其ノ弐拾五 ~涙ノ行末~
両親の目を盗んで剣道場に通い始めて数年が過ぎ、小学六年生の夏休み最後の日のことだった。
蓮は一月と琴音に誘われ、近所の神社で行われた祭りに行った。他にも一月と琴音の友人が数人いて、日向も一緒に連れて行った。その日は運よく父の勤務が遅番で、偶然も味方してくれたのだ。
向かい合う狛犬の間をくぐり、長い階段を上がると、その先には数多くの出店が並んでいた。焼きそば、たこ焼き、焼き鳥、焼きとうもろこし、イカ焼き、お好み焼き、かき氷、綿あめ、チョコバナナ、クレープ、リンゴ飴……食べ物以外では、くじ引きや金魚すくいもあった。
蓮には所持金などなかった。しかし一月と琴音が、彼らが買った物を分けてくれたのだ。日向も大喜びだった。
すまねえ、と言った蓮に、一月と琴音はただ『大丈夫だよ』と言った。祭りに無一文で来るなんて、普通ならおかしいと思うはず。しかし一月も琴音も、それ以上は何も言わなかった。分けてもらったたこ焼きやクレープを味わいながら、蓮は彼らと友達になれて良かったと心の底から思ったものだった。
他の少年少女達は帰宅し、日向がトイレに行っている間のことだった。神社の境内に御神木として祭られている大きなケヤキのそばで、琴音が何かを一月と蓮に差し出したのだ。
それは、携帯電話からぶら下げるくらいの大きさの、ミニサイズで可愛らしいクマのマスコットだった。
『このクマさんね、私が作ったの。いっちぃと蓮にあげようと思って』
夏の香りを纏った風に、琴音の白い浴衣が揺れていた。
彼女は蓮をじっと見つめ、どこか悲しげな面持ちで言う。
『蓮、もう何か月かでお別れなんだろうけど……中学行ってからも忘れないでね。いっちぃのこと、それから私のことも』
小学校卒業を期に、蓮は剣道を引退することを決めていた。
思い出の拠り所として、琴音はこのマスコットを作ってくれたに違いなかった。手の平の中で笑う、琴音の愛情が込められたクマ。蓮がそれにじっと視線を落としていた時だった。
『離れてからも、僕達はずっと友達さ』
一月が、そう言ってくれた。
こんな良い友達がいること、それ以上に幸せはないと蓮は思った。
両親から受ける虐待、その痛みは体だけでなく、心にも染みついていた。しかしそれを乗り越えてここまで生きてこられたのは、一月と琴音のお陰と言っても間違いではなかった。
別れたくなどない、いつまでも彼らと一緒にいたい。
卒業するのはまだ半年以上も先だというのに、蓮は思い極まって涙を流しそうになってしまった。そして、歯を食いしばる気持ちで、どうにかそれを堪えた。
その翌年の三月、卒業式を終えた蓮は、制服姿のままその足で道場へと向かった。
一月と琴音と最後のお別れをする予定だったのだが、一足先に向かい、数年に渡って剣道を学んだ思い出の場所を道場磨きしようと思った。それこそが、自分にできる最高の恩返しだと考えたのだ。
ここに来るのも、今日が最後か。そう思いつつ、玄関脇の用具入れから自在箒とバケツ、それに雑巾を取り出し、それらを両手に道場の入り口を開けた。
信じられないことに、道場にはすでに一月と琴音がいたのだ。
蓮は驚いたが、一月と琴音も驚いたに違いなかった。
その時も、いつも通り蓮は飄々とした明るい雰囲気でふたりと話した。一月と琴音に、決して弱さを見せないこと。それが彼にとってのルールだった。友人達に、余計な心配をかけたくなかった。
『埃溜まってんな。ったく、掃除当番何やってんだよ。一月、ちょっとバケツに水汲んで来てもらっていいか? はは、やっぱ拭き掃除もしなきゃ駄目だなこれ』
そんな軽口で、別れへの辛さを押し殺していた。
その後、一月と琴音はそれぞれに蓮へ感謝と、別れの言葉を贈ってくれた。
『琴音、これは返す』
蓮はそう告げて、祭りの時に琴音から贈られたクマのマスコットを彼女に手渡した。
『お前に貰ったそのクマ、俺ずっと大事にしてた。そのクマには俺の気持ちが込められてんだ。だから、それを俺だと思ってくれれば嬉しいな』
いらないから返すのではない。
自分を忘れないでいて欲しい、という気持ちを受け取って欲しくて、蓮は一度は自分の物になったクマを琴音に『贈った』のだ。
少しためらうような素振りを見せた後、琴音は蓮からマスコットを受け取り、胸元でぎゅっと握りしめた。
これ以上ここにいると、もう気持ちを抑えられなくなりそうだった。
立ち去ろうとした蓮の背中に、
『君に会えて良かった。蓮のこと、僕は絶対に忘れない……!』
『蓮、私も忘れない。あなたのこと、ずっと……ずっと……!』
最後の別れの言葉が、贈られた。
蓮は振り返らなかった。ただ、その瞳から一筋の涙が頬を伝い、道場の床に落ちた。
いつからだったか、恐らく物心ついた頃から、蓮はどれだけ苦しくとも泣かないと決めていた。暴力に屈せず、折れずに立ち向かい続けること、それこそが父親への最大の報復だとも思っていた。
決して涙は流さない、その誓いを最高の形で破ることができたと感じていた。
一月と琴音に背を向けたまま、蓮は手を振った。そしてそれ以上は何もせず、何も言わず、彼は道場から去った。
自分を苦しみから連れ出してくれた、大切な友達。蓮は一月と琴音をそう思っていた。
彼らと最悪の形で再会することになるとは、程遠くない未来、自分が獄鏖鬼として牙を剥き、一月と琴音に襲い掛かるとは――微塵も考えはしなかった。




