其ノ拾九 ~鬼ノ痕跡~
インターネットを使い、事前に一月は鶫ヶ丘少年刑務所について軽く情報収集をしていた。
法令に違反して裁かれ、刑罰に服すことになった十六歳以上二十歳未満の受刑者を収容し、処遇を行う。その点は他の少年刑務所と同様だったのだが、この鶫ヶ丘少年刑務所に関しては、ある噂があったのだ。
鶫ヶ丘少年刑務所では、看守や受刑者を問わず、刑務所内で暴力行為が横行しており、これまでに何人もの死人が出ている――その記述を目にした一月は、眉間に皺を寄せた。本当かどうかも分からない情報だったが、仮に本当だとすれば重大な問題だった。
少年の更生を促すことを目的とする少年院とは違い、少年刑務所には有罪判決を下され、実刑判決を受けた者が収容される。
血の気の多い若者、それも殺人や放火といった凶悪犯罪を犯すような者が集まれば、暴力行為が起きるのは至極当然のことだった。ましてや、受刑者を監督・警備する立場にあるはずの看守までもが暴行に加担しているとなれば、まるで無法地帯だと一月には思えた。
そんな場所には近づくことすら嫌だったが、行かなければならない理由があったし、迷っている時間もなかった。
一月が今立ち向かおうとしているのは、凶悪犯罪者など問題にならないほどに恐ろしい相手なのだ。
「本当に行くの? いっちぃ」
隣を歩く琴音が問いかけてくる、一月はまず周囲を見渡して、辺りに人の姿がないことを確認した。彼以外に琴音の姿は視認できないし、声も聞こえない。琴音と会話している所を誰かに見られると、一月が独り言を喋っているように見えてしまうのだ。
生い茂った木々や、アスファルトで舗装された道路……視界に入るのはそんな物ばかりで、人の姿は見受けられなかった。
一月は改めて琴音に向き直り、頷いた。
「あの刑務所に行ってみれば、もしかしたら獄鏖鬼について、何か掴めるかも」
獄鏖鬼となった人物が収監されていた刑務所、現時点で手掛かりとなりえるのはそれしか思い浮かばなかった。行った所で徒労に終わるかも知れないとも思ったが、何もせず手をこまねいているよりはいいと考えた。
「そうだね……迷っている時間なんて、ないものね」
草花の香りを内包した風が、琴音の黒髪や白いワンピースを揺らがせた。彼女の横顔は生前と変わらずに美しく、思わず見とれてしまいそうになる。
その時一月は、ふと思った。
これまでと同じならば、獄鏖鬼を止めれば、この怪異が終われば……また琴音とはお別れになってしまうのだろう。そうしたら、もう二度と会えないのかも知れない。
そもそも、琴音は既に命を失った存在なのだ。彼女がここにいること自体、理に反することだ。
だが、それでも一月は琴音と一緒にいたかった。中学の頃から、一月は琴音が好きだった。彼女が亡くなってしまった今でも、その気持ちは変わらなかったのだ。
「いっちぃ、どうかしたの?」
冷静さを取り繕うようにして、一月は答えた。
「いや、何でもないよ」
その後、山道を歩き続け、目的地が近づくごとに誰かの話し声が耳に入り始めた。
バスを降りてからおよそ十五分ほどで、一月と琴音は鶫ヶ丘少年刑務所に辿り着いた。周囲には規制線が張られており、人気がなかったここまでの道とは打って変わったように大勢の警察官が集まっていた。
獄鏖鬼となった人物は、二名の看守を殺害して逃亡した。つまり、ここは殺人事件の現場なのだ。
塀に囲まれており、ほとんど中は見えなかった。しかし一月はすぐに、その場所を視界に捉えた。刑務所の壁の一部に大きな穴が開いていたのだ。
(あの穴か……)
穴の周囲には数人の警察官や、他の作業員らしき人間が集まっていた。もしかしたら、あの穴を塞ぐ工事の計画を練っているのかも知れない。
脱走した受刑者は、刑務所の壁に穴を開けてそこから逃走した。普通に考えればそんなことは不可能だったが、獄鏖鬼の力を使えば容易だろう。
一月と同じように穴を見つめたまま、琴音が言った。
「鬼の気配が、まだ残ってる……」
ここに近づくにつれ、一月も感じていた。邪悪で、禍々しくて、威圧的な、無数に浮かぶ不可視の眼球に、一斉に視線を浴びせられているようなその感覚。他の何物でもない、鬼の気配だ。
何かが燃えればそこに焼けた臭いが残るように、鬼が出現した場所には鬼の気配が残されるようだった。
規制線が張られているし、近づきすぎると周囲の警官に目を付けられそうで面倒だと思った。できるだけ目立たないように、獄鏖鬼が作り出した大穴に近づこうとした時だった。
「まさか、そんなことはありえないですよ……」
鶫ヶ丘少年刑務所の入り口のそばで、三人の警察官が一人の男性と話していた。
その年若い男性はどうやら、この刑務所の看守のようだった。警察官に何か証言しているようだが、聞いてもらえないらしい。
「本当なんです、確かにこの目で見たんですよ!」
真に迫るように言う彼の言葉を、警察官達は笑って流してしまう。
「いやでも、いくら何でも化け物が出たなんて……」
その言葉を聞いた一月は、息を飲んだ。
看守はさらに食い下がろうとする。
「嘘なんか言ってない。大体普通の人間が、あんな風に刑務所の壁を砕けると思いますか、あれは間違いなく……!」
「はいはい分かりました、では、我々はここらで失礼しますよ」
看守の言葉が遮られ、会話は終わらされてしまった。警察官達が一月の方へと歩み寄ってくる。すれ違う最中で、三人の内の一人の警察官が「どうかしてるよな。化け物が出ただなんて……まあ、幻でも見たんじゃないのか?」と笑いながら言っていた。
残された看守は、がっくりと肩を落として呟いた。
「まあ、信じてくれっていう方が無理な話か……」
隣にいた琴音が、
「いっちぃ、あの人獄鏖鬼を……!」
その言葉だけで、琴音が言いたいことは理解できた。
一月は彼女に頷き、その看守へと歩み寄って声を掛けた。
「あの、すみません」
看守が顔を上げ、その視線が一月と重なった。




