其ノ拾弐 ~猛襲~
獄鏖鬼から一月を救いに現れた少女、千芹。
鬼とは違えども、彼女もまた人知を超えた超常的な存在、『精霊』であることを一月は知っていた。彼が以前に経験した二度の怪異においても、彼女は一月が窮地に陥った際に姿を現した。そして一月が折れそうになった時は励まし、鬼に立ち向かう際にはともに戦いへ赴き、手助けをしたのだ。
命を救われたことも一度や二度ではない。千芹がいたからこそ、今の一月がいる――そう言っても過言ではなかった。
その彼女が戦う姿を、一月は見守っていた。
「はああああっ!」
勇ましい声を発しながら、千芹は青い光を纏った小刀で獄鏖鬼を切りつける。
攻撃は間違いなく命中した、命中していたのだが、赤黒い霧を纏う化け物は全く怯む様子を見せずに、その腕を振るって反撃を仕掛けた。
千芹の頭上からの攻撃だった。振り下ろされた腕を、千芹は紙一重で避ける。数秒前まで彼女が立っていた位置に獄鏖鬼の攻撃が命中し、地震と錯覚するほどの振動とともに道路に大穴が空いた。
凄まじいまでの攻撃力だった、一撃でも喰らえば致命傷は免れないだろう。
(何なんだあの鬼、まるで怒りと憎しみの塊のような……)
その鬼の暴れように、一月はまばたきも忘れてしまう。
最初にその姿を見た時から、これまでの鬼とは何かが違うとは感じていたが、それが確信へと変わった。
赤黒い霧が人型を形作っているような外見に加え、威圧感も凶暴性も、そして戦闘能力も……あの獄鏖鬼は段違いだ。千芹の攻撃を受けてもまるで効いている様子がないことこそ、その証拠だった。
唾を飲み下して、一月は思う。
(誰なんだ、一体誰の負念があんな恐ろしい鬼を……!)
一月の知り得る限り、鬼とは死んだ人間が遺した怒りや憎しみ、そういった負念が形をとった恐るべき化け物だ。あの獄鏖鬼がこれまでの鬼とは一線を画する存在だとすれば、或いは違うのかもしれない。しかし鬼である以上、大元となった人間が存在するはずなのだ。
その人間はよほど誰かを恨み、憎んだということなのか……そう思った時だった。
「ふっ!」
千芹が声を上げ、後方へと飛び退く。
彼女のその動作で、一月は考えることを放棄した。今この瞬間にも、千芹は戦い続けているのだ。
獄鏖鬼から一旦離れた千芹、逃げたわけではなかった。このまま攻撃を続けても無意味と判断した彼女は、自らの切り札を繰り出すことを決したようだった。
小刀の刃に指を添え、彼女は口を開く。
「情愛は絆、絆は力、力は心によりて力たり……」
聞き覚えのある言葉だった、あれは確か……一月がそう思った次の瞬間、千芹はさっきとは別の真言を発した。
「阿毘羅吽欠蘇婆訶!」
呼応するかのように、彼女が手にした小刀に纏っていた光が増幅した。
淡く仄かに照らす程度だったそれが、周囲を眩く映し出すほどの光に変じたのだ。霊力を増強させ、鬼を打ち破る――千芹が有する能力の一つだった。
彼女が再び獄鏖鬼へと走り迫る、増幅した青い光が尾を引くように、夜闇に残光を作り出しているのが見えた。
獄鏖鬼がその腕を振るって迎撃する、千芹はその小さな身を横に逸らして回避し、懐へと踏み入った。
チャンスだ、と一月は思った。千芹も同様だったらしい。
至近距離まで接近すると、獄鏖鬼の胸部目掛けて千芹は小刀を突き刺した。真言によって強化された霊力をともなうその一撃は、間違いなく直撃していた。
しかし、
「えっ……!?」
千芹の驚愕の声が、一月の耳にも届いた。
彼女が驚いたのも無理はない、最初の攻撃を命中させた時と同様、獄鏖鬼には全く効いている様子がなかったからだ。
怯む様子すら見せず、獄鏖鬼の腕が振るわれる。
恐らく彼女の切り札と言えるであろう技を軽くあしらわれ、千芹は戦意喪失したような表情を浮かべていた。
「危ない!」
一月の叫びに、千芹は我に返った。しかしもう手遅れだった。
赤黒い霧に包まれた獄鏖鬼の腕が勢いよく振るわれ、千芹の腹部を打ち上げた。
「ぐあっ!」
苦悶の声を上げる千芹、彼女の小さな体が吹き飛ばされ、道路に転がる。
しかしそれでは終わらなかった。攻撃の手を緩めることなく、獄鏖鬼が彼女に向かって飛び掛かったのだ。追撃を繰り出し、止めを刺すつもりに間違いなかった。その胸部には光を失った千芹の小刀が突き刺さったままになっていたが、それを気に留める様子もない。
苦しげな表情を浮かべながら、千芹は身を起こした。
「うぐっ……!」
腹部を押さえながら立ち上がり、彼女は袂から竹筒を取り出して親指でその栓を抜く。
迫ってくる獄鏖鬼に向かって、その中身の液体――聖水を振りかけた。小刀を失っている今の彼女には、それが唯一の武器だった。
しかし、そんな行為は足掻きにもならない。獄鏖鬼は虫を払うかのごとく、その腕の一振りで聖水を蹴散らしたのだ。迎撃するどころか、その突進の勢いを弱めることすらできなかった。
千芹の身が危ういと感じていた一月は、すでに彼女の元へ駆け寄っていた。
獄鏖鬼の手が、千芹を捕えようと伸ばされる。それが届く前に間一髪、一月は千芹の小さな体を抱えて前方へと飛び出した。
勢い余って転げたが、間に合ったようだ。
「いつき……!」
彼女が名を呼んできて、一月は答えた。
「ごめん、さっき君は逃げろって言ったけど……そんなの無理だ」
彼女と視線を合わせたまま、一月は続ける。
「理由は、分かるだろう?」
千芹が何かを言おうとしたように見えた。
しかしその前に、獄鏖鬼の咆哮が鼓膜を揺らした。
「っ!」
振り返ると、獄鏖鬼は自身の胸に突き刺さった小刀を躊躇せずに引き抜き、投げ捨てた。
千芹の有する精霊としての能力はことごとくあしらわれ、まるで通じなかった。一体どうすればいい、あんな規格外の強さの鬼と、どうやって戦えば……そう思った時だった。
「いつき」
千芹の方を向いた一月は、彼女が抱えていた物を見て息を飲んだ。
どこから取り出したのだろう、それは大いに見覚えのある、鞘に収められた一本の古びた真剣だった。これまでに経験した二度の怪異において一月の強力な武器となり、鬼を退ける重要な役割を担った霊刀、『天庭』だ。
一月とまっすぐに視線を重ねて、彼女は言う。
「もう一度……わたしと一緒に戦ってくれる?」
その瞳の奥に、一月は自身の初恋の少女の姿を見た気がした。