其ノ拾八 ~一月ノ行ク先~
獄鏖鬼と遭遇した翌日の午前中、一月はバスに乗ってある場所へと向かっていた。
今日は平日で、本来は大学の講義がある日だった。しかし休講となったのだ。その理由は昨日の夜に起きた、あの事件だった。
少年刑務所から脱走した受刑者が大勢の人間を惨殺し、現在も逃亡を続けている――そのニュースは瞬く間に広がり、街の中には大勢の警察官が巡回していた。幼稚園や学校も休みになったらしく、テレビでは市民に不要不急の外出を控えるよう呼び掛けていた。
警察では遺体を調べたのだが、使用された凶器が特定できないという。犠牲者の中には体を真っ二つに切り裂かれた者もいた、しかしそんなことが可能な道具――例えばチェーンソー等を脱獄囚が入手できるかが疑問視されているとのことだった。
事件を取り上げたニュースのページをスマートフォンで閲覧しながら、一月は小さく溜息をついた。
凶器が特定できないのは当たり前だ。犠牲となった人間達は獄鏖鬼の力で殺された、つまり凶器など使用していないのだから。
(琴音の時と、同じか)
警察が捜査を展開しても、鬼の手掛かりは掴めはしない。
隣に座っている琴音が、顔を寄せてくる。
「事件の記事、見てるの?」
バスの中には運転手と、片手の指で数えられる程の乗客がいた。しかし、一月以外には彼女の姿は見えないし、声も聞こえない。
一月は、あえて人が座っていない一角の座席を選んでいた。ここならば、小声ならば琴音と会話しても走行音で掻き消され、他の誰かに聞かれる心配はないと思ったのだ。
「うん、もう……大騒ぎだよ」
少し声を絞りつつ、一月は答えた。
警察に行って全てを話す、という選択肢はなかった。話したところで信じてもらえないどころか、正気を疑われかねないだろうし、第一何の解決にもならない。
鬼を止めるには、自分が戦うしかない。今回で通算三度目の怪異に直面した一月は、それを嫌というほどに理解していた。
しかし天庭を失っている現状では、あの獄鏖鬼に立ち向かう術はない。
立ち向かう術はないが、できることはある。
「獄鏖鬼を止めないと、またあんな悲劇が……いや、あれ以上に酷いことが起きる」
何人もの惨殺死体を目にした、昨日の出来事を思い出しつつ一月は言った。
今こうしている間にも、獄鏖鬼が誰かをその手にかけているのかも知れないのだ。本来ならば一刻を争う状況だが、今戦っても勝てる見込みはない。
琴音が頷いた。
「そうだね……いっちぃ、また私と一緒に戦ってくれる?」
今までも、そして今回も、想い人である彼女は、この状況を理解してくれる数少ない味方だった。
「いや、むしろこっちから頼む……琴音、一緒に戦ってほしい」
琴音がもう一度、頷いた。
「もちろんだよ」
一月が手にしていたスマートフォンが鳴った、メールの受信を知らせる通知音だった。
届いたメールを開き、その内容を確認する。
「メール?」
琴音に「そう」と返しつつ、一月はメールを読み進めた。
その直後、バスのアナウンスが次の停車位置を告げる、そこは一月が目的としていた場所だった。
一月は降車ボタンを押した。バスに揺られることおよそ三十分、窓の向こうには見知らぬ景色が広がっており、一月が住んでいる場所からは遠く離れていた。
(ここだ……)
初めて訪れる場所なので、少なからず不安はあった。だが、そんなことで二の足を踏んでいられる状況ではなかった。
バスが停車する。料金を運賃箱に投入し、一月は琴音とともに下車した。
そこは街から離れた山中で、周囲を見渡すと木々ばかりが目に留まり、人の姿は見受けられなかった。
今一度、一月はスマートフォンを手に取った。幸いにも、電波は通じているようだった。登山が人気を集めている昨今では、山の中でも携帯電話が使えるよう電波対策が強化されている。この場所も例外ではなかったようだ。
人気がなく閑散とした場所……近くに水場があるのか、カエルの鳴き声がどこからともなく聞こえてきた。
スマートフォンで位置を確かめつつ、一月はアスファルトの地面に歩を進め始めた。
すぐにトンネルが見えてくる、その中に踏み入ろうとした時だった。突如、うねり声が一月の鼓膜を揺らしたのだ。
「っ……!」
一月は思わず足を止めた。
うねり声だと思ったそれは、トンネル内を風が吹き抜ける音だったようだ。
(驚かせる……)
一瞬ながらも、獄鏖鬼の咆哮かと思ってしまった。
赤黒い霧に包まれたその姿や、無残に命を奪われた人々の亡骸が脳裏に浮かび、一月は唾を飲んだ。
今から行こうとしている場所に、本当は行くべきではないのだろうか。自分の意思でここまで来たのだが、一月は思わず自問してしまう。
すると隣にいた琴音が、
「いっちぃ……」
何を言うでもなく、ただ一月を呼んだ。たったその言葉だけで、彼女が伝えたいことは理解できた。
立ち止まっている暇はない。こうしている間にも、獄鏖鬼はどこかで猛威を振るっているのかも知れない。一刻も早く、止めなくてはならないのだ。
鬼の恐ろしさを十二分に知っている一月は、すぐに使命感を取り戻した。
「ごめん、行こう」
琴音に告げ、一月は薄暗いトンネルの中へと踏み入った。
また風が吹き、うねり声のような音が鳴り響く。しかしもう、一月は立ち止まらなかった。




