其ノ拾六 ~殺戮ノ象徴~
一月と千芹、黛に薺と菘。彼らを覆い包むように渦巻いていた白い霧は、ものの数秒で晴れた。
遮られていた視界が開けると、その先に広がっていたのは全く違う場所だった。夜闇に包まれた町の一角で、一月にとって見知った場所だったのだ。
周囲にはマンションやコンビニが見受けられたが、遅い時刻なので人の姿はまばらだった。近所で誰かが花火でもしたのかも知れない、火薬が燃えたようなにおいが微かに漂っていた。
「とりあえず一月君、君の家の近くに転移したよ。獄鏖鬼の気配はないね」
周囲を一瞥して、黛がそう言った。
一月には、かつての師が誰かに話を聞かれないように気を払っていると思った。
向かいの道路を、数人の若者の集団が話しながら歩いていくのが見えた。彼らがこちらへ視線を向けたとしても、その目に映るのは一月と黛の二人だけだろう。千芹と薺と菘は精霊だから、常人には見ることも、その声を聞くこともできない。
黛は近くに設置された自動販売機に歩み寄り、小銭を投入して何か飲み物を購入した。
小さなペットボトル入りの飲料水が、一月に差し出される。
「ほら、喉が渇いたろう?」
緊張とストレスに晒される状況に身を置いていたせいで、彼の言う通り一月の喉はカラカラだった。少し戸惑いつつ、一月は「ありがとう御座います」と告げつつ受け取った。
黛は微笑みつつ頷くと、また自販機に小銭を投入し始めた。
「それにしても驚いたよ。ただならぬ気配を感じて駆けつけてみたら、まさか君達がいるなんてね」
ゴトンという音を立てつつ、黛が購入した缶入りのブラックコーヒーが自販機の取り出し口に落下した。
彼の言葉に一月は微かに声を発し、隣にいた千芹も息を飲んだ。
ブラックコーヒーのプルタブを開けつつ、黛は一月と視線を重ねた。
「一月君。それから……」
続けて黛の視線は、千芹へと動かされる。
「千芹さん……いいや、こう呼ぶべきかな」
ペットボトルを片手に、一月は会話を見守っていた。
「琴音さん」
黛は、千芹をそう呼んだ。
それは、既にこの世を去った一月の初恋の相手であり、存命の頃には一月と共に黛に師事して剣道を学び、そして千芹の大元となった少女の名前だった。
彼女の正体は本来、一月を始めとするごく一部の限られた人間しか知りえないはずだった。何らかの手段を用いて知ったのか、それとも初見で彼女をかつての弟子であると看破したのかは分からない。
正体を言い当てられた千芹は、驚きに小さく声を発した。しかし数秒後には落ち着いた面持ちを取り戻し、黛へと頭を下げた。
「お久しぶりです、黛先生。まさかこんな形で会うことになるなんて……」
黛は頷き、ブラックコーヒーの缶をぐっと握りながら言う。
「琴音さん……力及ばず、君を救えなかった。本当に済まない」
黛が言及しているのは、鵲村女子中学生変死事件のことだった。
今から五年以上も前、琴音が鬼に取り殺され、中学校の校庭にて変死体となって発見された事件。その後、殺害された琴音の魂が鬼へと吸収され、彼女の姿を持った鬼が廃屋に立ち入る者を次々と殺めていくこととなった――つまり、鵲村女子中学生変死事件は、一月が初めて体験した怪異の発端となった出来事だったのだ。
警察は大規模な捜査を展開したが、一切の手掛かりも掴めず、犯人は捕まらなかった。当然だった、琴音を殺したのは人間ではなかったのだから。恐らく今現在においても、この事件は未解決事件として警察の記録に残されているだろう。
真相を知っているのは、自分を含めた限られた人間だけだと一月は思っていた。しかし黛の言葉から察するに、彼も真実を知る人間なのだろう。
「いえ、そんな……! それよりも先生、あの鬼は……!」
黛はブラックコーヒーを少しだけ飲み、重苦しい表情を浮かべた。
「そう……獄鏖鬼だ、鬼のことは君達二人には説明不要だと思うが、あれ程の鬼に遭遇した経験はないだろう?」
一月の脳裏に、獄鏖鬼の姿が浮かび上がった。
姿だけでなく、あの怪物が放つ威圧感や、殺された人々の無残に切り刻まれた亡骸までもが、鮮明に蘇ったのだ。
獄鏖鬼を除いて、これまで一月は二度鬼と遭遇した。最初は琴音、二度目は由浅木瑠唯だ。しかし殺気も威圧感も、そして戦闘能力も……獄鏖鬼はまるで桁違いだった。
「黛先生、あの鬼は一体……!」
一月が問うと、黛はまたブラックコーヒーの缶に口を付けた。
「獄鏖鬼……苛烈極まるその性質から『殺戮の象徴』と称される、極めて特異かつ危険な鬼だ。ある一定の条件を満たさなければ出現しないんだが、ひとたび現れればその並外れた殺戮衝動・戦闘能力を振るい、視界に捉えた人間を手当たり次第に餌食にしていく」
殺戮の象徴、という言葉が一月の頭の中を反響する。
琴音の時も、そして瑠唯の時も、鬼が現れた時は数多くの犠牲者が出た。しかし獄鏖鬼の出した被害者の数は、現時点においても既に琴音や瑠唯のそれを上回っているかも知れなかった。
黛の隣に立っていた薺が、後に続けるように言葉を発した。
「だけど、恐ろしいのはその点だけじゃないんです」
続けて菘が、
「他の鬼と違って、獄鏖鬼は生きた人間に取り憑くの。そしたらその人はどんどん凶暴になって、最後には自分を失くしちゃうんだよ!」
落ち着いた感じのある姉とは対照的に、活発な雰囲気を放つ口調で続けた。
「自分を失くす……? それはつまり……」
一月が問うと、黛が答えた。
「分かりやすく言えば、獄鏖鬼はその邪念によって取り憑いた人間を『洗脳してしまう』ということだ。洗脳された人間は殺人をしようが何をしようが、罪悪感など微塵も感じなくなる……つまり生きながらにして、鬼と変わらない存在になってしまう。考えようによっては、獄鏖鬼の最も恐るべき点かも知れないな」
一月は、自身の頬に一筋の汗が伝うのが分かった。
そしてあることに気が付き、黛に問うた。
「つまり今、誰かが獄鏖鬼に取り込まれようとしているってことですか?」
黛は頷き、
「その通り。どうやらまだ完全ではないようだが……いずれ完全に融合し、取り憑かれている者は自我を失ってしまう。そうなれば獄鏖鬼は、今以上の力を発揮するようになるだろう……」
薺が歩み出て、
「そうなれば、もう私や菘の力でも足止めすらできなくなるかも知れません……」
一月は瞬きも忘れていた。さっき黛に買ってもらった、飲料水入りのペットボトルを持つ手が、いつしか震えていた。
獄鏖鬼の姿を思い返しつつ、思った。
(誰なんだ、一体誰が獄鏖鬼に……)