其ノ弐拾四 ~心ノ傷~
拒否されて当然の申し出だとは、蓮自身が一番よく分かっていた。
しかし男性はじっと蓮と視線を重ねた後、首を縦に振ってくれたのだ。彼は何も問いただそうとせず、『分かった。君は今日から、僕の弟子だ』と告げた。
その日、蓮は早速稽古を受けた。といっても防具も身に着けずに、ただ竹刀を振ってみたり、構え方や足さばきを教わるだけの簡単なものだった。
一時間くらい稽古をつけてもらった時、男性は蓮に訊いてきた。
『君は、どうして強くなりたいんだい?』
答えるのはためらわれたが、蓮は彼になら本当のことを言ってもいいと思った。
さっき初めて会い、ほんの一時間剣道の稽古をつけてもらっただけで、この人は信用していい、この人には心を開いても大丈夫だ。そう感じられたのだ。
道場に座り込んだまま、蓮は答えた。
『守りたい人がいるんです』
男性は、それ以上は何も訊いてこなかった。ただ、『そっか』と応じた。
そろそろ、帰らなくてはならない時間だった。工場勤務の父親の就業時間は一週間刻みで変わる、七時から十五時までの早番、十五時から二十三時までの遅番、二十三時から翌朝七時までの夜勤の三パターンだ。
今週は遅番だから、遅くとも十五時半くらいには父が帰ってくる。それまでに部屋を掃除しておかなくては、また殴られてしまう。
『練習したくなったらまたおいで、いつでも稽古をつけるから』
どうして分かったのか、男性は蓮が帰らなくてはならないことを察した様子だった。ただの偶然なのかも知れないが、蓮には彼が自分の心を読んだようにも思えた。
しかしあることが引っ掛かり、蓮は言う。
『あの、でも俺……!』
すると、蓮の言葉をやんわりと止めるようにして、彼は言った。
『ああ、お金なら大丈夫さ、気にする必要なんかないんだよ』
またも彼は、蓮の言葉を先読みしたかのように言ったのだ。
優しい笑顔を浮かべる彼が、蓮にはまるで神様のようにも思えた。この人が俺の父さんだったら……と、思わず思ってしまった。
彼は神妙な面持ちを浮かべて、続けた。
『だから、もしも悩みがあるなら打ち明けてくれてもいいんだけど……どうかな?』
その言葉に、蓮は思わず息を飲んだ。
もしかしたら、彼は蓮が抱いている苦しみや、悲しみを見抜いているのかも知れなかった。
けれど、話すことはできなかった。誰かに言えば、きっと殺されてしまう。父親の言葉が、不可視の鎖となって蓮を縛り上げていたのだ。
『ごめん、余計なお世話だったね。話せないなら大丈夫だよ、気にしないで』
誰かが気遣ってくれたことが、たまらなく嬉しかった。人の優しさに飢えていた蓮にとって、彼との出会いは大きな出来事だったのだ。
別れ際に、蓮は彼の名前を訊いた。黛玄正という彼の名を教えてもらった後で、蓮も名乗った。
その日以降、蓮は両親や妹には内緒で、放課後や土日に道場へ足を運んだ。父親の勤務日程表は蓮も見ることができたから、その目を盗むのは難しくなかったし、母親は遊び歩いてばかりで家に帰るのは大体が深夜、そもそも子供を放置している彼女にバレたところで、何の問題もありはしなかった。
受講料を払えない蓮は、正式な手続きを踏んで剣道場へ入門したわけではなかった。しかし黛も、誰もそのことを咎めはしなかった。
剣道場に通い始めてから程なく、蓮は黛からある女の子を紹介された。
蓮同様に、黛に師事して彼に剣道を教わっているという彼女は、蓮の同門である子だった。黒い髪を短く切り、試合の際には男の子にも勝る掛け声を上げ、勇ましく竹刀を振っていたその少女は、名を秋崎琴音といった。蓮が初めてここを訪れた際、すれ違った子だった。
彼女が最初の仲間で、後にもうひとりの仲間が増えた。蓮よりも遅れて入門してきた少年、彼こそ、金雀枝一月だったのだ。
時間の制限こそあれども、蓮は一月と琴音と一緒に稽古に励み、笑い合い、励まし合いながら日々を過ごした。それは本当に幸福な時間で、彼らといる間は父親のことを忘れられた。
勝手に道場へ通っているのがバレるかも知れない、その恐怖は常にあった。しかしそのリスクに対して、この場所で得られるものはとても大きかった。日々の虐待で疲れた体や心も、一月や琴音と笑い合っていると癒えていくのが分かった。
しかし、蓮は一月や琴音に対しても虐待を受けていることは隠し続けていた。それは、決して知られてはいけない彼だけの秘密だったのだ。『家に遊びに行ってもいい?』と一月や琴音に提案されたこともあったが、その度に理由を付けて断っていた。虐待の現場に他ならないあの場所に、友人達を連れていくことなど絶対にできなかった。ましてやあんな両親に彼らを合わせるなど、まさに言語道断だった。会話の時にも、蓮は両親の話は決して出さなかった。
しばしば、蓮は道場で一月や琴音の親を目にしていた。鬼のようだった蓮の親とは全く違い、我が子を愛し、慈しむ、本来あるべき『親』の姿。それを瞳に写すたびに、腕や背中に刻まれた火傷の痕が疼き、表現しようのない痛みが胸に込み上げた。
あの二人と自分とで、境遇が逆であれば――蓮は一瞬そう思い、そして懸命にその考えを振り払った。
だが、少なからず彼は、心のどこかで一月と琴音を妬んでいた。まともな両親がいる彼らを羨み、そして憎んでいた。
それは本当に小さな負の感情で、蓮には自覚すらないほどのものだった。
決して、一月と琴音を露骨に嫌悪するようなことはしなかった。どんな思いがあっても、彼らは蓮の同門であり、友人だった。
しかし、蓮に取り憑いた負念は消えはしなかった。
何年も先、自分が恐るべき鬼となるなど、化け物に姿を変えた自分が、凄惨極まる事件を引き起こすことになるなど……この時の蓮は考えもしなかった。
いや、蓮でなくとも、そんな未来を予期できる人間など、この世には存在しない。




