其ノ弐 ~黒イ囁キ~
人間の世界には、いつだって不公平と理不尽が横溢している。
若者に焦点を当ててみれば、恵まれたルックスを備えた者と、そうではない者。勉強ができる者と、そうではない者。皆から好かれる者と、そうではない者。
話を少しばかり広げていけば――百年以上も生きて人生を謳歌できる者もいる一方、親の病気などの理由で、この世に生まれてくることすらできなかった者もいる。親の愛情を一身に受けて育つ者もいれば、親からの卑劣な虐待や、度を越えた折檻によって、幼くして命を落とす児童だっている。血の滴るステーキや、ビンテージ物のワインを毎日のように楽しむ、そんな裕福で満ち足りた暮らしをしている者もいる一方、悪臭漂うゴミの山を連日のように漁り、そこから得た金属を売って僅かばかりの金銭を手に入れ、辛うじて命を繋ぐ者もいる。
全知全能の神……そんな者がもしも本当に存在するのだとしたら、そいつはあまりにも無能か、役立たずか、それともよほど意地の悪い気質の持ち主なのだ。
二十年の人生の中で、出間蓮は幾度かそう思った。
そして今も、そのことを考えていた。
独房の鉄格子に後ろ手に繋がれ、拘束されて身動きを封じられながら……彼は俯くように下を見つめつつ、がっくりと力を抜いていた。
看守達からの暴行を受け、その顔にはいくつも痣ができ、全身が鈍い痛みを発していた。しかも今日は水も食事も与えられず、蓮の体力は尽きかけていたのだ。
《蓮……》
突如として聞こえたその声に、蓮は身を震わせた。
独房には、彼以外には誰もいないはずだった。
「また、お前か……」
姿の見えない『声の主』に向かって、蓮は呻くように発した。両手を鉄格子に繋いでいる手錠が、ガチャリと音を鳴らした。
《そんな無様な姿になってまで……なぜ俺を拒む?》
それは蓮の身を案じているというよりも、痛めつけられて憔悴した蓮を嘲笑うかのような口調だった。
俯いたまま、蓮はギリッと奥歯を噛み締めた。
「うるさい……!」
喋るだけで腹部が鋭い痛みを発し、口の中に鉄のような血の味が広がった。
自分にしか、その謎の声は聞こえないと蓮は察していた。他人からは、蓮がただ独り言を喋っているようにしか見えないだろう。
《俺を受け入れれば、こんな場所からはすぐに出られるし、お前の憎しみを晴らすことだってできるのに……一体なぜなんだ?》
その声の主が何者なのか、蓮には分からない。
しかし、そいつがとてつもなく邪悪で悍ましい存在……忌むべき化け物だということは分かった。
もしも誘いに乗ってしまったら、ひとたび受け入れてしまえば、恐ろしいことが起きる。確たる証拠はなかったが、本能的に蓮はそれを察知していた。
拘束具から力づくで脱出し、自由に動き回れた時は、自傷行為によってその声を遮断するという対抗策が取れた。しかし再び拘束されてしまった今では、そんなことは不可能だった。
「黙れ!」
叫び声がコンクリートの壁を反響して、蓮自身の鼓膜を揺らす。
《気が変わる時が来る……そう遠くないうちに、必ずな》
その言葉を最後に、謎の声は途絶えた。看守達と壮絶な立ち回りを演じた時と打って変わり、静けさが訪れる。
自身の息遣いだけが反響する独房の中で、蓮はしばらく床だけを見つめ、身動きもせずにいた。自分の手首を鉄格子に繋いでいる手錠を壊そうと、足掻くこともしなかった。
これから自分がどうなるのか、薄暗い周囲に視線を泳がせつつ、蓮は思った。謎の声が聞こえていない間に限り、物事を思案する冷静さを持つことができた。
看守を何人も負傷させたことは、少なくとも不問にはならないだろう。それ以前に、蓮がこの少年刑務所に収監された理由も理由だ。人の道を外れた、倫理的に赦されざることをしたからこそ、今彼はこんな場所に閉じ込められているのだ。
衰弱していた蓮は、ものの数十秒で考えることを放棄した。
鉄格子に身を預けたまま、ゆっくりと目を閉じる。時計も窓もないこの独房では、今が朝なのか夜なのかも分からない。
このまま眠れば、もう二度と起きれないかもしれない。視界が狭まっていく最中、蓮はそう思った。しかし、別にそれでも構わないと感じ、さほどの時を要せず意識を手放した。
その直前に、どこか遠くから微かに物音が聞こえた気がした。
それは、今まさに自分を殺すためにこの独房へと向かっている看守達の足音だ――もちろん、蓮にそれが分かるはずはなかった。