其ノ拾五 ~黛玄正~
黛玄生。数年ぶりの再会ではあったが、顔を一目見ただけで、一月には彼がかつての師だと分かった。
忘れようにも忘れられはしないだろう。入門当初には剣道の基礎から丁寧に指南し、時として厳しい面を見せたことはあったものの、基本的には優しく温厚に接してくれた、父親のような人物。一月にとって、そして同門であった琴音や蓮にとってもきっと、黛は尊敬に値する師匠だった。
いつか一月が黛の消息を探った時、彼は病を患って村外の病院へ入院していると聞かされた。その彼がなぜここに、しかも精霊を二人も連れて――尋ねたいことはいくつもあったが、今はそんな猶予はなかった。
二人の精霊が駆け寄ってくる、薺が先んじて口を開いた。
「先生、獄鏖鬼を足止めできる時間は僅かです」
姉の言葉に、菘が続く。
「早くしないと、あいつまた動き出しちゃうよ!」
薺と菘の容姿は非常に似ていて、背格好もほぼ変わらなかった。彼女達の着物の色が違わなければ、見分けがつかなくなると思うほどだった。
しかしその話し方は対照的で、薺はどこか落ち着いた雰囲気を醸していたが、菘の声は姉のそれよりも大きめで、やんちゃなように感じられた。しっかり者の姉と、おてんばな妹。一月にはそう見えたのだ。
一月は獄鏖鬼へと視線を向けた。彼女達の攻撃を正面から受けた獄鏖鬼は、その場に蹲るようにしていた。手痛いダメージを受けたからなのか、それとも薺と菘の攻撃には、鬼の身動きを封じ込める効果があったのかも知れない。
いずれにせよ、この場を離れるなら今だった。
「分かった。薺、菘、頼む」
黛が二本の刀を鞘に収めつつ言うと、薺と菘は同時に頷いた。
真言を唱えた時と同じように、彼女達はお互いの手の平を合わせ、目を閉じて詠唱し始める。
途端、どこかからか発生した白い霧が渦巻いて、一月と千芹、そして黛と薺と菘を覆い包んでいく。
「これは……」
見覚えのある光景だと感じた直後、一月の視界が真っ白に染まり、光に満たされた。
◎ ◎ ◎
体の自由が戻ると同時に、蓮は顔を上げて周囲を見渡した。
道路やトンネルや、路肩に生い茂った雑草、そして幾人もの惨殺死体……それらを照らす街灯が視界に入る。しかし、彼が標的としていた者達の姿はなかった。
人の気配が消えたそこには、虫の鳴き声がどこかからか鳴り渡るのみだった。
《逃がしたか》
赤黒い霧が消えていき、蓮の姿が現れる。獄鏖鬼としての力を解いた今、蓮はただの人間だった。
「ああ、そうだな」
暗い道路を歩きつつ、蓮は言った。
辺りには血と内臓の生臭い臭気が漂っていたが、もう何とも感じなかった。それどころか、ゴミのように引き裂かれた死体を見て『いい気味だ』とすら思った。
とりあえずこの格好でいるのはまずい。そう思った蓮は、辺りの死体から血が付いていない部分の服を奪い、その場で着替えた。
囚人服を投げ捨てると、自分の行動について思いを巡らせる。これからどうすべきか……そう考えた時だった。
《復讐……》
姿の見えない存在が、そう告げた。
「復讐?」
《その通り》
血の臭いを含んだ生温かい風が吹き、蓮を覆い包んだ。
《それがお前の望みだったろう、蓮。お前がこんな運命を辿ることになったのは、他の奴らが幸福を独占していたからだ……そうは思わないか?》
悪魔の囁きのようにも思える言葉だった。しかし蓮は、耳を塞ごうともしなかった。いや、仮に耳を塞いでも、その声は遮断できないだろう。
植え付けられた種が発芽するように、蓮の中で再び憎悪が渦巻き始める。
《前にも言っただろう。今のお前にとっては全ての人間が敵、このままでは、お前はあの看守共が言っていた通り……誰にも知られずにくたばっていく虫ケラそのものだ。それでいいのか?》
蓮はその瞳を見開いた。突き上がるように怒りが沸き立ち、ギリッと拳を握った。
あの看守は惨たらしく殺したが、それで気が済むことはなかった。声の主が言う通り、憎むべき敵はまだ大勢いた。
これまでも蓮は、自分とは違い、幸福を享受しながら人生を謳歌している者達に少なからず敵愾心を抱いていた。この世には不公平が横溢していると、塀の中で幾度も感じていたのだ。
その敵愾心が今、火にガソリンを注いだように燃え盛ろうとしていた。
《俺が復讐させてやる。お前の怒りを、お前を見下し、嘲り、罵ってきた奴らに思い知らせてやれ。もう誰も、お前を蔑むことができないようにしてやれ》
どす黒い悪意が氾濫し、蓮の思考を、心を染め上げていく。
絞り出すように、蓮は発した。
「だけど、またさっきの奴らが来たら……」
何者かは分からないが、先程現れた者達――あの緑と黄色の和服を着た少女達は、蓮に攻撃を加えて身動きを封じた。敗北したとは言い切れないが、結果的に蓮は彼らを取り逃がしたのだ。
次にまた出くわせば、同じ結果になるのでは、そんな蓮の考えを先読みするように、謎の声は告げる。
《心配するな。俺が本来の力を発揮すれば、あんな奴らは敵にすらならない》
「本来の力だと……?」
あれだけ大勢の人間を殺しておきながら、まだ本気ではない。そういうことだった。
《俺の力の源は人間の命……もっと大勢を殺せば、俺はさらに強大になれる……どうだ蓮、話に乗るか?》
返すべき答えは、ただ一つだった。
「ああ、分かった」
暗い夜道に、蓮は歩を進め始めた。その最中、彼は問う。
「お前、名前は?」
《知らなかったのか?》
血の臭いを内包した風が、また蓮の全身を撫でた。
《鏖殺の鬼……獄鏖鬼だ》