其ノ拾七 ~迷走~
自室に戻った一月は電気を付け、誘われるようにベッドへと倒れ込んだ。
時計の針は夜十時に迫っており、獄鏖鬼と戦闘している間に三時間近くも時間が過ぎていたようだった。
明日までに仕上げなければならない大学のレポートがあったのだが、そんな物に手を付けている気力は残されていなかった。突如訪れた三度目の怪異、最強と称して間違いない鬼との遭遇、予期せぬ師との再会……想定外のことが起こり過ぎて、心身が疲弊していたのだ。
「ふう……」
飾り気のない部屋に、一月の溜息が発せられる。
普段ならばシャワーを浴びている時刻だが、今日はとてもそんな気になれなかった。殺された人々や、獄鏖鬼の姿が否応なく頭に浮かぶのだ。
あんな恐ろしい化け物が、この世に存在していただなんて。そう思った時だった。
「いつき……」
ベッドの傍らに立っていた千芹に名を呼ばれ、一月は彼女を向く。カーテンを閉めていない窓から月光が部屋に差し、千芹の白い和服を淡く照らし出していた。
意を決するような表情を浮かべると、千芹は言う。
「いつきの前でなら……もう大丈夫だよね」
その言葉の意味を問い返す間もなく、彼女は目を閉じると両手で印を結び、真言とも呪文とも分からない言葉を発する。
次の瞬間だった、眩い光が千芹を覆い包んだのだ。
「んっ……」
少しばかり目を逸らす、光はものの数秒で消え去った。
そこにいたのは千芹ではなく、一月の想い人である少女だった。思わず一月は、ベッドに横たえていたその身を起こした。
彼女の名を呼ぶ。
「琴音……!」
長く伸ばされた綺麗な黒髪に、少しの汚れもない白いワンピース、美しくもどこか儚げなその雰囲気。その全てが、これまでと何も変わっていなかった。
秋崎琴音、千芹という器を借りて幾度か一月の前に現れ、怪異に立ち向かう手助けをしてくれた少女だった。
姿は生前のままではあるが、それでも彼女は既に命を失い、この世から切り離された身だ。彼女の足元には影ができていなく、さらに部屋の窓にその姿は映っていない。
切なげに微笑みを浮かべ、琴音は言った。
「こんな状況だけど、また会えて嬉しいよ。久しぶりだねいっちぃ」
琴音が歩み寄り、一月の隣へと腰を下ろした。
想い人である少女と、また会うことができた――しかし一月には、再会を喜んでいるだけの余裕はなかった。
一月の顔を覗き込むように、琴音が顔を近づけてくる。彼女の長い黒髪が、さらりと揺れた。
「不安に決まってるよね、あんな恐ろしい鬼を見ちゃったんだもの」
部屋の壁を見つめつつ、一月は頷いた。
「まあね、またいつ襲われるか……」
天庭を破壊された以上、鬼に立ち向かう術はない。一月はそう思っていた。
こうしている間にも、獄鏖鬼は自身の元に迫っているのかも知れない。そう考えると、どうしても不安は拭えなかった。
「大丈夫だよ。黛先生が言っていたこと、覚えてるでしょ?」
琴音の言葉に、一月はかつての師が言っていたことを思い出した。
“あの獄鏖鬼は霊媒となる人物に取り憑いたばかりで、言わば不完全な状態だ。特定の個人を探し出せるほどの能力は有していないし、万全の対策を講じれば、止められる可能性は十分にある……もしも君に危険が及びそうになった時は、私がすぐに助けに行く”
黛が、別れ際に一月にそう告げたのだ。
あの現場に駆けつけてくれたことや、精霊と一緒にいたことから考えても、黛は一月同様に鬼の出現を感じ取る能力を有しているに違いなかった。
黛に師事し、剣道を学んできた一月は、彼の言葉ならば信用に値すると感じていた。きっと力になってくれるはず――そう思えたのだ。事実、今日は黛のお陰で窮地を脱することができたのだから。
「ああ、覚えてる。けど……」
しかしながら、一月には他にも頭に引っ掛かるものを感じていたのだ。
「気になってることがあるの?」
琴音の言葉に、一月は彼女に視線を向けた。
「獄鏖鬼に取り憑かれている人のこと……黛先生が言っていたことが本当なら、早く助けないとその人は完全に理性を失って、獄鏖鬼の一部にされてしまうってことだよね。だとしたら、急いで助けないといけないんじゃないかって……」
一月がこれまで遭遇してきた鬼とは違い、獄鏖鬼は生きた人間に取り憑き、洗脳することでその人物を凶暴化させていく性質を持つとのこと。
つまり、人を鬼に変えてしまう能力――凶暴無比な戦闘能力と、常軌を逸した殺戮衝動。苛烈極まる特性を併せ持つ獄鏖鬼だが、黛の言っていた通り、それこそが最も恐るべき点であると一月にも感じられた。
眉間に皺を寄せつつ、一月は続けた。
「どうしても気になるし、他人事だと思えないんだ。一体、誰が取り憑かれているんだろうって……」
琴音は、納得したように頷いた。
「そうだね、確かに……放ってなんておけないよね」
頭の中に、一月は獄鏖鬼の姿を思い浮かべた。
あの赤黒い霧の中には、獄鏖鬼に取り憑かれてしまった者がいるのだ。現時点では誰なのかなど分かるはずがないし、一月にとっては見知らぬ誰かであることは恐らく間違いないだろう。
だが、その者は鬼になることを望んだはずはない。
あの地獄のような惨状を作り出す大量殺戮を行う獄鏖鬼を、もしかしたら懸命に押し留めようとしていたのかも知れない。きっと、不本意に獄鏖鬼に取り憑かれてしまっているのでは――そう一月は考えていた。
男か女か、子供なのか老人なのか、どんな性格で、どんな人生を送ってきた人間なのか。手掛かりの一つもない今は想像すらできない。しかし一月の考えが正しければ、獄鏖鬼に取り憑かれているその人物は完全な被害者だ。
「だけど、一体誰なのか……」
一月が呟いた時だった。窓の向こうから、パトカーのサイレンの音が鳴り渡り、やがて遠ざかっていった。
思い出したように、一月はリモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。
液晶画面にニュース番組が映し出される、テロップには『凄惨極まる惨状・男女複数人の惨殺死体』とあった。
「っ、やっぱり……!」
テレビに映っていた場所を一目見て、一月にはそこがすぐにさっきまで自分がいた場所だと分かった。見覚えのあるトンネルに、街灯、道路……獄鏖鬼と遭遇した、あの場所だ。
通りかかった誰かが死体を発見し、通報したのだろう。現場には何台ものパトカーが止まり、赤色灯の光が踊るように闇を照らしていた。規制線の中では、幾人もの警察官が現場検証を行っていた。
若い男性アナウンサーが、事件の説明をする。
『遺体は鋭利な刃物で切り裂かれたような物や、全身を強く打った物もあり、警察では殺人事件と断定して犯人の行方を追っています。また近隣住民に注意を呼び掛けると同時に、現場周辺のパトロールも……』
一月は唾を飲んだ。
これは警察が解決できる事件ではない。日本中の警察が束になろうが、恐らく自衛隊が投入されようが、鬼を止めるなんて不可能だ。
画面が切り替わり、アナウンサーは続ける。
『ここで、また新たな情報です。現場からは鶫ヶ丘少年刑務所から看守二名を殺害し、脱走した受刑者の囚人服と指紋が見つかっており、警察では同一犯による犯行とみて捜査を展開していく方針とのことです』
予期せぬその情報に、一月はあることを思い出した。
(永介が言っていたあの事件……!)
コンビニで永介が見せてきた、あのニュースだ。
刑務所の名前、看守が二人殺されたという点が一致していた。それに確か、その受刑者は刑務所の壁を破壊して脱走したとのことだった。
普通の人間に、そんなことができるわけがない。答えは簡単だ。その者は普通の人間ではないのだ。
パズルのピースを組み上げるように、全ての事柄が一月の頭の中で形になっていく。
獄鏖鬼の正体は、鶫ヶ丘少年刑務所から脱走した受刑者だ。確証こそないが、そう考えて間違いないと一月は思った。
「いっちぃ、これ……」
琴音と視線を合わせ、頷いた。これで、一月が次に取るべき行動が決した。
これから自分は、あまりにも過酷な真実に迫ろうとしている――もちろん一月は、そんなことを思いもしなかった。