其ノ弐拾参 ~心ノ支エ~
蓮より二歳年下の妹は、名前を日向といった。
出間日向――自分同様、蓮は彼女もまた、望まれて生まれたのではないと考えていた。暴力的な父親と、育児放棄をする母親の負の産物、自分の片割れのような存在と思っていたのだ。
両親を両親だと思っていなかった蓮にとって、日向はただ一人の家族であり、心を許せる存在、守るべき相手だったのだ。彼女に悪影響が及ばないよう、蓮はいつも両親が散らかしたビールやチューハイの空き缶や、灰皿代わりにされていたカップラーメンの空き容器を片付け、シンクに積み上げられた使用済みの食器を洗い、埃っぽい部屋に掃除機をかけた。
蓮が父親から暴行を受けた時、日向はいつも『お兄ちゃん、大丈夫?』と声を掛けてくれた。両親とは似つかず、日向は兄想いの優しい子で、彼女の存在が蓮にとっては何よりの支えになっていたのだ。
そして、同時に蓮は日向が虐待の標的になることを恐れていた。幼いからか、それとも女の子だからなのか、もしくは他に理由があるのかは分からない。何故か父は蓮だけを虐待し、日向を標的にすることはなかった。
どうして、自分だけを? 蓮は幾度かそう思った。しかし、同時に妹に手が及ばないことに安心してもいた。日向が無事ならいい、こんな苦痛を味わうのは自分だけで十分だ。そう思っていたのだ。
しかし、蓮はこのまま、日向が標的にならない保証などないことは分かっていた。激情に駆られやすい、ひとたび頭に血が上れば何をするか分からないあの男だ。何かの拍子に、その憎悪が日向に向けられたら――煙草の火を体に押し付けられる程度では、済まされないかも知れなかった。
ある晩、蓮は妹が虐待を受ける夢を見て目が覚めた。
夢の中での、罵声を放ちながら日向の体に蹴りを入れる父親、耳を塞ぎたくなるような日向の悲鳴……飛び起きた蓮は、それらを思い出して恐怖に身を震わせた。そして、隣で気持ちよさそうに眠る妹を見て心底安心したものだった。
今は俺だけだが、もしも日向まで親父の標的になったら、どうすればいい?
小学校の帰り道で、蓮は幾度もそう考えた。月日が経つごとに、その不安は増していった。
誰かに助けを求める、それは論外だった。父親はしきりに、『誰かに言ったら、俺は必ずお前を殺す』と釘を刺してきたのだ。それが単なる脅しではないことは、蓮の腕や背中に刻まれた火傷の痕が証明していた。
あいつは普通じゃない、頭のイカれた化け物だ。誰かに助けを求めたりすれば、きっと殺される。それが蓮の結論だった。
では、どうするべきなのか……いつものようにそれを考えつつ歩いていて、蓮はある建物に目を留めた。
一階建てで、少しばかり年季が入って入るものの、古風で独特な趣を持つ道場――鵲村修剣道場だった。考えながら歩いているうちに、偶然にもここに辿り着いてしまったようだった。
味のある筆字で書かれた表札を見て、蓮はある考えを抱いた。
誰にも助けを求められないならば、自分が強くなるしかない。いざとなれば、自分の手で妹を守らなくてはならないのではないだろうか。芽生えたその考えが、一瞬のうちに蓮の頭を満たしていった。
そして、強くなるにはどうすればいいのか。目の前のこの建物こそが、その答えであるように思えた。
剣道、か。俺も強くなれるんだろうか? 日向を守れるようになるんだろうか?
そう考えていた時だった、道場の引き戸が開いて、そこから女の子と男性が姿を現したのだ。
竹刀袋を背負ったその女の子は、年は蓮と同じくらいで、短い髪形をしたいかにも活発そうな子だった。彼女は男性に『黛先生、さようなら』と声を掛ける。男性は、『またね、琴音さん』と返し、互いに手を振り合うと、『琴音』と呼ばれた少女は蓮に向かって駆けてきた。
少女は気づかなかったが、すれ違う最中、蓮は横目で思わず彼女を見つめた。
可愛い子だと思った。活き活きとした様子の彼女の横顔は、とても輝いて見えた。蓮はきっと、あの子は自分とは違い、恵まれた環境にいるのだろうと思った。ろくでもない親に産み落とされた自分とは違い、鬱屈さとは縁もゆかりもない、愛情という光を一身に受けて育った子なのだろうと思った。
走り去っていく彼女の背中を、ぼんやりと見つめていた時だった。
不意に肩を叩かれて、蓮は振り返った。すると、あの女の子を送り出した男性が目の前にいた。
男性はその場にしゃがみ、蓮と視線の高さを合わせ、『なあ君、見かけない子だけど……どうかしたのかい?』と声を掛けてきた。彼の声色はとても優しげで、蓮の父親とは大違いだった。
蓮は少し黙った。
ほんの十数秒の間に、彼はあの夢を思い出した。妹が父親に虐待され、泣き叫んでいる夢だ。あの夢に続きがあるのならば、その結末は分かりきっていた。日向も蓮と同じように煙草の火を体に押し付けられ、凄絶な暴行を受け続け、そして……その先のことを考えると、恐ろしさに身が震えそうだった。
あの夢を、絶対に現実にさせてはならない。俺が日向を守らなければ、それには、強くならなければ。そして目の前にある道場こそ、自分が強くなれる場所だと感じた。
望みは限りなく薄いと分かっていた。しかし蓮は意を決し、男性へ言った。
『あの、剣道って……俺も習わせてもらえますか?』




