其ノ弐拾八 ~宿命ノ邂逅~
「っ!」
獄鏖鬼となった少年が服役していた刑務所に赴き、看守から重要な情報を得た一月。
傘を差し、雨の降りしきる道に歩を進めていた彼は、突き刺すように脳裏を掠めたその気配に振り返った。それは、鬼という存在に幾度か関わってきた彼だからこそ感じ取れるもの。言うなれば、鬼の出現を知らせる警告だった。
しかも、以前感じたそれ以上に強くて邪悪な気配……その源が何なのかは、考えるまでもなかった。
(獄鏖鬼……!)
ほど遠くないどこかで、獄鏖鬼が現れたのだ。
赤黒い霧に覆われたその姿が目に浮かぶ、傘を放り捨てて、一月は駆け出す。
「いっちぃ、ダメだよ!」
と、不意に後ろから呼び止められた。
振り返ると、琴音が祈るような眼差しで一月を見つめていた。大雨を受けている一月に対し、彼女の白いワンピースには一片の染みもできてはいない。
一月に歩み寄りつつ、琴音は言う。
「今のいっちぃじゃ立ち向かえないよ。獄鏖鬼がどれほど恐ろしい鬼か、知っているでしょ?」
彼女の言葉に、一月はあの夜に目にした光景を思い出した。
獄鏖鬼に殺された人々……全員がその身を裂かれ、惨いという言葉では収まらない殺され方をしていた。
無残に切り裂かれ、血染めの肉塊と化した者達。それを思い出しただけで、一月は背筋が凍るような感覚を覚えた。間一髪のところで最悪の結末を免れたが、もし黛が助けに来てくれなければ、あるいは彼が来るのがあと少し遅ければ、一月もあの惨殺死体の一つになっていたに違いない。
視線を外した一月に、琴音はさらに語り掛けてくる。
「それに、今は天庭が無いんだよ? 丸腰でなんてとても戦えないよ、私の力だって通じなかったし……それにきっと獄鏖鬼は今、前以上の力を付けているはずだよ」
獄鏖鬼は圧倒的な戦闘力を見せつけ、霊具である天庭を破壊した。
鬼に対抗する術がない今では、いや、仮に天庭があったとしても、勝ち目は極めて薄い……ゼロと言っても間違いではないだろう。
武器もなく、さらに力を増した獄鏖鬼に会いに行く、それは命を捨てることと同義だった。
「確かに……そうだね」
自分の身を案じてくれている琴音の言葉に、一月は一応の理解を示した。
しかし、首を縦に振ることはできなかった。
「でも、こうしている間に人が殺されているかも知れない。あんな惨たらしく……琴音、君だって見ただろう?」
琴音はただ、息を飲んだ。
一月は彼女と視線を重ねて、
「危険だってことは分かってる……それでも、何もせずにいることなんて、できないよ」
怪異を幾度か経験している一月は、鬼の危険性を嫌というほど知っている。
だからこそ、この状況で指をくわえてなどいられないのだ。無謀だとは理解していたが、それ以上に誰かを助けたい、怪異に立ち向かいたいという気持ちが勝った。鬼を退けた経験がある自分には、その義務があるとも感じていたのだ。
それに、何よりも。
「僕が剣道を始めたのは……誰かを守れる人間になりたいと思ったからだから」
少しだけ、琴音は一月と目を合わせ続けた。
そして彼女は首を縦に振った。綺麗な黒髪が、さらりと揺れる。
「分かったよ、でも……気を付けてね」
琴音の言葉には、真剣さが込められていた。
一月を守る役目を与えられ、千芹という精霊の器を得てこの世に戻った琴音。一月の死は、彼女にとって存在意義を失うことに等しい。本来ならば、勝ち目のない戦いに一月を赴かせたくないはずだった。それでも琴音は、一月の意思を尊重することを選んだ。
「うん……ありがとう」
想い人である少女の決断に、一月は最大限の感謝を贈った。
◎ ◎ ◎
琴音と一緒に、一月は獄鏖鬼の気配の発信源となっている場所へと向かった。
近づくにつれて気配、つまり鬼の痕跡は強まっていく、そのお陰で場所の特定はさほど難しくはなかった。
濁った水溜まりを踏み、周囲を警戒しつつ一月は進んでいく。こうしている間にも、獄鏖鬼はどこかから襲い掛かってくるかも知れないのだ。
(この先か……?)
進むたびに、周囲の空気が重みを増していく気がした。それこそが、この先に獄鏖鬼が待ち受けていることの証明に他ならなかった。
鬼が猛威を振るっている事態を前に、じっとなどしていられない。そう思ったからこそこの場に来てしまったのだが、一月は少なからず自分の行動に疑念を抱きつつあった。
天庭がないこの状況で、獄鏖鬼に遭遇してしまったらどうすればいい? いや、仮に天庭があったところで、あんな恐ろしい化け物をどうにかできるのだろうか? 琴音に言われた通り、ここに来るべきではなかったのでは……そう思った時だった。
「いっちぃ……」
琴音に名前を呼ばれる、視線を合わせたが、彼女はそれ以上は何も言わなかった。
一月が迷いを抱いたのを、表情から読み取ったのだろう。
芽生えつつあった心の淀みを、一月は懸命に振り払った。獄鏖鬼を自分がどうにかできるかなど分からない、しかし放っておけば、また誰かが殺される。既に、獄鏖鬼によってかなりの犠牲者が出ている。殺された人々にはそれぞれの人生が、未来があったはずだ。理不尽に奪われていい命など、この世にはない。
誰かが止めなければならない、理由はそれだけで十分だった。
「ああ、分かってる」
琴音にそう返して、一月は再び路地道を歩き始めた。
そして程なく、その場所に辿り着いた。
「これは……!」
眼前に広がる異様な光景に、目を奪われる。
路地道を抜けて少し開けたその場所には、いくつもの細長い穴が開いていたのだ。コンクリートの地面が抉られ、辺りには瓦礫が散乱している。部分的に破壊された建物や、木っ端微塵に潰された自動車もあった。
そして、穴の近くには何人もの人間が――正確には、人間だった物が横たわっていた。ざっと数えて十数人、全員が警察官らしく、血で真っ赤に染まった制服を着ていた。
また、人が無残に殺された。
(獄鏖鬼だ、獄鏖鬼がやったんだ……!)
充満する鬼の気配に、凄惨極まるこの現状。一月はすぐに、獄鏖鬼の仕業だと確信した。
物言わぬ肉塊へと変わった警察官達、生死など確認する必要もなかった。中には腕や足が胴体から千切れている死体もあった。
「っ……」
込み上がる吐き気を堪えた。
五年前の怪異の時、初めて死体を目にした時のことを思い出した。あの時は我慢できずに嘔吐してしまったが、今回はそうはならなかった。
人間は、何にでも慣れてしまうもの。しかし、人の命がゴミのように奪い去られることへの理不尽さ、憤りは忘れそうにはなかった。
こんなことが、赦されるわけがない。
「遅かったか……!」
そう呟きつつ、一月は周囲を見渡した。
警察官達の死体が目に入るが、ふと地面に刻まれたいくつもの細長い穴が気になった。
(何なんだ? この跡は……)
手近にあったそれを調べてみると、大きな力で無理やりにコンクリートが抉られているようだ。周辺には真新しい破片が飛び散っており、つい最近どころか、ほんのさっき刻み込まれた傷に見えた。
どんなことをすれば、こんな痕跡が……そう考えていた時だった。
「いっちぃ、危ない!」
不意に、琴音が警告を発した。
振り返った瞬間、赤黒い霧が目の前にまで迫っていた。
獄鏖鬼が現れた、一月に許されたのはそれを理解することだけで、逃げる猶予など与えられなかった。首が掴まれたと思った次の瞬間、一月の身体は建物の壁に叩きつけられる。
「があっ!」
痛みに悶える暇などなかった。
いつの間にか現れた獄鏖鬼は、一月の首を掴んだままその身を建物の壁に押しつけ続けていた。
《お前、あの時殺し損ねた奴か……》
殺戮の象徴と称される鬼は、その円球のような目で一月を捉えていた。その全身を覆う赤黒い霧が、炎のように揺らめくのが見えた。
「は、放せ……!」
振りほどこうと身動きする一月、そのポケットからクマのマスコットが落ちた。
《ん?》
獄鏖鬼が怪訝な声を発したと思うと、突然首を掴む手が離された。
「ぐふっ、ごほっ……!」
地面に伏し、一月は咳き込みながら呼吸を取り戻す。
首を絞められていた時間はほんの数秒だったので、身体への影響は重くはなかった。
一体、どうして……そう思った一月は、獄鏖鬼へと視線を向けた。大勢の人間の命を奪った怪物は、一月のポケットから落ちたクマのマスコットを凝視していた。
(何だ……?)
獄鏖鬼が一月に向き直り、その顔部分の霧が晴れる。
その下の顔が、左半分だけ覗いた。
(えっ……?)
咳き込むのも忘れて、一月はその顔に視線を釘付けにした。
たとえ左半分だけでも、彼が誰なのかは分かった。一月は我が目を疑ったが、彼の瞳には間違いなく真実が映っていたのだ。
獄鏖鬼の霧から顔を覗かせた少年もまた、驚きに表情を染めていた。
お互いに驚愕する中、先んじて口を開いたのは彼の方だった。
「まさか、お前……一月か?」
見間違いであって欲しいと思っていたが、その言葉で一月は確信を得た。
目の前にいる彼が、獄鏖鬼の正体が誰なのか……否応なく思い知らされる。
「れ、蓮……!?」




