。それが、聞く覚悟を決めた弟子達に対する彼なりの礼儀だったのだろう。
一月はただ、恐怖とも分からない気持ちに苛まれていた。事件の凄惨さ以上に、それを実行したのがかつての親友であるという事実の方が重大で、衝撃的だったのだ。
(そういえば……!)
ふと、一月はあの御藤という看守の話を思い出した。
獄鏖鬼となった脱獄囚が両親と妹を殺害し、家に火を放って逃げたということは既に彼から聞いていた。しかし、それが蓮だとは思わなかった。思えるはずがなかった。
震えるような声で、一月は言う。
「僕が得た情報では、獄鏖鬼は……つまり蓮は、最初は刑務所で大人しくしていたけど、ある時を境に攻撃的になり、他の受刑者に暴力を振るったりし始めたそうです。危険と見做されて拘束具で動けなくされたけど、無理やり逃れて……物凄い叫びを上げながら暴れて、止めに入った看守を何人も病院送りにしたこともあったって……まるで、何者かに精神を蝕まれているようにも見えたとか……」
薺が、応じた。
「暴力性の増長……獄鏖鬼に取り憑かれた人の多くが、そういう風になってしまうんです」
姉である彼女に、菘も続く。
「前にも教えてあげたでしょ? 獄鏖鬼は生きてる人に取り憑いて、徐々にその意識を奪っていく……自分を失うのが怖くて、その恐怖を痛みで払おうとして……突発的に人や自分を傷つけたり、滅茶苦茶に暴れたりしちゃうんだよ」
単純に戦闘能力が高いこと以上に、人の人格を浸食し、化け物に変えてしまうことこそ獄鏖鬼の最も恐るべき点なのだ。蓮が他人に暴力を振るったり、叫びながら暴れ狂う姿を想像しただけで、一月は背筋が凍りつきそうな気がした。
まさか、蓮の身にそんなことが起きていただなんて。驚きと恐怖で、何も言えなくなっていた時だった。
「だけど、どうして日向ちゃんまで? 蓮、あの子のことはとても大事にしていたのに……」
琴音もまた、黛の話にショックを隠せないようだ。
彼女の言葉に、一月ははっとする。
「確かに……」
考えてみれば、琴音の言う通りだった。
神社の祭りに蓮が日向を連れて来た時、彼らは仲の良い兄妹に見えた。両親と一緒に彼女まで殺したのは何故なのか? それも殺すだけに留まらず両目まで潰すとは、よほど強い殺意があってのことだと思った。
推測の域を出ないが、一月にはそこに事件の鍵があるように感じられた。
「先に言った通り、現場は全焼に等しい状態で、手掛かりはほとんど残されていなかった。しかし蓮君自身が自供したそうだ、『家族を全員殺して、火を放った』と。長年にも渡る両親からの虐待……溜まり込んだ怒りが彼を恐るべき凶行へ走らせたと、警察は断定したそうだ」
虐待によって受ける痛みが、悲しみが、そして怒りが、蓮を鬼に変えてしまったのかと一月は思った。
しかしそれでも、妹まで手にかけた理由が理解できなかった。
黛は続ける。
「私も彼を……蓮君を救いたかった。だが蓮君自身から、虐待のことを決して口外しないよう口止めされて、どうすべきなのか思い悩んでいたんだ。児童相談所に告発することも考えたが、もし証拠不十分で彼を保護できなかったら事態をさらに悪くしてしまう……蓮君の父親が、さらに凄惨な暴行を加えると思った。私にできたのは、他の先生方にバレないよう蓮君の月謝を肩代わりして、彼が道場にいられるようにしてあげること。それに彼の師として、相談相手として……蓮君を見守ることくらいだったんだ」
黛は視線を下げ、ぐっと拳を握った。自責の念に駆られているように見えた。
「私の責任だ……私が思い切った対応をしていれば、蓮君はもしかしたら……!」
その時だった、突如黛が自身の胸を押さえ、苦し気な声を発したのだ。
「ぐっ! う……」
膝を崩し、地面に伏す彼に、薺と菘が駆け寄る。
彼女達は口々に、「先生!」と叫んだ。
「どうしたんですか、黛先生……!?」
琴音が問うと、黛は胸を押さえたまま応じた。
「心配ない、ちょっと古傷が……ぐっ!」
一月も、黛に駆け寄った。
「黛先生……!」
すると彼は絞り出すように、
「心配ない……昔の『仕事』で、少しばかり厄介な傷を負っていてね。一時は鵲村を離れなくてはならなくなったんだ。病気の治療という名目でね」
少しばかり、と彼は言った。しかしその苦悶の表情を見る限り、一月にはその『傷』が軽いものだとは思えなかった。
ふと、一月は五年前の怪異の時のことを思い出した。
鬼と化した琴音を止めるため、黛に会いに行こうと思い立ち、数年ぶりに道場へ足を運んだ。しかし黛に会うことは叶わず、そこにいた教員から黛は病気を患い、村外の病院へ入院していると聞かされた。
あの時にはもう、黛は傷を負っていたのだ。彼の言葉からして、時間経過や薬で治るようなものではなく、きっと何か……鬼が関係しているような傷なのだ。
「ここしばらくは落ち着いていたんだが、このところ痛むことが増えたんだ。もしかすると、獄鏖鬼の影響かも知れないな……」
薺と菘が、
「先生、今助けます」
と告げて黛の胸にそれぞれの手を当てた。
彼女達の口から呪文が唱えられ始めると、黛の表情から苦悶の色が少しずつ薄れ、やがて消えていった。
「ふう……もう大丈夫だ、ありがとう」
黛は、一月と琴音に向き直った。
「こうして今は、薺と菘……この子達に命を繋いでもらっている状態でね。このままでは到底、獄鏖鬼に立ち向かうことなどできない……かつての弟子を、蓮君を鬼にさせてしまったばかりか、救うこともできないとは……本当に情けないばかりだ」
「先生のせいなんかじゃないですよ、私だって……」
自虐気味に語る黛に、琴音が言った。
「蓮の側にいながら、気づけなかった。彼がそんな痛みを抱えていて、それを私達に隠しながら日々を過ごしていたなんて……」
蓮が一月と琴音に見せていた笑顔は、全て自分の痛みや悲しみを覆い隠すためのものだった。彼はいつも仮面を被り、本当の気持ちを悟られないようにしていたのだ。
それがどれほど辛く、苦しいことか……一月には想像もできなかった。
彼を鬼にさせてしまったのは、黛だけの責任ではない。彼の本心を見抜けなかった自分にも責任がある、一月はそう思った。
蓮は今、獄鏖鬼となっている。そしてこのままでは、彼の人格が獄鏖鬼に奪われてしまう。一刻も早く、彼を救い出さなければならなかった。
込み上がる思いを胸に、一月は言った。
「僕が、蓮を助けます」
黛が息を飲み、応じた。
「でも一月君、今の君には霊具が……」
天庭が折られてしまった今、獄鏖鬼に対抗する術はない。黛はそう思ったのだろう。
しかし一月には、策があった。
「いいえ、その点は大丈夫です」
隣にいる琴音が、怪訝な眼差しを向けてくるのが分かった。
淀んだ雲に覆われた空を見上げつつ、一月は続けた。
「頼りにできる人に……心当たりがあります」




