其ノ弐拾壱 ~獄鏖鬼ノ囁キ~
何だ、雨か?
人通りの少ない裏道で、コンビニで買ったホットドッグを貪るように食べながら、蓮は空を見上げた。
少年刑務所を脱走した時、もちろん蓮には所持金などなかった。しかし殺した若者から服を奪って着替えた際、財布も一緒に盗んでおいた。中にはカード類と、数万円の現金が入っていた。
獄鏖鬼に姿を変えている間は空腹を感じなかったのだが、さっきまでは腹が減って仕方がなかった。刑務所で出されたのは臭い食事だけで、ここ数日間はそれすらも与えられていなかった。
こんなまともな食事をするのはいつ以来か、もう蓮自身にも思い出せなかった。
一気にホットドッグを平らげて、道端の自販機で購入したペットボトル入りの水を飲み干す。飢えも渇きも消え去り、蓮は大きく息を吐いて近くの壁に背中を預ける。
ふと、地面にできた大きな水溜まりが目に留まった。何かを感じ、蓮はゆっくりとその水溜まりに歩み寄り、覗き込んでみた。
――水面に映っていたのは蓮ではなく、獄鏖鬼の顔だった。
「うっ!」
驚きのあまり声を出してしまった。しかし蓮は、水溜まりに映し出された『自分の顔』から目を逸らそうとはしなかった。
顔に手を当ててみる、すると水溜まりに映った獄鏖鬼も全く同じ動作をした。
目を疑わずにはいられなかったが、水溜まりに映っているのは正真正銘の真実だった。獄鏖鬼と化した自分の顔を見るのは初めてだったが、蓮は衝撃を隠せなかった。降り注ぐ雨が水溜まりに無数の波紋を作り出す、しかし獄鏖鬼の顔は消えなかった。
(これが俺なのか? 俺は、こんな化け物になって……!)
その時だった、水溜まりに映った獄鏖鬼が口を開いたのだ。
《どうした、別に驚く必要はないだろう?》
今、蓮は獄鏖鬼に変身してはいない。しかし水溜まりに映っているのは間違いなく、『殺戮の象徴』と称される最強の鬼だった。
何も言えずにいた時だった。
「おい、あそこにいるのって、まさか……?」
雨音に交じって、遠方から聞こえたその声に蓮は視線を動かした。
数名の警察官が集まり、こちらを指差していた。ここに来るまでにも、蓮は幾度か警察官の姿を目にした。少年刑務所から受刑者が脱走し、さらに殺人を繰り返している。そのニュースは今や周知のものとなっており、警察が大規模な捜索を行っているようだった。
こんな裏道まで見回っていたのか、蓮がそう思った時、警察官達が足早に迫ってきた。
「なあ、ちょっと君。いいかな?」
雨に紛れて顔がよく見えないのか、警察官達はまだ、目の前にいるのが件の脱獄囚だと確信してはいないらしい。
しかし、蓮はすぐに駆け出した。その場からの逃走を決めたのだ。
「おい、待て!」
呼び掛けに応じず、逃亡した――蓮のその行動から、警察官達は蓮を脱獄囚だと断定したようだった。
制止に一切耳を貸さず、蓮は裏道を駆ける。彼の足が水溜まりを踏み、バシャリという音とともに汚水の飛沫が何度も舞い上がった。
距離が開いていたこと、それに曲がりくねった裏道という地形を上手く利用し、振り切ることに成功した。手近にあった物陰に身を隠し、蓮は呼吸を整える。その場所は資材置き場として使われているようで、古びたブリキ缶や汚れたポリタンクが無造作に置かれていた。
降りしきる雨を全身に受けながら、周囲の様子を窺う。
「くそ、どこに行った……!」
「探せ、まだこの近辺に潜んでいるはずだ!」
警察官達が、血眼になって自分を探しているのが分かった。
中には、拳銃を抜いている者もいた。凶悪殺人犯として手配されている蓮を追っているのだから、当然だろう。見つかってもなお逃走し続ければ、恐らく撃たれるに違いなかった。
ここにいれば見つかる、だが出ていけばきっと撃たれる……どうするべきか、考えていた時だった。
《何故逃げる?》
獄鏖鬼の声がいきなり聞こえて、蓮は思わず息を飲んだ。
《あんな奴ら、俺の力を使って皆殺しにすればいいだろう。言っておくが、俺は銃など痒くもないぞ》
蓮は荒く息をしたまま、何も答えなかった。
《……もしかして、人を殺すことにまだ迷いがあるのか?》
蓮の気持ちを見透かすように、獄鏖鬼は言った。そして、正しくその通りだった。
さっき水溜まりに映った獄鏖鬼の顔を見た時、蓮は自分がどれほど恐ろしい化け物になってしまったのかを知った。十人近くの人間を殺している今、そんなことを言うのは筋違いかも知れないが、躊躇の念を完全に捨てきれてはいなかったのだ。
《ならば、俺が手を貸してやる。俺がお前を完全な鬼にさせてやる》
道に形成された大きな水溜まり。蓮の視線が、無意識にそこに釘付けになった。
その水溜まりは泥に濁り、空き缶などのゴミが浮かんでいて非常に汚かった。
――そう、まるで今の蓮のようだった。真っ当に生きてきた者の人生とは、もっと透明で、穢れがなく、一片の曇りもないものであるはずだ。
しかし、蓮のそれは溜まり込んだ塵のようだった。神が故意に、この世の不幸を全て彼に押し付けたとすら思えた。
もちろんそんなことはあり得ないが、そう思うしかなかった。
そうでも思わなければ生きていられないほど、蓮がこれまで歩んできた十九年という時間は過酷で、壮絶極まるものだったのだ。




