其ノ拾四 ~予期セヌ助ケ~
天庭と千芹の霊力を合わせた攻撃も、通じなかった。
そればかりか、天庭が反撃によって折られてしまった。それほどまでの力を獄鏖鬼は有していたのだ。
武器を失った今、成す術がない。そうでなくともこんな鬼、止められるはずが……そう思った時、空中で天庭と分離した千芹が一月の側に降りてきた。
「そんな、天庭が折られるなんて……!」
彼女にとっても、想定外のことだったようだ。
折れてしまった天庭は、アスファルトの道路の上で街灯の明かりを受け、虚しく煌めいていた。
《終わりか?》
その声に、一月は振り返った。
獄鏖鬼は急ぐわけでもなく、ゆっくりと一月と千芹に歩み寄ってくる。まるでじわじわと獲物を追い立てて、楽しんでいるようにも思えた。
天庭を折るほどの力を見せつけられた今、一月の目にはその姿がより威圧的に映った。捕らえられて存分に嬲られ、最後には全身をズタズタに引き裂かれる自分の姿が想起され、恐怖にまばたきもできなくなる。
(勝てない……もう、逃げるしか……!)
しかしすぐに、それも所詮は下策だと気づく。
逃げる? 一体どこへ? 逃げたとしてもすぐに追いつかれ、捕まるだけだ。
獄鏖鬼から逃げることなどできない、天庭を折られた以上、戦う術もない。逃げることも、戦うこともできないならばもう……そう思った時だった。
一月を庇うように、千芹が彼の前に歩み出たのだ。
「させない……!」
だが、彼女は小刀を失い、霊水も効果がなかった。獄鏖鬼に応戦する術など持ち合わせていないはずなのだ。それでも一月を守ろうとするのは精霊の性なのか。あるいは『彼女』の意思が、千芹に投影されているのかもしれなかった。
一月が何かを言う前に、獄鏖鬼が迫ってきた。狙いは、千芹のようだった。
このままでは彼女が危ない――刃が千芹に届かんとしたその時、思わず一月は叫んだ。
「琴音っ!」
瞬間、それが起きた。
一月と千芹の前に誰かが現れ、その人物が獄鏖鬼に向かって何かを振り抜く。同時に緑と黄色の光が爆散した。
眩しさに、思わず一月は目を逸らす。
「っ!」
二色の光に押し返される形で、襲い掛からんとしていた獄鏖鬼が後退する。
するとその人物――右手には緑色の光を纏う刀、左手には黄色の光を纏う刀、計二本の刀を持った男が、振り返った。
「君達、怪我はないか?」
そう尋ねてくる彼の顔に、一月は大いに見覚えがあった。
驚きに目を見開き、
「まさか、あなたは……!」
するとその男もまた一月の顔を見つめ、表情を驚きに染める。
「君は……」
しかし、彼の言葉は耳を聾するような咆哮に掻き消される。二本の刀により迎撃され、後退させられた獄鏖鬼が体勢を立て直し、今にも襲い掛からんとしていたのだ。
一月に背中を見せながら、彼は告げた。
「すまない、話は後だ」
二本の刀を掲げ、彼は叫んだ。
「薺、菘!」
呼応するように、二本の刀から光が分離し、それらが二人の少女へと姿を変える。
それぞれ緑色と黄色の和服に身を包み、黒い髪を後頭部で丸く纏めた髪形の幼い二人の女の子――その服装や雰囲気から、一月には彼女達もまた千芹と同じ、『精霊』であると分かった。
しかし、二人いるのはなぜなのだろう。そう思った時、男が彼女達に言った。
「ひとまずこの場を離れる、時間を稼いでくれ!」
緑色の和服の少女と、黄色の和服の少女が応じた。
『はい、先生!』
二人の言葉が同時に発せられる。
緑色の和服の少女は三つの御手玉を、黄色の和服の少女は一つの毬をそれぞれの袂から取り出す。その御手玉も毬も、赤地に華やかな花の模様があしらわれていた。
容姿もそっくりな二人の少女は、同時に御手玉と毬を空へと放り投げた。彼女達の動作には少しの差もなく、一月には鏡を見ているかのようにも思えた。
すると、緑色の和服を着た少女が前方を見つめたまま言った。
「菘、いくよ!」
同じように前方を見つめたまま、黄色い和服の少女が応じる。
「うん、お姉ちゃん!」
そのやりとりで、一月にはようやく緑の和服の少女が『薺』、黄色い和服の少女が『菘』であることが分かった。それによく見てみれば、薺のほうが少しだけ背が高かった。精霊に年齢の概念が存在するのかは定かではないが、菘の『お姉ちゃん』という言葉から察するに、薺が『姉』なのだろう。
薺が左手を、菘が右手を差し出し、彼女達の手の平がぴたりと合わさる。それぞれの余った方の手で、彼女達は中指と人差し指を立てる印を結んだ。
そして、同じ真言が一秒の誤差もなく、薺と菘の口から発せられる。
『唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麽抳 鉢納麽 入嚩攞 鉢囉韈哆野 吽!』
薺によって放られた三つの御手玉が緑色の光を、菘によって放られた毬が黄色い光を纏う。まるで、彼女達の和服の色と連動しているかのようにも見えた。
真言によって鬼を払う力を込められ、本来重力に従って落下するはずだった御手玉と毬は、ピタリと止まって空中に留まった。
体制を立て直した獄鏖鬼が襲い掛かる。どうやら、標的を薺と菘へ変更したようだった。
逃げもせず、薺と菘はただ獄鏖鬼に向けてその手を勢いよく振り下ろし、標的を定めるように獄鏖鬼を指差した。その動作に連動するように、滞空していた御手玉と毬が光の軌跡を残しながら一直線に飛んでいく。それはさながら、緑と黄色に輝く弾丸だった。
かなりの速度を伴って放たれた三つの御手玉と毬は、真正面から獄鏖鬼に直撃した。回避の猶予など与えられなかったようだ。
緑と黄色の火花が爆散し、獄鏖鬼が後方へと跳ね飛ばされる。巻き上がった砂煙で、その姿が見えなくなった。
(僕らでは、まるで歯が立たなかったのに……)
一月と千芹では歯が立たなかった獄鏖鬼を退けた、薺と菘。ただ一月は驚くばかりだった。
獄鏖鬼が再び襲ってこないことを確認すると、二人の精霊を従えていた男が今一度、一月と千芹を向いた。
「まさか、君だったとはね。久しぶりだな……こんな所で会うとは思わなかったよ、一月君」
男に名を呼ばれても、一月はさほど驚きはしなかった。顔を見た時から抱いていた予感が、ただ確信に変じただけだった。
千芹が男の顔を見上げ、「まさか……」と声を発した。
「やっぱり、あなただったんですか」
男と視線を合わせて、一月は続けた。
「黛先生」