其ノ弐拾弐 ~憎悪ノ発端~
鬼。
そんな邪悪で、恐ろしくて、忌まわしい化け物が本当に存在するのなら、それは自分の父親だ――蓮はそう思っていた。両腕や背中に刻まれた痣や、煙草を押し付けられた痕が疼くたびに、そう思わずにはいられなかった。
全ての命は祝福されてこの世に生まれ出る、そんな言葉をどこかで聞いたことがあったが、蓮にとってそれは単なる綺麗事に過ぎず、唾を吐きたくなるような戯言であり、現実を知らない世間知らずが唱えた、反吐が出る理想論でしかなかった。
少なくとも自分は、必要とされて生まれ出た命などではない。両親にとって自分は不要で、厄介者で、言わば使い捨ての道具なのだ、蓮はそう思っていた。
父親と母親。蓮にとってそれらは、悪意という黒い鎖で繋がるただの肉塊に過ぎなかった。
いつからそうだったのか、そんなことはもう覚えてはいなかった。
あえて時期を挙げるならば、きっとまだ蓮が幼き頃から――物心ついた時には既に、彼の父親は鬼のような人間だった。鬼畜という言葉も生温いどころか、人間の皮を被った化け物と称しても足りない、とにかく言葉で表現しきるのは不可能な男だった。
男は事あるごとに、蓮に体罰を与えた。起きるのが遅い、部屋が散らかっている、声が小さい、時にはただ目つきが気に食わないという理由で、容赦なく殴る蹴るの暴行を加えたのだ。
蓮は何度か、父親の口から『これはお前のためにやっているんだ、愛の鞭なんだ』という言葉を聞いた。しかし、とてもそうは思えなかった。男の行為は『躾』の範疇を明らかに逸脱しており、単なる暴力に他ならなかった。蓮を痛めつけることを楽しみ、日々の鬱憤を晴らしているのだ。
人の目を気にしてなのだろう、男は蓮の腹部や腰、それに上腕など、基本的には衣服に隠れる部分しか殴らず、蹴らなかった。頬を張られて痣になったことがあったが、『その痣のことを誰かに聞かれたら、転んでぶつけたと言うんだ。さもなくばもっと厳しい罰を与える』と釘を刺された。
遊び歩いてばかりいた母親も、家にいた際には息子に暴力を振るう夫の姿を幾度も目にしているはずだった。しかし夫を止めてくれたことなど一度もなく、時には煙草を吸いながら薄ら笑いまで浮かべ、痛めつけられる蓮を見つめているだけだった。
息子への暴力を黙認していた母親――いや、蓮にはとって彼女は母親ではなかった。その女に、そんな価値などなかった。いつもその顔に厚化粧を施し、波打たせた髪を派手な色に染め、いつもきわどい丈のスカートを履き、夫が稼ぐ金で連日のように遊び歩いていた彼女も、蓮にとっては父親と同罪だった。そもそも、あんな男と結婚する時点でまともな人間ではないのは明らかだった。
いかにも淫らで猥雑で、汚らしいメス猫のような女。父親同様、母親もまた、蓮にとっては憎悪の対象に他ならなかった。自分はこんな女から生まれ出たのだと思うと、気がおかしくなりそうだった。
父親からの体罰の中で、蓮が最も恐れていたものがあった。
それは俗に言う根性焼き、つまり火が付いた煙草を体に押し当てる行為だった。
職場で何か不愉快なことでもあったのか、その日の蓮の父はよほど機嫌が悪かったようだった。蓮が使い終わった食器を誤って床に落とし、割ってしまったのだ。それを見た男は、『何やってんだ、このバカがっ!』と怒鳴りながら蓮に歩み寄り、息子の胸倉を鷲掴みにして突き倒し、その背中を踏みつけた。
身の危険を感じた蓮は懸命に謝罪したが、当然ながら聞き入れられはしなかった。
床に押さえ込まれて身動きできなくされ、着ていたTシャツが乱暴に捲り上げられるのが分かった。一体何をしようというのか? そう思った次の瞬間だった。
それまで感じたことのない激痛が、蓮の背中に襲い掛かったのだ。
皮膚が焼ける音とともに、蓮の悲鳴がマンションの部屋中に響き渡った。一度だけでは終わらず、痛みは三度に渡って襲い掛かってきた。幾度も激痛に苛まれ、蓮は声が嗄れるほどに叫び続けた。苦しみに耐えるのが精一杯で、自分が何をされているのかすら分からなかった。地獄さながらのその時間は、まるで永遠のようにも感じられた。
後に鏡で見て、火が付いた煙草を背中に押し付けられたと蓮は理解した。
自身に刻まれたそれは、罪人への烙印のようにも思えた。自分には何の罪もないというのに、ただこんな家庭に生まれたというだけで……そう考えると、言いようのない無力感が込み上げてきた。
理不尽。今の自分の境遇を表すのに、それほど適した言葉はない。蓮はそう思った。この過酷な現実を前に、幼い少年に成す術などなかった。
しかし、折れはしなかった。折れてはいけない理由があったのだ。
蓮には妹がいた。
鬼のようだった両親とは違い、家族と思える存在があったのだ。




