其ノ弐拾七 ~覚醒~
父親を殺し、図らずとも母親を殺し、死んだ妹の両目を抉って家に火を放ち、冷たい雨を全身に浴びながら逃げた時の記憶。それは蓮にとって最も忌まわしく、願わくば跡形もなく消し去ってしまいたい光景だった。
汚い壁に寄りかかり、片手で顔を覆いながら、蓮はその身を小刻みに震わせていた。
水溜まりに映った獄鏖鬼が、語り掛けてくる。
《思い出したか? いや、忘れるはずがないか》
悪魔の囁きのような言葉は、さらに続けられる。
《分かっているだろう蓮、もう後戻りなどできないんだ。お前の選択肢は、俺の力で全てに復讐すること……それ以外にはない》
顔を覆う蓮の指先が、その皮膚に食い込んでいく。
獄鏖鬼によって助長されていた蓮の心の闇が、あの日の記憶を呼び覚まされたことで湧き上がりつつあった。
全ての元凶にして、最も憎むべき相手である父親。虐待されている息子と娘を放置して遊び歩いていた、母親などと思ってもいない女。そして次に、『彼ら』の顔が蓮の脳裏に浮かんだ。
一月と琴音だった。
「っ!」
思わず息を飲んだ。
そして蓮は、懸命にその考えを振り払おうとした。境遇の違いに、少なからず理不尽さを感じてはいた。だが一月と琴音は大事な友であり、同門でもあった大切な存在なのだ。
父親や母親と一緒に、彼らを思い浮かべてしまうだなんて。憎悪の対象という枠組みに、かつての友人達を放り込もうとするなんて……。
自己嫌悪に駆られた蓮は、絞り出すような声で否定した。
「違う……!」
《何が違う?》
憎悪や悪意が全身に絡みつき、自分を引き込もうとしているのを蓮は感じていた。
「あいつらは、一月と琴音は俺の……!」
その時だった。
慌ただしい足音と一緒に、数人の警官が路地の陰から現れたのだ。
「いたぞ、逃走中の服役囚だ!」
「捕まえろ!」
蓮の姿を見るや否や、彼らは水溜まりを踏み付けながら迫ってきた。
踵を翻して逃げようとする蓮を、逆方向から迫っていた警官が不意を突き、背負い投げの要領で投げ飛ばす。
「ぐあっ!」
警官が蓮を押さえつけ、地面にねじ伏せる。
たった一名の少年を拘束するのに、彼らは十数名もの人員を動員していた。殺人犯である蓮を捕まえるという目的のためだから当然だが、そこには一切の容赦がなかった。
警官は蓮の背中に膝を押し当てて身動きを封じ、周りの者は銃口を向けていた。
「もうお前は逃げられやしねえんだ、動くなクズ野郎!」
背部を圧迫されて息が苦しくなる、泥水が口に入ってむせそうになった。
警官達は、皆蔑むような目で蓮を見下ろしていた。無様だと思っているに違いなかった。
(どうしてだ……何で、俺だけが……!)
苦しみに呻きながら、そう思った。思わずにはいられなかった。
何故、自分だけがこんな扱いを受けなくてはならないのか。虐待され、罵られ、嘲られなければならないのか。刑務所の中で幾度も考えてきたことではあったが、いつも結局答えは出ないままだった。
だが、耐えようとは思わなかった。あの過去の出来事を再度見せつけられ、思い出させられた今では、もう耐えられそうになかった。
《次に八つ裂きにしたいのは……こいつらか?》
土と泥の味を噛み締めながら、蓮は答えた。
「こいつら……全員だ……!」
込み上がる憎悪――そして、蓮の全身を赤黒い霧が覆い包み始めた。
血のようなそれはまるで、蓮が抱く怒りや憎しみが具現化された物のようにも見えた。
僅か数秒で、蓮はまた獄鏖鬼へと姿を変えた。今の彼は単なる少年ではなく、『殺戮の象徴』とされる極めて特異かつ危険な鬼だ。警察が大勢来ようが自衛隊が投入されようが、もう止められない。
「な、何だ……!?」
蓮を地面に押さえつけていた警官が、言った。
獄鏖鬼となった蓮の最初の標的は彼だった。地面に伏したままグルリと振り返り、球状の瞳が警官の顔を映す。
次の瞬間、獄鏖鬼は両手で地面を突き放すようにして勢いよく立ち上がった。獄鏖鬼の背に圧し掛かっていた警官が、後方に跳ね飛ばされる。
「があっ!」
警官の身体が壁に叩きつけられ、その拍子に制帽が吹き飛ぶ。
悶える彼の姿を真っ赤な視界の中に捉え、獄鏖鬼は彼に向かってゆっくりと歩み寄っていく。全身の赤黒い霧が、炎のように揺らめいていた。
「ば、化け物!」
「撃て、撃てっ!」
周りからそんな声が聞こえたと思った次の瞬間、銃声が幾度も響き渡った。
何発もの銃弾が放たれる、しかしそれが当たっても獄鏖鬼は倒れるどころか、その歩みを止めることも、他の警官達を振り返ることすらない。ただ、銃弾を受けた部位の赤黒い霧が微かに揺らめくのみだ。
ほんのさっき跳ね飛ばされた警官は、ただ地べたに這いつくばって恐怖に震えていた。もしかしたら足を負傷し、逃げることができないのかも知れない。
しかし、仮に逃げることができたとしても、逃がすつもりなどなかった。獄鏖鬼に狙われた時点で、もう彼の死は決定事項。もう、変える術などない。
「ひっ、ひいいいいっ……!」
情けなく怯える警官、その瞳には涙すら浮かんでいた。
ふと、蓮は脱獄する際に殺した、あの大杉という看守を思い出した。彼は、無抵抗の蓮に容赦なく暴力を振るったが、蓮が獄鏖鬼に変じた瞬間、同一人物とは思えないほどに無様で情けない姿を晒し、命乞いまでした。大杉といい目の前の警官といい、蓮が獄鏖鬼に姿を変えた時の反応は同じだった。それがどこか滑稽に思えた。
赤黒い霧に覆い包まれた手で、警官の首を鷲掴みにして持ち上げる。
「ぐあっ、がっ……!」
警官の足が地面から離れ、バタバタと空を泳ぐ。
苦しみに歪むその顔を見つめながら、獄鏖鬼は口を開く。
《もうお前は逃げられやしねえんだ、動くなクズ野郎……だったか?》
言われた言葉をそのまま返した直後、警官の命は潰えた。
獄鏖鬼が、握り潰す形で彼の首を引き千切ったのだ。胴体から離れた警官の首、そして首を失った胴体がグシャリという音を立てて地面に崩れ落ちる。
飛び散った血しぶきに、周囲が赤く染め上げられた。
銃声が止み、周囲の警官達が沈黙する。目の前の事実が受け入れられなかったのだろう。だが、彼らの瞳は間違いなく真実を映し出していた。凄惨極まるこの出来事は、嘘偽りのない現実なのだ。
「ひっ、いいいいいっ……うわあああああああ――ッ!!!!!」
静寂を破ったのは、若い警官の悲鳴だった。
それを合図にするかのように、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。目の前の化け物、獄鏖鬼に恐れをなしたのだろう。
《今殺した奴で、十分に力が蓄えられたな》
追撃しようともせず、獄鏖鬼は自身の手の平を見つめて呑気に言った。
同化している蓮が、問う。
「どういう意味だ?」
逃げ惑う警官達に視線を泳がせつつ、獄鏖鬼は不敵な笑みを浮かべた。
その右手に、バチリと赤黒い稲妻が纏った。
《すぐに分かる、面白いものを見せてやる》




