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鬼哭啾啾4 ~鬼が哭く~  作者: 灰色日記帳
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其ノ弐拾六 ~血涙ノ刃~


 中学に進学してからも、蓮は父親の虐待から妹を守ることを第一に日々を過ごした。

 蓮が小学生だった頃から相変わらず、父親は機嫌が悪い時の憂さ晴らしを息子にした。殴る蹴るは当たり前で、煙草を押し付けられた痕も増えていた。それを人に見られたくないので、外に出る時は必ず長袖の服を着た。体育の授業でジャージに着替える時は、トイレの個室に入って着替えた。

 自分がどれだけ痛い思いをしようが、妹が、日向が無事ならばそれでいい。蓮のその考えは変わっていなかった。依然として、誰かに助けを求めるという選択肢もなかった。母親もネグレクトを続けていて、家庭のことに関心を向けようともしなかった。何より、下手なことをすれば間違いなくあの父親は怒り狂うだろう。その拍子に、これまでは蓮にしか行っていなかった暴行を妹にもするようになるかも知れない。それは蓮にとって最悪の事態に等しく、絶対に避けなくてはならなかった。

 痛い思いをするのは、自分だけで充分だ。このまま自分が囮になり続けていれば、日向は無事で済む。

 そう思い込んでいた自身が愚かだったと思い知らされるのは、すぐのことだった。


 ある雨の日、学校から帰宅した蓮の目に、居間に仰向けに倒れた妹の姿が飛び込んできた。その瞳は充血していて焦点を結んでおらず、虚空に向かって見開かれていた。

 状況が理解できなかった蓮は、恐る恐る日向に歩み寄った。呼び掛けてみたが、返事はなかった。

 彼女の側にしゃがみ、今一度呼び掛けつつその身に触れてみる。ピチャリという音が鳴り、ヌメった液体が蓮の手の平を濡らした。

 

『えっ……?』


 何だこれ、そう思って自分の手の平を見てみる。

 べっとりと付着した赤い液体――血だった。それが誰の体から流れ出たのかは、考えるまでもなかった。


『日向っ!』


 蓮は日向を抱き起した。

 そうして、彼女の後頭部から背中が真っ赤に染まっていることに気が付いた。日向の頭部が横たわっていた部分を中心に、白いカーペットが鮮血で染め上げられていた。

 死なないでくれ、頼む、死なないでくれ……!

 哀願しながら、蓮は妹の体を抱えたまま揺すった。だが、こんな量の流血をして、人間が生きていられるわけがない。

 日向は、既に死んでいた。命を失った妹は、蓮の呼び掛けに応じることも、彼を向くことすらなく、ただ人形のようにその頭をグラグラと揺らすだけだった。

 絶望、悲しみ、それらが一気に込み上がってきて、蓮は絶叫した。


『うわあああああぁぁぁぁぁあああああ――ッ!!!!!』


 心の支えを失った。守れなかった。死なせてしまった。

 何で、何でこんな……そう思った時だった。


『おい……うるせえぞ!』


 蓮は振り返った。いつからそこにいたのか、父親が後ろに立っていた。

 殺す気でやったのか、そうではなかったのかは分からない。だが、誰が日向の命を奪ったのか。答えはこの状況が物語っていた。

 自分が囮の役目を引き受けていれば、妹は虐待の対象にはならない。その蓮の考えは完全に筋違いだった。彼は、自分の父親の残虐性を完全に見誤っていたのだ。

 蓮が迎えてしまったのは、最悪の結末に他ならなかった。

 出会い頭に、父親は蓮を乱暴に突き飛ばした。


『がっ!』


 蓮の額がテーブルの角に打ちつけられ、皮膚が切れて血が流れる。蓮に抱えられていた日向の身体が蓮の手から離れ、居間に倒れた。

 

『けっ、クズが』


 父親からは酒の臭いが漂っていた。それに、男の顔は赤くなっており、足取りもおぼつかない様子だった。職場で何かがあれば、彼はよく大量の酒を飲んで酔い、荒れていた。どうやら、今日はよほど嫌なことがあったらしい。

 額を押さえ、痛みに悶えながら、蓮は言った。


『何で、何で日向を……!』


 流れた血液が目に入り、ピリピリと痛んだ。


『ジュースをこぼしやがったんだ。ムカついてビール瓶でぶん殴ったら、くたばっちまった』


 罪悪感の欠片もなく、父親は言った。自分の娘を殺したというのに、まるで虫を潰した後のような口ぶりだった。酔い過ぎて、人の命を奪ったということすら理解できていないようにも見えた。

 飲み足りなかったらしく、男はテーブルの上にあったグラスに一升瓶から酒を注ぎ、それを一気に飲み干した。そして空になったグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、『畜生が』と吐き捨てた。

 蓮に向き直ると、


『おい、それをどっかに片付けておけ。そんなとこに転がしといたら邪魔だ』


 日向の遺体を顎で指し、そう言った。

 自分の娘を物のように扱う言い方に、蓮の中で何かが壊れた。

 それ、だと……!? 幼少期から受け続けてきた虐待で、蓮は既に男への怒りや憎悪も、抵抗する気力も失ってしまっていたはずだった。ただ、全てを受け入れて耐え忍ぶこと、自分にできるのはそれだけだと思っていたし、これまでもそうして生きてきた。

 しかし今、蓮の中では父親への怒りが湧き上がっていた。これまで散々自分を痛めつけ、挙句妹を殺したあの男に対する怒り、それに憎悪が、マグマのごとく煮え滾っていた。そういう類の感情はとうの昔に諦めに塗り潰され、失ってしまったと思っていたが、そうではなかったようだ。

 おもむろな様子で台所に行き、蓮はシンクから包丁を取り出した。それは家にある中で一番大きな包丁だった。

 父親は、テーブルの側に立ったまま酒をあおり続けていた。その背中に向かって、蓮はゆっくりと、しかし確実に歩み寄る。窓の奥で雷鳴が轟き、手にした包丁の刃が眩く輝いた。涙と血液が混ざった液体が蓮の頬を伝っていく、まるで血の涙を流しているようにも見えた。

 父親との距離が狭まっていくにつれ、心臓の鼓動が速く、強くなるのを感じた。

 自分の息子が刃物を手に迫ってきている、しかし男はそれに気付かなかった。酔い過ぎて注意が散漫になっていたのか、それとも蓮は自分に完全に飼い慣らされ、牙を剥くことなどないと思っていたのかも知れない。

 その油断、そして息子の身体にも自分と同じ、暴力性と凶悪さを秘めた血が流れているのを見抜けなかったことが、男にとって命取りとなった。

 父親との距離が三メートルくらいの場所まで接近した時、蓮の殺意は爆発した。


「うがああああああぁぁぁぁぁあああああ――ッ!!!!!」


 獣のごとき咆哮を上げつつ、蓮は突進した。

 父親が驚き振り返る、その時にはもう蓮は包丁を逆手に持ち、男の胸目掛けてそれを振り上げていた。父親が何か声を出しつつ、後ろへ下がろうとする。だが完全に不意を突かれ、間に合うはずはない。

 積年の恨み、憎しみ、そして怒りをぶつけるような勢いで、蓮は全身の力を込めて包丁を男の胸に突き刺した。肉を裂き、骨を削る感触が伝わってきた。


『うぼっ、があッ……!』


 奇妙な声を漏らす父親が身を屈ませる、蓮は攻撃の手を緩めることなく、蹴りを見舞った。

 実の父親(蓮は、この男を父親などと思っていなかったが)に向けるものとは思えない、容赦の欠片もない一撃は男の顔面を直撃し、その大きく筋肉質な体が仰向けの体制で床に倒れ込む。

 その振動でテーブルが揺れ、酒の入った一升瓶が転がって床に落下し、バリンと音を立てて砕けた。しかし男にも蓮にも、そんなことを気に留めている余裕はなかった。

 

『ぐあっ、う、ぎぃッ……てめえっ、何しやがっ……ごぼッ……!』


 その口から鮮血を溢れさせながら、男はイモムシのように身をよじらせ、悶え苦しむ。

 包丁は、その刃の部分のほぼ全てが胸に突き刺さっていた。しかし急所は外れていたらしく、即死とはならなかったようだ。

 しかし、即死であろうがそうでなかろうが、男の運命は変わらない。

 殺してやる。

 殺してやる。

 殺してやる……!

 心臓の鼓動とともに、殺意が湧き上がってきた。

 少しの間、その瞳に瀕死の父親の姿を映した後、蓮は男の腹部に馬乗りになり、包丁を一気に引き抜いた。


『ごぶっ、ぐえッ……!』


 鮮血が噴き出て、蓮の顔が赤く染め上げられる。

 包丁を逆手に持ち替え、蓮は父親の腹部を、顔を、そして首を何度も何度も突き刺し、そして切り付けた。最初は声を上げていた男も、すぐに何も言わなくなった。いや、言えなくなった。

 こいつは死んだ、絶命した。それを理解してもなお、包丁を振り下ろす蓮の手は止まらなかった。

 鮮血と一緒に、肉片や体液、それに眼球や鼻、耳といった顔のパーツが千切れて弾け飛ぶ。常人ならば吐き気を催すであろう光景だったが、殺戮衝動の権化と化した蓮は、不快さなど微塵も感じなかった。薄暗い居間に、包丁が肉体を裂く鈍い音と、蓮の咆哮、そして雷鳴が響き続けた。

 どれくらいの時間が過ぎたのか、我に返った蓮の前には、顔面が全壊し、血まみれの肉塊と化した父親がいた。何度刺したのかなど到底分からず、息子の逆襲を受けた男の末路は、惨いという言葉では到底収まらないものだった。


『はあっ、はあ……!』

 

 呼吸を荒げる蓮、その手から血に染まった包丁が滑り落ちる。男を殺した凶器は、その先端を下に向けて落下し、床に垂直に突き刺さった。

 その時だった。


『な、何っ……!? 何なのよこれっ!』


 甲高い女の声に、蓮は振り向いた。

 そこには彼の母親である女がいた。父親の殺害に夢中だった蓮は、彼女が帰宅したことに気付かなかったのだ。

 惨殺死体と化した夫を視界に捉えたのだろう、分厚い化粧が施された女の顔が、驚きと恐怖に染め上げられる。彼女は蓮に駆け寄ると、その首を鷲掴みにしてきた。濃厚な香水のにおいが鼻腔に飛び込んでくる。


『あんたなの、あんたがやったのっ! どうなのよっ!』


 ヒステリックで耳が痛くなりそうなその声は、まるで超音波だった。

 地獄さながらの惨状を前に、精神錯乱に陥っているように見えた。どぎついネイルが施されたその爪が、蓮の首に食い込む。


『ぐっ……! ああっ!』


 痛みから逃れようと、蓮は反射的に母親を前方に突き飛ばした。

 それほど力を込めてはいなかったが、女の華奢な体は後方によろめき、その両手が空を掻く。バランスを崩した彼女は、そのまま背中から床に倒れ込んだ。


『ぐげっ……!』


 その瞬間、母親が奇妙な声を発した。

 えっ? 蓮は困惑した。何故母親がそんな声を発したのか分からなかったのだ。

 首を押さえて咳き込みつつ、蓮は母親に歩み寄った。彼女は立ち上がろうとせず、ビクビクと全身を震わせていた。見開かれたその目が、みるみる充血していく。

 

『母さ……』


 呼び掛けようとした時、蓮はそれに気付いた。

 母親の首から、ガラス片が突き出ていたのだ。いや、正確に言えば、ガラス片が彼女の首に突き刺さっていた。

 蓮が父親に蹴りを喰らわせた時、その振動で床に落ちて割れた一升瓶があった。偶然にも、その底の部分が床に立っていた。しかも、割れた断面が鋭利に尖り、それ自体が刃物のようになっていた。

 蓮の母親は、倒れた拍子に首をその割れた瓶に突き刺したのだ。


『うぶっ、うげっ……ぐえっ……!』


 不気味な声とともに、鮮血が口から溢れ出る。その様子は、父親を包丁で刺した時と同じだった。

 父親を殺した時、蓮には明確な殺意があった。しかし、今度はそうではなかった。これは全く予想外の事態であり、不幸の連鎖、恐ろしい偶然が生み出した状況だった。

 瀕死の母親を前に、蓮はただ座り込んだ。できることはなかったし、何かをしようとも思わなかった。

 およそ十数秒間の後、蓮の母親は、夫の息子への暴力を黙認するという形で加担していた女は死んだ。

 もがき苦しみながら絶命したせいで、手足がそれぞれ意味不明な方向に伸ばされ、その死に様は出来の悪いマリオネットのようだった。

 三人の死体が転がる居間には、血と人肉の臭気が漂っていた。

 瓶で頭を砕かれた日向、蓮にメッタ刺しにされた父親、割れた瓶に首を突き刺された母親。虐待の現場だったこの居間は、凄惨極まる殺人事件の現場へと変じた。三人分の血液が流れ出て、一面が血の海となっていた。

 地獄さながらのその場所で、蓮は顔や手にべっとりと付いた血を拭おうともせず、ただ茫然としていた。出間家の人間で、生き残ったのは彼だけだった。

 蓮はふと、日向に歩み寄った。

 父親や母親とは違い、この中で一番最初に命を落とした日向は、唯一の蓮の味方といえる存在、心の支えだった。

 虚空に向けて見開かれたままの目は、やはりどこにも焦点を結んでいなかった。蓮は彼女を守ってきたし、これからも守り続けるつもりだった。その身に触れてみると、冷たかった。命を失った妹は、もう体温など宿していなかった。

 絶望と悲しみが、不可視の錘となって蓮に圧し掛かる。


『日向……!』


 その時だった、日向の目がギョロリと動き、蓮を見たのだ。


『ひっ!』


 蓮は思わず後ずさる、すると命を失ったはずの妹の声が、彼の頭に浮かんだ。


《お兄ちゃん……どうして助けてくれなかったの?》


 淡々としていて抑揚を欠いたその声は、大声で罵られる以上に強く、そして深く蓮の心を抉った。


『や、やめてくれっ……!』


 しかし、蓮を責める言葉は止まらない。


《すごく痛かったよ、苦しかったよ……》


 蓮は耳を塞いだ、だがそれでも、妹の呪いの言葉は遮れない。


《赦さない》


 すでに限界を迎えていた蓮の精神が、ついに崩壊した。


『やめろおおおおお――ッ!!!!!』


 そこからの出来事は、今となってはもうおぼろげにしか覚えていなかった。

 蓮は父親を殺す時に使った包丁を拾い上げ、日向の両目を突き刺した。何でそんな凶行に及んだのかは分からない、精神に異常を来たしていたあの時は、そうすれば恐怖や罪悪感、それに妹の呪詛から逃れられるとでも思ったのかも知れない。

 そして彼は、家族達の死体が転がる居間に灯油を振り撒いて火を放ち、雨の中を裸足のまま逃げた。

 家族の死体や家と一緒に、自分の記憶も焼き捨てることができればどんなに良かったか。そう思わずにはいられなかった。

 とりあえず雨をしのげる場所を探した。そして、近所にある橋の下に身を潜めていた。

 パトカーのサイレンが聞こえて、続いて誰かが迫ってくる足音……それらが聞こえても、逃げようとも思わなかった。逃げ切れるはずはないし、仮に逃げた所で、今の蓮には行く当てなどない。

 数人の警察官が、ライトで蓮を照らした。血だらけの姿を見て、彼らは息を飲んでいた。


『出間……蓮だな?』


 その問いに、蓮は何も答えなかった。






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